妖精のキス

楠秋生

妖精のキス

 寝坊していつもよりかなり遅い十一時前に出勤した茉莉は、パソコンを起動だけしてコーヒーを淹れにいった。昨夜はクライアントと飲みに行って、そのまま夜中までつきわされたから、二日酔い気味だ。フレックス勤務だから問題はないけれど、茉莉はどちらかというと早めに出退勤したい方だから、今日は朝から出遅れた気分だ。

 コーヒーの芳しい香りを吸い込みながら席に着く。それから通勤電車の中で思いついた言葉をパソコンに入力する。


『妖精のキス』 


 ティーンエイジャー向けの化粧品のコピーだ。


 うん。これは決定ね。軽やかでいい感じ。


 昨夜、スナックでさんざん聞かされた商品への思い入れは、しっかり頭に入っている。キーボードを叩いて、書き足していく。


『妖精のキスがくれた魔法』

『妖精のキスで素肌かがやく』


 あ、『美肌』かな。ううん、やっぱり『素肌』、だな。まだすっぴんでも十分にきれいなお肌の年頃だもの。でも、な~んだかしっくりこないなぁ。


『妖精のキスでかがやく素肌』

『妖精のキスがくれた魔法で素肌かがやく』


 語順を入れ替えてみたり、つなげてみたりしてみる。


「う~ん。『妖精のキス』は、いいと思うんだけどな。若い子が喜びそうだし」


 ぶつぶつ呟きながら、コーヒーをすする。

 しばらく画面をながめてから、気持ちも画面も切り替えて別の作業に取りかかる。一旦違うことをした方が、いいアイデアが浮かぶことがよくある。残り少ない午前中は、書類作成の時間にあててしまおう。


 書類を提出して、別のクライアントと打ち合わせし、社内ミーティングを済ませた後、遅めの昼食にする。

 フリースペースの隅の日当たりのいい場所にパソコンを持ってきて陣取ると、サンドイッチにかぶりつきながら例の化粧品のことを考えた。アルファベットの方がいいかな。

 

『妖精のKiss』

『妖精のKissで目覚める素肌』


 目覚める、は眠ってるみたいね。もう少し年齢層が上になっちゃうかなぁ。


『妖精のKissで甦る素肌』


 いやいや、甦るって若々しくはないか。これだと更に上だな。


 う~ん、と伸びをしてそのまま頭の上で腕を組み目を閉じた。

 頭の中でいろいろな言葉を思い浮かべて案を練る。


「ねぇねぇ。『妖精のキスがくれる』ってことは、中に妖精がたくさん入ってるの?」


 耳元でそんな声がして目の開けると、机の上にクリーム瓶とチューブが置いてある。


「あれ? 昨日もらったサンプル、持ってきてたっけ? ていうか、こんなに大きかった?」


 瓶は直径が十センチ程もある。キムチでも入ってそうなサイズだ。隣にあるチューブもばかでかい。

 不思議に思いながらも使用感を確認してみようと、チューブを手に取りキャップを開けた。


 すると。

 まだ押してもいないのににゅるっと中身が出てきた。


「うわっ。こぼれる!」


 慌てて手のひらで受け取ると、ぱんっと弾けて妖精が現れた。サイズは茉莉のもっていたイメージよりかなり小さく、一センチにもみたない。


「キスする?」


 妖精は茉莉の顔に向かってきて囁く。返事に戸惑っていると、目の前の妖精の向こうに大変なものが目に入った。キャップを開けたままのチューブの口から、次々と妖精が出てきている。


 にゅるり、ぱんっ。にゅるり、ぱんっ。


 そしてみんなして茉莉の顔に飛んできて、「キスする?」「キスする?」「キスする?」と連呼する。茉莉は慌ててチューブのキャップを閉めた。

 それでもすでにたくさん出てきていた妖精たちは、まるで巣箱の周りのハチのように顔の周りに群がってくる。茉莉が思わず顔の前でぶんぶん手を振りまわすと、いつの間にか妖精たちはいなくなっていた。


「……一体、なんだったの?」


 茉莉は目の前のチューブと瓶をながめた。それから、よせばいいのに怖いものみたさで、そろりと瓶の方に手を伸ばす。


「チューブと違って、勝手に出てきたりしないよね?」


 そろりと蓋を回して、ほんの少し隙間を開ける。

 ……何も起こらない。


「何? さっきのは妄想? 幻想? だったの?」


 深呼吸して大きく蓋を開いて中を見る。


「うきゃ~~~っ‼」


 思わず叫んで飛び退った。


 瓶の中にはビー玉のような透明の球がぎっしり詰まっていて、その一つずつの中には妖精が入っている。そしてみんなして茉莉を物言いたげ見上げていた。

 「キスする?」「キスする?」「キスする?」というさっきの声が頭の中でこだまする。


「大丈夫か?」


 後ろから声をかけられ振り返ると、同僚の心配そうな顔があった。その肩の向こうには、何事かと様子をうかがっている他の席の人たちの姿。


「いや、急に叫んで椅子を倒して立ち上がったからさ。虫でもいたか?」


 そう聞かれて、もう一度机の上に目を戻す。


「え? あれ?」


 サンプルの瓶もチューブもない。机の上にあるのはパソコンと、食べかけのサンドイッチとコーヒーだけ。


 夢でも見たのかと、「なんでもないです~」と慌てて取り繕う。


 倒した椅子を戻して座り直し、パソコンに向きあう。

 画面には、『妖精のキス』の文字。


「妖精さんが嫌がってるってことかな……」


 茉莉はその文字を削除し、「根本から練り直し!」とサンドイッチを食べきってしまうと、おかわりのコーヒーを淹れに席を立った。


 

「妖精のキスは、そんなに安いもんじゃないのよ」


 耳元でそんな囁き声が聞こえた気がした。

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