東野美波は振り向かない
入間しゅか
東野美波は振り向かない
生育不良で。大学近くの公園で貼り紙を見つめながら東野美波は呟いた。生育不良のために伐採しました。と書かれた切り株の断面は執拗に切り刻まれていた。一列に綺麗に整列していた木々がほとんど残っていない。切り倒されなかった木々は互いに干渉しないように距離取っているみたいだ。美波は泣きたいと思った。泣かないけれど。
いつも通りベンチに座って、弁当を食べる。空を見上る。それは見慣れた空ではない。無駄にひろいと美波は思う。昨日まで枝葉に覆われていたベンチからの景色をうまく思い出せない。足元にはミミズが夏の日射しに焼かれて身をよじらせていた。地中に戻る方法をこいつはきっと知らないんだと美波は思った。そして、ミミズを踏み潰した。
昨日、美波は詐欺にあった。ヨレヨレのワイシャツ姿の冴えないオジサンに千円奪われた。電車賃がないんです。とオジサンは言った。某大手化粧品メーカーの名前を出して総務部に空きがあるから、助けてくれたらきみのこと社に紹介するとオジサンは言う。
就活が思うようにいかず、今日も面接で失敗した美波にとって、オジサンが人生を変える大きなチャンスに見えた。美波はその場でお金をオジサンに渡した。オジサンはありがとうと言って手書きのメモを美波に渡した。名前と職場の住所と電話番号が書かれていた。
騙されたと気づいた時、美波はすでに帰りの電車に乗っていた。バカすぎると美波は思った。住所を携帯で検索したが、駐車場だった。バカすぎるとまた美波は思った。面接での失敗も含めてバカすぎる。美波は何もかも嫌になった。泣きたいのに涙はでそうになかった。電車で泣くなんて恥ずかしいという気持ちが勝つこと自体が恥ずかしいと思った。ふいに千夏の顔が浮かんだ。千夏ちゃんならこんな時どうしただろうかと。
「ねえ、美波。きのう何食べたかきいて。」と千夏が言う。いつの間に隣にいたのだろうかと、ミミズを踏んだ足を動かせないまま美波は思う。そして、美波は千夏に言われた通りに尋ねる。
「きのう、私、彼のタンパク質とデオキシリボ核酸をたくさん食べた。」と言って千夏は得意げに上目遣いで美波を見た。
「そうなんだ。」美波は心に浮かんだ感想をそのまま伝えた。
「え、それだけ?」と千夏は納得のいかない様子で美波を睨む。美波はうんと頷く。
「美波はツッコミ覚えた方がいいよ。」
「そうかな?」
「そうだよ。あ、もしかして言ってる意味がわからなかった?タンパク質とデオキシリボ核酸って……」
美波はそっと千夏の口元に手をかざして首を横に振る。言わなくてもいいと。
「千夏ちゃんが彼さんのこと大好きなのは知ってるよ。でも、いきなり彼さんの精子たくさん飲んだって報告されても困るでしょ?」
「それもそうか。ごめん。」千夏は素直に非を認める。この素直さがいいと美波は思う。
「あのさ、千夏ちゃん。昨日詐欺にあった。」
「そうなんだ。」
「え、それだけ?」
「美波のマネ。」
「なんかやな感じだね。」
「美波じゃん、先にやったの。」千夏は勝ち誇った顔で美波を見る。
美波は千夏をあえて見ないようにして、詐欺の全容を話す。
「いるんだ、そんなバレバレな手口に引っかかる人……。てか、それただの乞食じゃん」
「千夏ちゃんはいいよね、就職決まってるから。」美波はできるだけ突き放した言い方にならないように気をつけて言った。
「美波は大袈裟だな。就職してもしなくても明日からそのオジサンみたいに乞食になるわけじゃないんだから。」千夏は笑った。それは朗らかな笑みであった。美波は思った。この笑顔が千夏ちゃんのいいところだ。
美波は公園で蟻を捕まえていた。できるだけ大きい蟻を選んで捕まえていた。両手に一匹づつ指で摘んで向かい合わせて、ゆっくりと近づけていく。始めは指から抜け出そうともがいていた蟻が次第に近づいてくる正面の蟻に敵意を示すように顎を大きく開いて威嚇し出す。そのうち戦いが始まる。美波は左右どちらの蟻が先に死ぬか考える。左の蟻生き残ったので、蟻を解放してやる。だが、右の蟻が前脚に噛み付いたまま事切れたため、左の蟻は死骸を引きづりながら歩く。そこを別の蟻に襲われ、蟻に運ばれていく蟻。美波は満足する。この満ち足りた気持ちはどこから来るのだろうかと考えることなく。
蟻の殺し合い。小学生の頃から蟻を見つけるとつい殺し合いをさせてしまう。踞っていた美波に誰かが声をかける。
「美波?東野美波だよね?」
美波はゆっくりとした動作で、ゆっくりとを意識して顔を上げる。小柄な女の子と思う。猫のようでもあり、狐のようでもある少しつり上がった一重の目だと思う。
「やっぱり美波だ。覚えてる?私、櫻井千夏だよ。」
「ああ、」と言ったが思い出せなかった。
「ほら、小中と一緒だったじゃん。」
「そうだっけ?」美波は脳内で卒アルをパラパラとめくる想像をする。何組だっただろうか。櫻井千夏ちゃん。千夏ちゃん。千夏ちゃん。
「ああ、千夏ちゃん……。」と声に出してみる。声に出せば思い出せる気がした。
「よかった。覚えててくれた。美波っていっつもぼーっとしてたから、忘れられてたらショックだったよ。で、何してたの?こんなとこで。」と千夏は小首を傾げて尋ねた。美波はさすがに蟻を殺し合わせてたと言ったら驚かれるだろうなと思って、ゆっくりと立ち上がる。ゆっくりとを意識して立ち上がる。立ち上がりついでに死んだ蟻を蹴散らす。
「なにも。ただぼーっと。」
「美波、変わらないね。」千夏は笑った。
「そうかな?」美波はどうしても千夏を思い出せなかった。
千夏は大学のキャンパスで美波を見つけて、後をつけていたのだ恥ずかしそうに言った。かわいい子だと美波は思った。
「いつも一緒だったよね、私ら。」と朗らかに千夏は笑った。覚えていないのに、美波は再会を喜んでいた。
生育不良で。美波はふと伐採された公園の木々に思いを馳せる。彼らもまさかある日突然切り倒されるなんて思ってもいなかっただろう。ベッドに仰向けに寝転んで、天井の染みを数えていた。今日も不採用の手紙やメールが届いていた。書類選考から先に進めないことが大半だった。
夕立。築四十年のボロアパートは雨が降ると雨漏りする。天井は染みとカビで点々と変色している。
美波は思う。千夏ちゃんは私には無いものを全部持っている。千夏ちゃんはきっと一人で天井の染みを数えたりしない。私には無いもの。小中学校での私との思い出。彼さん。内定。かわいらしさ。闊達さ。素直さ。
今日、美波はキッチンにわいた小バエに洗剤の泡をかけて殺した。ゆっくりと近づいて泡のついた指でそっと触れると素早い小バエでも簡単に殺せた。たくさん殺した。小バエたちにとってキッチンが世界の全てだったんだな。私は……と、ここで美波は染みの数をいくつまで数えたか忘れていることに気づく。
私には無いもので構成されている千夏ちゃん。生育不良で。蟻の死骸。乞食おじさん。染みとカビだらけの天井。私には無いもの。千夏ちゃん。そうか。卒アルだと思った時には既に美波は起き上がっていた。卒アルを一組から丁寧に見る。
美波は千夏ちゃん、千夏ちゃんといつの間にか呪文のように唱えている。千夏ちゃん。千夏ちゃん。櫻井千夏なんていないじゃない。どこにも。小中どちらの卒アルにも櫻井千夏なんていなかった。ずっといた。ずっと一緒にいたはずなの。と美波の呪文は変わっている。千夏ちゃん、私に無いもの。私に無いもの?それっていったい、なんのことだろう。泣きたい。生育不良で。
「美波。何で泣いてるの?」背後から、玄関の方から千夏の声。外は雨なのに、その声ははっきりと聞こえる。美波は咄嗟に卒アルを閉じる。見られてはいけないものを隠すように。
「千夏ちゃん……千夏ちゃんって、」と美波は呟く。自分の声の震えで泣いていることに気づく。ゆっくりと、ゆっくりとを意識して玄関の方へ振り返ろうとする。
「待って!」と千夏が叫ぶ。そして、諭すように、優しくあやすように言う。
「東野美波は振り向かない。振り向かないって私知ってるから。」
事実、美波は振り向かなかった。千夏の言葉に操られるように、振り向かずに美波には無いもので構成された千夏を、私には無いものだったのだと受け入れていた。その目にはもう涙は一滴もなかった。
雨は降り続き、キッチンの電球の周りを小バエが飛んでいた。雷が鳴る。電球がパチパチと音を立て点滅し、消えた。停電。誰もいない玄関には雨音に紛れ、たくさん無いものがあふれていた。
東野美波は振り向かない 入間しゅか @illmachika
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