あこがれ
夷也荊
憬れと言うよりも、恋。
彼にはもう既に、妻も子供もいた。それでも、私はどこまでも彼が好きだった。
初めて彼に出会ったのは、私が高校生になったばかりの頃だ。出会いとほぼ同時に、彼が妻帯者であり、立派な子供がいることも知った。今では紙に描かれた男性に恋をしたと言えば、アニメの推し活として認知されるだろう。しかし、私が高校生の頃は、まだ推し活という言葉がなく、オタクとか二次元趣味とか、マイナスの印象を持たれるだけだった。そう、私の初恋の相手は描かれた男性だった。
彼の威風堂々とした風格は、他と比肩することが出来ない。その眼光は、まるで邪気を寄せ付けない御仏の憤怒のようだ。しかし彼の目からはそれ以上の意志の強さが感じられる。立派で真っ黒な顎髭は腹の辺りまで伸びていて、父親としての威厳や大人の男としての権威を表していた。ロシア風の黒い外套は金色で縁どられ、中の中国風の赤い衣には龍の文様があった。この黒い外套と赤い衣の組み合わせは、彼のファッションセンスが光っている。左手には豪華な装飾で飾られた短刀が握られている。靴はつま先が赤く、胴の部分がオレンジのブーツを履きこなしていた。黒と赤という強い色の組み合わせに、このオシャレなブーツを合わせるところが、彼のこなれ感を感じる。どっかりと腰を下ろした椅子には、熊のような黒い動物の毛皮が張られている。黒くて太い眉毛と口ひげは、バランスよく配置され、威厳を保つのに一役買っている。肌の色は白く、体は大きい。彼を目の前にすれば、誰もがその存在感に圧倒されるだろう。
彼と同じ作者によって描かれたであろう彼の妻や、彼の息子も、堂々としている。しかし、特に息子は赤いロシア風の外套に、黒の中国風の服を合わせているが、これは偉大な父親への敬意を表しているのか、それとも彼の威を借る狐になろうとしているのか。ともかく、彼の息子や妻ですら、彼の風格を強調するものになっているようにしか見えなかった。
しかし、彼の印象は人によって大きく異なるから不思議だ。ある人々にとって彼は偉大な政治家であり、人々の命を守った功労者である。その一方で、彼を裏切り者とする声も大きい。それは彼の行いに対する見方が違うからだ。もちろん、私は彼がどう評価されようが関係なく、恋心は冷めぬままだった。
彼は昔、実在していた。ある土地を治める政治的なリーダーだった。そして彼が存命中に、他民族との間で大規模な戦争が起きた。それは彼の領土や領民だけではなく、他の領民や国を巻き込んだ争いだった。敵は交易関係にあった一国だけだった。敵国は交易において不平等な条件を突きつけたり、領民を見下したり、酷い扱いをしたりした。我慢に我慢を重ねた領民たちは、限界だった。そこで、諍いが戦争にまで発展してしまったのである。その戦争中に、彼はある決断をした。敵国側につくと言う、前代未聞の行動に出たのだ。身内からの反発も大きかっただろう。裏切り者の不名誉は、ここで付くことになったのだ。彼には他の十一人が従った。この十一人の中には、彼の妻と息子もいた。彼はこの十一人の中で、最有力者で、もっとも功績があった。つまり、最も裏切り者として名を挙げたことになる。彼は自分に従わなかった子供たちをも、敵国のために見殺しにした。
彼を裏切り者と呼ぶのは簡単だ。しかし、彼の領地の現状を見れば、優れた政治的リーダー像が浮かんでくる。非情なまでに揺るがない意志を持って、自分たちの土地と民を守ろうとする力強さ。そして判断力。彼が先頭に立ってこの決断をしなければ、彼の民は敵国に皆殺しにされ、土地も奪われていただろう。彼がいなければ、敵国に全て奪われ、文字を持たなかった民は、歴史上からも消されていたかもしれない。現在にまで彼らがその土地にいられるのは、彼がいたからかもしれない。彼は、自分の行動が裏切り行為だと知らなかったわけではないだろう。自分が裏切り者になることも、承知の上だっただろう。それでもあえてその誹りを受けながら、我が子までも見殺しにして、彼は守りたかったのだ。民の未来と、民が生きるその土地を。これ以上、民が傷つくことのないように、自分が将来受ける誹りなど、構わなかったのではないか。その生きざまを、私はひたすらにカッコイイと思う。
彼に会うことは出来ないが、私は瞼の裏にいつも彼の姿を想い描くことが出来る。そして、その姿を指でなぞり、一人で笑むことが出来る。幸せだ。
これが私の最初で最後の恋のお話し。誰にも理解されなくてもいい。彼がいたから、今の私がある。私が人物に対して、ここまで深く愛することはもうないだろう。
蠣崎波響筆 〈夷酋列像〉 ツキノエ
〈了〉
*参照文献
木下耕甫(編)
平成十二年 『白い国の詩』東北電力株式会社地域交流部。
あこがれ 夷也荊 @imatakei
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