目に見えない愛【KAC20253参加作品】
カユウ
第1話
朝日がカーテンの隙間から差し込んだことで、私は重い瞼をゆっくりと開けた。ベッド脇の時計を見ると六時十五分。あと十五分で起きなければならない時間だ。疲れた体を引きずるようにして、ベッドの上で体を起こした。隣では七歳になった娘の涼香がまだぐっすりと眠っている。冬の朝の光の中、その寝顔は天使のように穏やかだった。
私は思わず微笑み、娘の頬にそっと触れた。涼香は私の温もりを感じたのか、小さく身じろぎした。この小さな瞬間が、私の一日の支えだった。
ふと気づくと、また夕食の後片付けをしないまま眠ってしまったことを思い出した。本当はギリギリまで涼香の寝顔を見ていたかったが、後片付けをしなければ朝食が作れない。私はそっと布団から出て、台所へ向かった。もう半年近く、こんな日が続いていた。疲れ果てて洗い物もできないまま眠ってしまう。自分の怠慢を責めながら、静かにキッチンへと足を運ぶ。
しかし、キッチンに着くと、そこにはきれいに洗われた食器が水切りカゴに並んでおり、シンクや調理も拭き掃除されていた。まるで疲れた私を労わるかのように。
「また、来てくれたんだ……」
私はほっとした表情で呟いた。知らず知らずのうちに、胸に温かいものが広がる。
これは半年ほど前から続いていることだった。疲れ果てて子どもと一緒に眠ってしまった後、朝起きるとキッチンが綺麗になっている。最初は気味が悪かった。誰かが侵入してきたのかと思い、家中の戸締りを確認した。だが、誰かが侵入した感じはない。何回も続くので、スマホのカメラを設置したこともあった。でも不思議なことに、調理器具や皿が一人でに洗われていく映像しか写っていなかった。そのため、今では"キッチンの妖精"が疲れている私を助けてくれているんだと思うようになっていた。娘の涼香が、たまたま図書館で童話『くつやのこびと』を読んでいたこともあってか、"キッチンの妖精"と思うと、すんなりと受け入れることができた。この不思議な出来事は、あの事故の後から始まったように思う。
私は台所の隅に置いた小さな神棚のようなスペースに向かって、手を合わせた。そこには古い箱形の写真立てと、涼香が折った紙の鶴が置かれていた。
「いつもありがとう。今日も涼香と私を見守ってください」
私の切実な祈りは、朝の静けさの中に溶けていった。そして写真立てを手に取り、ほんの少しだけ開いた。中には、涼香が生まれたときの写真と、涼香が小学校に入学したときに二人で撮った家族写真が入っている。家族写真は涼香と私の二人しか写っていないのに、なんとなく右側が不自然に空いているようにも見える。何かが欠けているような違和感がある気がするのだが、私にはそれが何なのか分からなかった。
私は小さな会計事務所で働いていた。元々体が強くなかったが、シングルマザーとして涼香を育てるためには、この仕事を続けるしかなかった。
「絵里さん、大丈夫?顔色があまり良くないよ」
同僚の佐藤さんが心配そうに声をかけてきた。佐藤さんは会計事務所での勤務経験が豊富でいろいろと助け舟を出してくれる上に、些細なことも気にかけてくれる素敵な人だ。
「ええ、ちょっと疲れているだけだと思う。ありがとう」
私は笑顔で答えたが、実際には朝から頭痛が酷かった。
「あんまり根を詰めて無理しちゃダメよ。あの事故の後、無理しすぎじゃない?涼香ちゃんのためにも、自分を大切にしてね」
佐藤さんは優しく肩に手を置いた。
「え、ええ。そうよね。気をつけるわ」
私がそう言ったところで、佐藤さんが他の方に呼ばれ、離れていった。
「事故……」
佐藤さんの背中を見送りながら、私はぼんやりと呟いた。半年前、交通事故に遭ったことは覚えている。頭を強く打ち、一週間入院した。でも、その詳細はどこか霞んでいた。退院してからの生活もどこか不自然だったが、涼香のために前に進むしかなかった。ただ、時々、家の中に誰かがいるような気配を感じることがあった。だが、"キッチンの妖精"さんだと思い、意識的に考えないようにしていたのだ。
なんとか今日の仕事を終え、スーパーに寄って夕食の材料を買い、学童に涼香を迎えに行く。この日常のサイクルが、私の全てだった。
だが、今日はスーパーのレジで変なことがあった。レジで会計を済ませ、サッカー台で荷物を入れていると、通りかかった店員さんからこんなことを言われたのだ。
「あれ、今日はお一人なんですね。ご主人はお家ですか?」
私は一瞬混乱し、「え?主人?私は一人で……」と答えかけたが、その時、スーパー内で放送が入り、私に声をかけてきた店員さんが呼ばれたようだった。店員さんは「急に話しかけてごめんなさいね」と申し訳なさそうに謝って足早に去って行ったので、会話が中断された。
「ママ、おかえり!今日ね、学校で家族の絵を描いたの」
学童に行くと、涼香は元気いっぱいに私に駆け寄ってきた。
「まあ、素敵ね。家に帰ったら見せてね」
私は娘の頭を優しく撫でながら答えた。
家に帰ると、私はすぐに夕食の準備に取り掛かった。涼香は宿題をしながら、時々私の様子を気にしていた。台所から漂う味噌汁の香りが、小さな家を温かく包んだ。
「ママ、買い物は一人で大丈夫だった?」
涼香が突然聞いてきた。
「え?もちろん、大丈夫よ。というか、いつも一人で行くじゃない。今日はどうしたの?」
私は台所から答えた。
「……ううん、何でもないよ。じゃあ、お祈りはした?」
「あ、朝はしたけど、帰ってきてからまだだったわね」
「あたしもお祈りする。妖精さんにお礼言わなきゃ」
涼香は真剣な表情で小さな神棚のようなスペースに向かって手を合わせた。その横には涼香が学校で描いたという家族の絵を貼り出していた。私と涼香の二人が描かれているのだが、右側に不自然な余白があるように見える。いろいろと気が利く子だけど、まだ七歳。勢いで描いて、バランスを崩してしまったのかもしれない。
私はそんな娘の姿を見て、心が温かくなった。二人だけの小さな家族だが、どこかで誰かが、"キッチンの妖精"さんが見守ってくれている——そう思うと心強かった。
「ねえ、ママ」
お祈りを終えた涼香が呼びかけた。
「"キッチンの妖精"さんって、パ……」
言いかけて、涼香は急に言葉を飲み込んだ。
「パ?パってなに?」
私は不思議そうに尋ねた。
「ううん、なんでもない」
涼香は小さく首を振った。その目には大人びた悲しみが浮かんでいるようにも見えた。私には理解できない何かを、涼香は知っているのかもしれない—そんな不思議な感覚に襲われた。でも、疲れていた私はそれ以上考えることができず、夕食の支度を優先することにした。
◇◇◇
「パパ?」
真夜中、あたしはトイレに行きたくて目を覚ました。寝室を出ようとしたところでキッチンから物音がしたので、恐る恐る覗いてみると、そこにはパパの姿があった。パパは神棚のようなスペースの前で静かに立っていた。
パパが振り返ると、人差し指を唇に当てて静かにしてと合図した。パパの目は少し赤くて、泣いていたみたい。
「涼香、起きちゃったのかい?」
パパは優しく微笑んでくれた。
「うん、トイレ……」
「それは大変だ。静かに行っておいで」
パパは廊下の電気を点けてくれた。真っ暗だった廊下が明るくなり、あたしは安心してトイレに行くことができた。
トイレを終えたあたしは、スリッパをもじもじとさせながら、パパの方へ歩いていった。
「……パパ、泣いてたの?」
あたしはパパの手を握った。
パパはあたしを抱き上げて、キッチンの椅子に座った。
「涼香にはバレちゃったか。でもね、大丈夫だよ」
パパはあたしの髪を優しく撫でてくれた。
「パパ、どうしてママはパパのこと見えないの?」
私は何度も聞いていた質問をまた繰り返した。どうしても理解できないの。なぜママにはパパが見えないのか。
パパはしばらく黙って考えていた。
「ママはね、パパだけが見えない病気なんだ。あの事故の後からね」
パパは言葉を選びながらも、答えてくれた。
「ママの目と心に、パパのことが見えなくなる壁みたいのができちゃったんだ」
「壁?じゃあママは、パパのこと忘れちゃったの?」
あたしの目に涙が浮かんできた。
「きっと忘れたわけじゃないと思うよ。ママの中に、パパはいる。ただ、今は見えなくなっているだけ」
パパはあたしの涙を親指で拭いてくれた。
「だったら、どうして一緒に住んでるの?ママには、パパが見えないのに」
あたしは今まで一度も聞いたことのない疑問をパパにぶつけた。なんとなく、これだけは聞いちゃいけないって思っていたことだ。
パパはあたしを見つめて、静かに微笑んだ。
「パパはね、ママと涼香が大好きだからだよ。愛している。君たちは、何者にも変え難いんだ。だからパパは、ママと涼香と一緒にいられるだけで幸せなんだよ」
パパの声は少し震えていた。
「それに、いつかママの目に、パパが見えるようになると信じているんだ」
「でもパパ、寂しくないの?」
あたしはパパの顔を両手で挟んだ。
「うーん、涼香には負担をかけちゃってるからな。今回だけ、正直に言うよ。とてもとても、とっても寂しい」
パパは初めて本当の気持ちをあたしに打ち明けてくれている。
「ママに話しかけても返事がない。触れても気づいてもらえない。ママがわざと無視しているわけじゃないのはわかってる。だけど、無視されるってこんなに辛いんだ。悲しいんだって思っちゃうと、寂しいなって思うよ。でもね……」
パパは小さな青い指輪を取り出した。結婚指輪だって。
「この指輪、ママとお揃いなんだ。ママはまだつけてくれている。だから、どこかでパパのことを覚えているんだと思うんだ」
確かにママは左手の薬指に結婚指輪をしていた。なぜか外す気にならない、と言っていた。
「寂しいは寂しいけどね。でも、ママが毎朝、”キッチンの妖精"さんにお祈りしてくれるのを見ると、少し報われる気がするんだ」
パパは微笑んだ。
「あたし、パパのこと妖精さんって呼ぶの嫌だよ」
あたしは不満そうに言った。パパは私の小さな肩を抱いた。
「涼香には辛い思いをさせちゃってて、本当に申し訳ないと思う。僕たち夫婦の問題に巻き込んで、本当にごめんね。辛いよね。だけど、もう少しだけママを待っててあげてほしいんだ。パパは、ママと涼香を愛している。ママのおかげで、楽しい結婚生活ができた。涼香とも出会えた。ママには、絵里には感謝しても、感謝しきれないよ。だから、僕はいつまでも絵里を待つつもり。だけど、涼香にそれを強いるわけにはいかない。次に涼香が待てないって思ったら、教えてほしい。涼香が楽になる方法を、一緒に考えよう」
「うん……いつか、いつかはママはパパが見えるようになるかな?」
あたしは希望を込めて聞いた。
「きっとなるよ」
パパは答えた。
「ママのことを一番診てくれているお医者さんもそう言ってくれている。でもね、ママが見えるようになるかどうかはわからないけど、パパは毎日ママと涼香を見守っているよ」
それを聞いて、あたしはパパにぎゅっと抱きついた。
「あたし、パパのこと毎日見えてるよ」
私はにっこり笑った。
「だからパパ、がんばって」
パパの目に再び涙が浮かんだ。
「ありがとう、涼香。さあ、そろそろ寝ようか。まだ起きるには早すぎるよ」
パパは優しく私の背中を押してくれた。
最後におやすみって言おうと思ってキッチンを出るところで振り返ると、パパは台所の神棚のようなスペースに小さな木彫りの猫を置いていた。
「それ、何?」
あたしは不思議そうに尋ねた。
「ママが昔から好きだった猫の置物だよ。一年目の結婚記念日に渡したんだ。引っ越しとかいろいろあってなくなっちゃったんだけど、ようやく新しいのが手に入ったんだ」
パパは説明してくれた。
「明日、ママがこれを見つけたら、何か思い出すかもしれない」
「ママ、猫好きだもんね」
あたしは嬉しそうに頷いた。
「あたしも何かしよう!」
「あ、ちょっと……」
パパが何か言おうとしたみたいだけど、あたしの耳には届かなかった。あたしは勉強部屋に入ると、折り紙を取り出す。そして、今まで折ってきた中で、一番丁寧に折ったって自慢できるくらい丁寧に鶴を折った。
そして、折り紙の鶴を持ってキッチンに戻ると、パパは困ったような顔をしていた。そんなパパの横を通り抜けて、木彫りの猫の横に、新しい折り紙の鶴を置いた。
「これでパパとあたしからのプレゼント」
あたしは満足げに微笑んだ。
翌朝、ママはいつものように目覚め、キッチンに向かった。いつも通り、夕食の食器は全て綺麗に洗われていた。夜、あたしがトイレに行ったときには、すでに洗い終わっていたみたい。
「本当にありがとう」
ママは小さな神棚のようなスペースに向かって深々と頭を下げた。
その時、ママの目に木彫りの猫が入ったみたい。
「あら、これは……」
ママは猫を手に取った。不思議そうに見つめている。
あたしは陰からそっとママを見ていた。パパも同じように、キッチンの隅からママを見守っていた。
あたしは静かに台所に入った。
「おはよう、ママ」
眠たいふりをして挨拶した。
「おはよう、涼香。ね、この猫の置物、知ってる?」
ママはあたしに尋ねた。
あたしは一瞬迷った。パパを見ると、小さく頷いてくれた。
「きっと、"キッチンの妖精"さんからのプレゼントじゃない?」
ママは首を傾げたけど、それ以上は考えなかったみたい。今日はあたしも一緒に朝食を準備し始めた。
台所の隅で、パパがあたしたちを見守っていた。ママが木彫りの猫に反応したことに、パパは嬉しそうだった。
「今日はいい天気ね」
ママが窓の外を見ながら言った。
「うん。土日も天気が良かったら、パパと公園に行きたいな」
あたしはつい言ってしまった。
「パパ?」
ママは不思議そうにあたしを見た。
あたしは何かいい言い訳がないかと思ったが、急に浮かぶわけもなく、あたふたしてしまった。
「あ、えっと、その……」
その時、ママの表情が変わった。台所の入り口を見つめている。パパが立っているところ。
「今、誰かいたような……」
ママは目を細めて入り口を見つめた。
あたしは息を飲んだ。パパも固まったように立ち尽くした。
「見えなくなっちゃった。もしかして、"キッチンの妖精"さんかな?」
ママは軽く笑った。
「あ、涼香。今日は学校で何するの?」
そしてそのまま話題を変えたママに同調して、朝食の準備を続けた。
あたしは心の中で誓った。いつかママの病気が治るまで、パパの代わりに見守ること。そして、パパの愛情を伝え続けること。ママの横に立ち、一緒に朝の神棚のようなスペースに手を合わせた。でも、あたしの視線は神棚ではなく、その隣に立っているパパに向けていた。
パパはあたしたちを見守りながら、静かに微笑んでいた。パパの存在はママには見えないけど、この家の中で確かに生きていた。目に見えない愛で、家族を支え続けていた。
ママは何も知らずに、今日も一日の始まりに感謝の祈りを捧げた。
「今日も涼香と私に幸せな一日をください」
そして、ふと木彫りの猫を見つめ、「なぜだか、今日はとても懐かしい気持ちがするわ」と呟いた。
その時、ママが一瞬だけ、何かを聞いたような表情をした。パパが話しかけていた。
「もちろんだよ、絵里。いつまでも君たちを守るから」
ママは振り返ったけど、パパが見えないみたい。でもママの表情が柔らかくなったのを見て、あたしは嬉しくなった。
パパはママの横顔を見つめながら、小さく呟いた。
「いつか必ず、また君の目に映りたい」
あたしはパパの方を見て、小さくウインクした。
朝日が三人を包み込み、新しい一日が始まった。
あたしは知っている。ママとパパとあたしの間にある目に見えない愛のことを。いつか必ず、ママの目にもパパが見えるようになるって。それまでは、あたしがパパとママの間の架け橋になる。それが私の大切な役目なんだから。
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