きっと、この世界で僕だけが君を知らない
shiso_
雨の粒が窓ガラスを伝い落ちる日曜日
雨の粒が窓ガラスを伝い落ちる日曜日。
僕は重く湿った空気から逃れるように、レポートと共に街角のカフェに身を潜めた。
カフェの暖かな空気に紛れ込んだとき、それは唐突に僕の耳に届いた。
『この街の片隅で ひとり見上げる空は
誰かと見る空より ずっと青く見えるの』
店内のスピーカーから流れ出す声。
透明な水面のように揺らめき。
どこか折れそうな儚さを宿した歌声。
その言葉が、警告もなく心の最も脆い場所へと滑り込んできた。
あの日、僕もまた一人で空を見上げていたから。
水滴の連なる窓越しに見た空。
灰色の雲。
そして今、カフェの中で聴こえるその歌声。
店員の女性がコップを置きながら言った。
「この曲、いいですよね」
「誰の歌ですか?」
問いかける僕の声は、自分でも気づかぬうちに熱を帯びていた。
「空咲シオリっていう子。まだインディーズなんですけど、歌詞も全部自分で書いてて。私、ライブ行ったことあるんですけど、すごく素敵な子なんです」
『空咲シオリ』
その名前を心の中で反芻する。
カフェの窓際の席。
雨音。
そして彼女の声。
すべてが一つの記憶として僕の中に刻まれた。
◇
その日から、僕は空咲シオリの音楽に耳を傾け始めた。
ネット上の小さな存在。
小さなライブハウスでの映像。
観客は数十人程度。
それでも彼女は、まるで何万人もの前で歌うかのように、目を閉じ、身体全体で歌っていた。
文学部の学生である僕は、その歌詞の言葉選びに心を掴まれた。
飾り気のない言葉の連なり。
それでいて、どこか胸を掻き毟るような痛みを伴う誠実さ。
彼女の歌を聴いているとき、自分もまた誰かに理解されている ──
そんな不思議な感覚に包まれた。
◇
雨の日のカフェから三ヶ月後。
空咲シオリが小さなレコード会社と契約したというニュースが流れた。
インディーズながら、ネット上での評判が徐々に高まっていた彼女に、ようやく光が差し始めたのだ。
大学の食堂。
白い蛍光灯の下。
「直人、いつからアイドルとか好きになったの?」
友人の健太がからかうように問いかけてきた。
僕はいつものように彼女の曲をイヤホンで聴いていた。
そこだけ別の時間が流れているような錯覚。
「アイドルじゃないよ。シンガーソングライターだよ」
言い返す声に、自分でも気づかぬうちに防衛の色が混ざっていた。
「でも可愛いじゃん。ファンになったのもそれが理由だろ?」
健太の言葉に、僕は静かに首を振った。
「違うよ。歌詞がいいんだ。あと、歌い方が…なんというか、嘘がない感じ」
『嘘がない』
その言葉を選んだ瞬間、自分でもその正確さに驚いた。
彼女の歌声には、飾り気も計算も感じられなかった。
まるで自分の傷を晒すように歌う、その姿勢が僕の心を捉えたのだ。
「マジ過ぎてなんかキモいぞ」
健太の声は食堂の雑踏に溶けていった。
だが僕にとって空咲シオリは、単なる可愛い女性ではなかった。
彼女の歌は、僕の内面を映し出す鏡のように感じられた。
◇
デビューから半年。シオリの人気は波紋のように広がり始めていた。
小さなホールでのライブに足を運ぶようになった僕は、彼女の成長を静かに誇らしく思っていた。
最前列ではなく、ステージからそう遠くない場所。
そこに立ち、僕はいつも彼女の歌声に耳を傾けていた。
観客の数は、最初のライブから倍になり、また倍になっていた。
『彼女の魅力を知る人が増えている』
そう思うと嬉しくもあり、どこか寂しくもあった。
そして、メジャーデビューが決定したというニュース。
僕はSNSでシオリの公式アカウントをフォローし、彼女の活動を陰ながら応援していた。
初のアルバムも予約した。
スマートフォンの画面。
青白い光。
『メジャーデビュー記念! 初の握手会イベントを開催します♪ みんな来てね! #空咲シオリ #メジャーデビュー #握手会』
その投稿を目にして、僕は躊躇した。
これまでライブには足を運んだが、握手会は初めてだった。
列に並び、数十秒の時間を共有する。
『行くべきなのか』
心の中で問いかける。
だが、長い間応援してきた彼女に、一度でいいから「あなたの歌に救われました」と伝えたかった。
◇
握手会当日。
渋谷のCDショップに立つと、すでに長蛇の列が形成されていた。
男性、女性、年齢も様々。
皆、彼女のファン。
僕よりもずっと前からのファンも存在するのだろう。
胸が微かに締め付けられた。
列の中で、僕は何を話すべきか思案していた。
多くを語るのはシオリにとって迷惑だろう。
かといって、何も言わずにいるのも違う。
『歌詞に救われました』
『これからも応援しています』
単純だが、本心からの言葉。
それを伝えようと決めた。
「次の方どうぞ〜」
スタッフの声。
僕の番だ。
心臓の鼓動が高まる。
シオリは白いワンピースに身を包み、テーブルの向こう側に腰掛けていた。
実物は想像以上に華奢で、ステージ上よりも普通の少女のように見えた。
その姿に、僕はどこか安堵した。
「あの、いつも歌、聴いています。あなたの歌詞に何度も救われました」
緊張しながらも、僕は言葉を紡いだ。
シオリは目を丸くして、「本当ですか?」と問いかけた。
その瞳には驚きと喜びが混ざっていた。
「はい。特に『青空のメロディ』という曲が好きで。僕も、一人で見る空が好きなんです」
僕の言葉に、シオリの瞳が輝きを増した。
「わぁ、うれしい! あの曲、私の一番最初の曲なんです。インディーズの頃からのファンさんなんですね?」
「はい、カフェで初めて聴いてからずっと応援しています」
「ありがとうございます! 私も一人で空を見るの好きなんです。どんな時に見上げますか?」
まるで旧知の友と話すかのような自然さに、僕は戸惑いながらも言葉を続けた。
「講義の合間に屋上で、あとは実家に帰る電車の中で、窓から…」
スタッフが「お時間です」と声をかけるまで、僕たちは空の話に花を咲かせた。
時間は数十秒だったはずなのに、もっと短く感じられた。
「また来てくださいね! 今日はありがとうございました!」
シオリの笑顔は優しく柔らかだった。
『あの歌声の持ち主と、こんなに自然に話せるなんて』
帰路につく電車の中で、僕はその日の会話を何度も反芻した。
共通点が多くあって、どこか嬉しかった。
彼女との距離が、わずかに縮まったような気がしていた。
◇
夜の部屋。
スマートフォンの画面。
その夜、勇気を振り絞ってDMを送った。
「今日はありがとうございました。空の話、楽しかったです。今までの人生の中で1番楽しい時間でした。これからも応援しています」
送信ボタンを押した後、かすかな後悔が胸をよぎった。
『迷惑ではないだろうか』
『読まれないかもしれない』
『読まれても無視されるかもしれない』
だが、数分後、通知音が鳴った。
「こちらこそありがとうございました! 空の話、すごく嬉しかったです。インディーズの頃から応援してくれて、本当に感謝しています。また会いましょうね!」
シオリからの返信。
僕は何度も読み返した。
彼女は僕のことを記憶していてくれた。
空を愛する僕のことを。
寝る前、カーテンの隙間から見えた夜空。
そこに浮かぶ月は、いつもより大きく感じられた。
◇
翌日、僕は大学の屋上から空を見上げた。
晴れ渡った青空。
いつもより青く感じられた。
まるで彼女と同じ空を共有しているかのような感覚に包まれた。
『彼女も、今この空を見ているかもしれない』
風に吹かれながら、そんな空想に耽った。
それから数日後、シオリの新たな投稿が現れた。
『今日は同じ事務所の「NO.VA」のメンバーと「ぷりずむ GirlS」のみんなとゲームイベントに参加しました! 特に一堂リオくんとのゲーム対決が最高に楽しかった! こんなに笑ったの久しぶり! 人生で1番楽しい一日かも…♡ #ゲーム大会 #アイドル対決 #最高の一日』
写真には、シオリと男性アイドルグループ「NO.VA」のメンバー、そして女性アイドルグループ「ぷりずむ GirlS」のメンバーたちの姿があった。
特に中央では、シオリと若い男性アイドル(一堂リオと思われる)が笑顔でゲームコントローラーを手にしていた。
シオリの表情。
それは僕が見たことのないほど弾けるように輝いていた。
頬は上気し、目は月のように輝いていた。
まるで別人のように明るく開放的な笑顔。
『人生で1番楽しい一日…』
その言葉が胸を突き刺した。
僕との会話はどうだったのだろう。
空の話、楽しかったと思っていたが。
『私も一人で空を見るの好き』と言ってくれた言葉は…
シオリの笑顔は僕が目にしたこともないほど明るく、そこには純粋な喜びが満ち溢れていた。
DMを開いた。
「こちらこそありがとうございました! 空の話、すごく嬉しかったです。インディーズの頃から応援してくれて、本当に感謝しています。また会いましょうね!」
部屋の中に重く沈む沈黙。
呼吸をする度に痛む胸。
僕はスマホを置き、窓から空を見上げた。
夕暮れの空は、どこか物悲しい色を帯びていた。
橙色から紫へと移り変わる空 ──
── 美しいが、届かない。
僕は、彼女の歌から、彼女の心を理解したつもりになっていた。
空が好きだという共通点さえ、特別なことではなかった。
彼女がアイドル仲間と過ごす時間がそれほど楽しいものだとも知らなかった。
彼女の笑顔がここまで眩しいものだとも知らなかった。
『きっと、この世界で僕だけが君を知らない』
彼女はステージで輝くシンガー。
僕はただのファンの一人。
それ以上でも、それ以下でもない。
彼女の歌は、これからも僕の心に響き続ける。
それだけで、十分だった。
きっと、それだけで十分なんだ ──
◇
部屋に戻ると、デスクの上に彼女のアルバムが置かれていた。
再生ボタンを押すと、あの透明感のある歌声が流れ出した。
「この街の片隅で ひとり見上げる空は
誰かと見る空より ずっと青く見えるの」
その歌詞に、僕はまた心を慰められた。
彼女は知らないだろうが、僕はこれからも彼女の歌に耳を傾け続けるだろう。
窓から見える夜空。
雲が晴れ渡り、星々が瞬いていた。
彼女もどこかで、この星空を見上げているのだろうか。
それとも、誰かと語り合っているのだろうか。
僕にはわからない。
ただ、彼女の歌声だけが、確かに僕のそばにあった。
それは嘘のない、彼女の本当の声。
あの透明な歌声を、僕はこれからも愛し続けるだろう。
僕だけが彼女を知らないまま ──
── 同じ空の下で
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