あこがれを取り戻す日

イータ・タウリ

あこがれを取り戻す日

 俺はビルの屋上から、ニュートーキョーオンマーズNTMの夜景を見下ろしていた。

 高層ビル群が火星の赤い空に向かって伸び、サインパネルがNTMの文字を煌めかせている。


「そろそろ集団投与が始まるぞ」


 同級生のマーカスが腕のホロスクリーンを確認しながら言った。彼の瞳にはミッドナイトブルーのバイオインプラントが光っている。


 2125年7月、自由革命団『トリの降臨』が旧政権を打倒してから三週間が経過した。


 新政府は、『抗火星病薬』の解除薬を希望者全員に投与すると発表した。


「抗火星病薬は20年前から全市民に投与され続けた薬品だ。だがこれは人々の『あこがれ』という感情を抑制する副作用があったんだ!」


 とマーカスは新政府が発表したことをそのまま言った。


「お前、解除薬投与を受けるのか?」


 と俺は尋ねた。


「当たり前だろ!」

 

 マーカスは答えた。


「生まれたときから奪われていた感情を取り戻せるんだぞ。お前こそ、なぜ迷う?」


 俺は自分のホロスクリーンに写真を表示した。それには笑顔の両親と俺が写っていた。


「俺の親父は、抗火星病薬投与前は落ちぶれた芸術家だったが、今はRJ-9セクターの工場労働者として平穏にくらしている。それの何が悪いのか?」


 マーカスのホロスクリーンが、解除薬の投与開始を知らせる。


「それは抑圧された生き方でしかない……まぁ選択するのはお前だ」


 マーカスは言い放ち、屋上のドアへ向かった。


 俺は再び街を見下ろした。タワーの広告スクリーンに「あこがれを取り戻そう!」という新政府のメッセージが映し出されている。

 先行投与希望者の数は予想を下回ったそうだ。


「俺が今感じているのは恐怖か? それとも……」


 胸のなかに、経験したことない何かが芽生え始めていた。それは未知の感情、もしかしたら「あこがれ」の残滓かもしれない。


 抗火星病薬は元々はNTM市民を苦しめていた”地球への郷愁と憧憬”を抑制するものだった。

 火星生まれの俺にとってそれはどのように感じられるものなのだろうか?


 俺はゆっくりと立ち上がり、決意した。あこがれは危険かもしれない。だが、それが人間の証なら……


「マーカス、待ってくれ。俺も行く」


 火星の夕日が、彼の肩越しに赤く輝いていた。

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