第3話 唐突な幕開け

「なんだここ」

 気がつけば僕は音楽室の机ではなく、全く覚えのない石畳の道の上に立っていた。上を見上げると空は花曇りを少し明るくしたように真っ白で、ところどころからスポットライトのように陽光が差している。横を見ると木々の隙間から遠くに霧から顔を出した山の頂上が見える。かなり高い場所にいるようだ。そして石畳の先には、古い日本の旅館と都市部にあるガラス張りのビルを融合させたような高さも長さもはるかに大きな建物が、苔むした大岩のように自然に溶け込んでひっそりとそびえていた。不気味なことに旅館のような見た目なのに一切の人の気配がなく、まるでここには自分一人しかいないような直感が走った。


「どうも〜!」

 急に後ろから声がして、肩に手を置かれた。

「うあああっ!」

 思わず変な声を出してしまった。逃げる体勢をとりつつ振り返ると、そこには呆気にとられたような顔をした和装を纏った長身の男が立っていた。男は少しの間そうしていたが、すぐに気を取り直したようににこやかに質問をした。

「君、吾川学くんだね」

 なんで目の前の男は僕の名前を知っているのだろう。不気味な状況に恐怖を覚えながら僕は返答を続ける。

「はい。そうですけど」

「いきなり寝ていたらこんなところに来ていて混乱しているとは思うが、まずは私の話を聞いてくれ」

 和装の男は聞いてもいないのに今いる場所について喋り始めた。といっても、こちらもその情報については今一番欲しいものではあるので黙って耳を傾けることにした。

「まずこの場所のことなんだが、ここはざっくりいうと夢の世界なんだ」

 寝ていたので、その発想に至りそうなものだが、すっかりその考えは抜け落ちていた。理由はこの世界が夢にしてはあまりにも意識がはっきりしていたからだ。確かに僕はみた夢の内容は鮮やかに思い出すことができたが、夢の中で自由に何かをしたといった経験はなかった。少し考えると突飛な話だがこの時はなぜか腑に落ちていた。そして早くこの状況を切り抜けるために質問を投げかけた。

「なるほど、ということはこの世界から出ることも可能なわけですね」

「まあね。この世界で死に準ずるような体験をしたら現実の世界に帰れるよ。例えばそこの絶壁から飛び降りるとかね」

 その答えを聞いた瞬間、僕は横に向かって走り出した。後ろには一切目もくれず石畳みを突っ切り並木を避けて、霧が覆っていて下が見えない崖に、後先考えず地面を勢いよく蹴り込んで飛び出した。男が述べたことが嘘だった可能性も浮かんだが、全てが遅かった。僕の体は霧の天幕を裂き、ただ真下に弾丸のごとく落ちていった。いつのまにか僕の意識は消失した。



 体に電撃を打たれたような心地に襲われ、目を覚ました。

周りを見渡すと、眠たそうな顔をした生徒が並んでいて、楽しげだが音の小さなメロディーが流れる薄暗い教室だった。起きる時にかなり体をびくつかせてしまったようだった。しかしそんなこと誰も気にも留めていない。

 過ぎ去ってしまえば冷静になれるもので、あんな明晰夢めったにみられるものではない。そのためもうすこし見ておけばよかったなという気持ちになってきた。しかし何はともあれ危機は去った。僕は安心して、あるいは性懲りも無くもう一度眠りについた。


 「おや?思ったより早くきたね」

 ついさっき会った和服の男がニコニコと胡散臭い笑みをこぼしながらに近づいてきた。どうやら再びこの不可思議な世界に迷い込んでしまったらしい。先ほどと同じ、仙人が住んでいるような山の中の巨大旅館が目の前に現れていた。

 「思ったより早く?まるで僕がまたこの場所に来ることを知っていたような口ぶりですね」

 「まあね。だって君をここに呼んだのは僕だから」

 さも同然かのように男が答えた。なるほどだから最初あんなに眠くなったのか。でもそんなことをただの人間にできるのだろうか。

 「あなたは何者ですか?」

 「やっと気になってくれましたか!逃げる前に話くらい聞けばよかったのに」

 男は嬉しそうに冗談めかした文句を僕に向かって言った後、ごほんと咳払いを挟み口を開いた。

 「僕の名前はモルフェウス。この夢の世界の管理者だ」

 「モルフェウス?」

 「うん。遠い昔にその名前で呼ばれてたんだけど、気に入って使ってるんだ。他にはばくとか月読とか、時代と地域によっていろいろな呼び名がついてる」

 「えっと。モルフェウス?は神様なんですか?」

 モルフェウスという名前は以前に聞いたことがあった。確かギリシアの眠りを司る神の名前だった気がする。

 「う〜ん。厳密には違うかな。僕はなんというか人と集合意識が融合した存在で、この世界とも深い関わりがある話なんだけど」

 自分をモルフェウスと名乗った男は人差し指を額に当て考える仕草をした後、再び僕に向き直りどこかに指を指して言った。

「まあ、せっかくだしこの世界の案内をしながら諸々の説明をするよ。ついてきてくれ」

 指差した先には、あの巨大な旅館のような建物があった。


 僕は古い神の名前を語る男に連れられ、あの建物の入り口に続く道を進んでいた。最初にいた並木道を抜けると、ところどころ朱色が剥がれ、古ぼけた巨大な鳥居が立っていた。そこをくぐると僕たちが歩いてきた石畳みが雲海のように敷き詰められた小石を貫くように玄関まで続いていた。僕たちは建物の入り口に向かって光に照らされてキラキラと光る石の中を進む。

「さてどこから話そうか」

 不意にモルフェウスが口を開いた。

「さっき僕はこの世界を『夢の世界』を表現したけどこれは厳密に言えば少し違う。この世界はヒトの言語による思考が統合されてできた世界といった方が正しい」

「う〜ん。説明されてもピンと来ませんね」

「まあ直感では理解しづらいかもしれないね。では学くんに質問です。ヒトの思考は何によって作られているでしょう?」

 僕はいきなりの難しい問いに少し面食らった。例によってすぐには答えられずに唸りながらギブアップをした。

「わからないです」

「あら、じゃあ思考の補助線を引こうか」

モルフェウスは笑みを崩さずに一見無関係そうな別の質問をした。

「動物の人間の最大の違いとはなんだろう?できるだけたくさん答えてくれたまえ?」

 ふ〜む。これも難しいがさっきほどじゃない。僕も流石にプライドというものはあるので思いついたものから答えていくことにしよう。

「二足歩行をすること、理性を持っていること、あとは」

「言語をもっていること」

 この言葉を発した瞬間、モルフェウスの笑みがさらに大きなものになった。

「そうだね。ありがとう吾川くんそれが聞きたかったんだよ。言語は人類に複雑な思考形態と文化を与え、他の種族とは一線を画した繁栄をもたらした」

「しかし同時に言語は人間に同じように多層的な感情と苦悩も与えた。この世界はそんな人間の言語を介した感情を管理するために生まれたというわけだ」

「まあ、僕も最初からこの世界と共に在った訳じゃないから詳しいことはわかんないんだよね。ともかく、この世界の成り立ちと役割の説明は以上だ。何か質問とかある?」

 ここでぼくはさっきから気になっていた質問を投げかけた。

「うーん。そういえばなんで僕の名前知ってたんですか?」

「それはね、僕が寝ている人の情報を読む力があるからだよ。それで名前と諸々の君に関する情報を知ったんだ。あ!安心してくれていいよ。その人の人格に関わるような深い情報は基本読まないようにしているから」

 一瞬梢に関する記憶が頭によぎった。この話はあまり人に言いたくなかったから、僕はモルフェウスの言った言葉を今は素直に信じることにした。

 気がつけば、僕たちは玄関までたどり着いていた。雨が降るのか不明だが、瓦の敷かれた立派な屋根が入口を覆っており、両側には水で満たされた鉄錆色の古びた水甕が置かれていた。モルフェウスに連れられ中へ入ると僕はその広さと大きさに息を呑んだ。内部は巨大な吹き抜けになっており、部屋の内部で冷やされた涼しい風が辺りを舞っている。格子状に区切られた天井には朝顔や紫陽花、菖蒲など、色とりどりの鮮やかな巨大な花々の絵が描かれており、それは遥か上で空を覆っていた。雀色に磨かれた木が張られた太い廊下はまっすぐ奥が見えるまで続いていた。斜め上を見ると左右に上階が見えるようになっていて、明るい色の木で作られた手すりの隙間から部屋の扉のようなものが見えた。こんなに大きくて立派なのに、今のところここには僕とあの神っぽい人しかいない。一体誰のためにこんな立派な建物が存在しているのだろう。そんな疑問がふと頭をよぎった。

「吾川くんこっち、こっち」

 声がする方を見るとモルフェウスは廊下を歩いてすぐの左側の部屋から、首と腕を突き出して手招きをしていた。彼の後を追って部屋に入るとそこは体育館くらいの広さの大広間になっており、畳が敷かれた床の中心にポツンとテーブルと椅子が二脚置かれていた。天井には巨大な龍の絵が描かれており、2つの大きな目で地上を見下ろしていた。僕はそのまま黙って椅子とテーブルまで歩いて行き、2人で向かい合うようにその椅子に腰掛けた。

「よし!さっきので一応の説明を終えたし本題に入ろうか」

 モルフェウスは両手をテーブルの上で組み話を始めた。

「さっき言ったけど、僕とこの世界はヒトの精神の管理を司っている。本当は僕だけで管理できるはずなんだけど昨今の人口の増加でそうも言ってられなくなってきたんだよね。普通の人の精神の浄化ならなんの問題もないんだけどストレスが溜まって参っていたり心を病ませてしまった人の管理と浄化はかなりの負荷がかかる」

「そこで君には僕の仕事の一部を手伝ってもらいたいんだ」

 唐突でしかも全く予想だにしなかった『お願い』に僕は困惑して石のようになってしまい、すぐに返答をすることができなかった。しかしそれに構わず話は続く。

「具体的には僕が処理しきれない、苦悩が蓄積された人の心の掃除をしてもらいたい。あ!大丈夫最初は先にここで働いている先輩が教えるからさ」

「はぁ」

 いきなり言われてもいまいちピンと来なかった。ましてや、そんな得体の知れない意味不明な仕事をホイホイ引き受ける気にはさらさらならない。

「ちゃんと対価は払うよ?ただしお金ではなく時間で。この世界は、というか人の夢の中では時間はゆっくりと流れている。勤務時間と同じ時間を労働の対価として差し出そう。1日の時間が拡張されるということは生きる時間そのものが引き延ばされるということだ。そう聞くとなんだかお得な気がしてくるだろう?」

 ここまで話したところでモルフェウスの笑みは消え、一瞬深刻な顔つきになった。

「まあその条件を拒否したとしても、君には夢の掃除屋になってもらうことになるだろう。そうなるだけの理由が、君にはあるのだから」

「それは、どういうことですか?」

 突然モルフェウスが口にした聞く人が聞けば脅しとも取れるようなその言葉に、僕は心臓を乱暴に掴まれたような心地がした。モルフェウスは僕の質問を聞き、すぐにさっきのおちゃらけた雰囲気に戻った。

「それはね……。いけないもうこんな時間だ。いくら時間の進みが遅いと言っても限界があるからね。吾川くんその質問についてはまた後日話そう。君は一旦現実の世界に帰ったほうがいい。もうすぐ恐ーい先生が君のもとにやってくるからね。きっと叩き起こされるよ」

「それはどういう」

 僕は最後にさっきの言葉の真意を聞いておきたかった。しかしその願いを言う前にモルフェウスは笑ったままひらひらと手を振った。その瞬間僕の意識はまた消失した。

 

 目を覚ますと誰もいないがあかりが灯っている音楽室があった。周りを見渡すとさっきまで一緒に授業を受けていたはずのクラスメイトがどこにもいない。代わりに目の前にいたのは、怒りと呆れの感情が混じり合ったなんとも不機嫌そうな顔をした音楽教師だった。彼女の顔を見た瞬間、自分がいつ、どのくらい寝てしまったのかの察しがついた。さっきまでの超常的な体験のことはすぐに頭から吹き飛び、これから起こるであろう説教などの諸々の面倒臭いことを想像して、背中に嫌な汗が滲んだ。


 

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星海を、君と眺める夢を見た ツツジ @agawatika0309

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