その言葉を、言う機会はあるのだろうか
「……マストって、なんだろう……」
当時、その言葉は、初めて聞いた言葉だった。
文脈からも、何も理解ができない。
帆を張る? 違うな、マスト? ます? モス? モスバーガー食べたくなってきた。
あの時私は、会議が終わりモスバーガーを食べながらも、頭の中が真っ白になっていた。
マスト。
それが一体なんなのか。
どういう意味なのか。そしてそれに対して私の回答は、合っていたのだろうか。
総事業部長の顔からして合っていたはずだ。
だけども、あれは本当に、合っていたからの笑顔なのか?
もしかして、尖っている私を試した言葉ではないか?
本当は、素っ頓狂な回答をしていて、おいおいわかってないぞ、という笑顔だったのではないか。
誰か、マストという言葉を、教えてほしい。
後、総事業部長。あの人、送受信件数の資料、こっそり持って帰ったな……。
「――マストじゃない」
「?」
「うん。これだな。マスト」
「なんにゃ?」
「うん? マストって言葉だよ」
机に両肘を立て、両手を口元に持ってきて口元を隠しつつ、再度言う。
「今この時にこのように使うのは、マストではない。いや、あえてマストかもしれない。だからこそ、今回のこの資料はマストリードなんだよ」
マスト。
それは、必要である。~しなければならない、すべきである、外せない、欠かせない、必須という意味で使われる、ビジネス用語だ。
初めて聞いた若かりし頃。
そう言えば、あれ、使ってないな。
いつか使ってみたいと、意味を知った時に、どのような状況で使うのかは分からないものの、あこがれがあった。
あの言葉をあの場で使った総事業部長は、まさに言葉の最先端だったんだろうとも思う。
今にして思い出す言葉、マスト。
その言葉を聞いたときの私は、一般社員以下であった。
今は別の会社に転職し、社畜として生きてはいるものの、その会社でもある程度偉くなった。それを言っても差し支えない役職とも言える。
とはいえ、近いうちに、使ってみるのも悪くない。
が、その前に、娘は私にマウントを取られてとても不機嫌だ。まずはそれを宥めることがマストだな。
「そう言えば、パパ上さん。今度新人さんが来るんですよね」
社畜として今日も私は働く。
そんな中、部下の一人から、今度入ってくる中途採用の新人について、相談があった。
「ああ、そうだな。教育はマス――」
「教育は一週間くらいは必須だとして」
「ひ、必須……うん、必須。マスト、うん。必須だね」
「マストって。あはは、もう古くないですかそれ」
え。
……もう、古い、の……?
今となっては、総事業部長が持って行った送受信数の書かれたグラフ資料の行方だけが、心残りである。
【KAC20252】パパ上様日記 ~いつか言ってみたいあの言葉~ ともはっと @tomohut
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