4-4

 ドリンクバーで飲み物を注いでいると、後ろから華火くんがやってきた。彼も飲み物を取りに来たらしく、片手に空きのコップを握っていた。

「……楽しいな」

「そうだね」

「火魚も楽しそうで良かった。誘ってくれてありがとう」

「いいよ」

 僕はオレンジジュースを注ぎ終わったコップを取った。華火くんが、僕に代わってコップを注ぎ口に置いた。そして、そのまま、しばらく静止する。ドリンクを選んでいるのか、と思ったが、彼は言った。

「あのさ、海の夢で、ハルヤおじさんに会ったんだ」

 僕は目を丸くした。

「晴也さんに?」

「もちろん、あの夢に意味なんてないかもしれない。おじさんは言ってた。向こうは、声が必要ない世界だって。それは、気楽なことだって。だけど、それは、歌がないってことでもあるってさ。寂しそうで……なんか、それを思い出した」

「……へぇ」

 彼は、色んな種類のドリンクを少しずつ注いで、一つのコップの中で混ぜ合わせた。そうしてできたコップの中身は、どす黒くて汚い色をしていたけど、僕らはそれを見て笑いあった。

 僕らが部屋に戻ると、火魚ちゃんと小笛が、昭和歌謡のデュエットを歌っているところだった。二人はいつの間にか、随分と打ち解けていた。火魚ちゃんは、歌番組を好きで見ているおかげで、小笛の変な趣味についていけるようだった。

 僕は、この時になってようやく、小笛のついでのような流れで、火魚ちゃんと連絡先を交換した。そりゃあ、火魚ちゃんだってスマホくらい持っているというのを、なぜか僕は失念していたのだ。

 それから、思い思いの曲を歌って、時には合唱した。お腹が空いたら、フードも注文した。僕はオニオンリングを頼もうとして、火魚ちゃんが玉ねぎ嫌いであることを知った。火魚ちゃんがチョコレート・サンデーを頼んでそれを食べたとき、ほっぺたについたクリームを、華火くんが取ってあげているのが、微笑ましかった。華火くんが、みんなで分けるためにと頼んだフライドポテトを、小笛は一人でほとんど食べて、主に僕に顰蹙を買った。

 そこには、ずっと歌があった。音楽があった。僕らはそれに抱かれていた。


 ──太陽が沈んでいく。

「楽しかったー!」

「ほんとだね。また、みんなでどっか行こう」

「火魚ちゃん、どっか行きたいところはある?」

「……映画館。とか」

「おおー! いいね、火魚ちゃん。映画! アメコミのやつ! 見てぇ!」

「小笛さぁ、羽が邪魔で入れないんじゃないの?」

「え、うそぉ!」

「ほんとだ、テンシくんは、最悪両隣も予約しないと」

「うそうそ、おれだけ料金三倍? うそでしょ!」

 ──とりとめのない会話が、町中に溶けていく。

 僕らは、夕闇の中で列をなした。先頭を歩いているのは小笛で、一番後ろにいるのが僕だった。小笛の家がどこにあるのかは分からない。ただ、これは単にあてどなく、彷徨っている感じだ。それは実質的に、とても久しぶりの、気まぐれな遠回りだった。みんな名残惜しくて、解散を提案できずにいた。

 会計は、華火くんが済ませてくれた。不本意だったけど、彼は時之さんにお金を押し付けられてきたらしい。こういう時、子どもだけでそっとしておかずに、首を突っ込む空気の読めなさが親父の悪いところだと、華火くんが笑っていた。

 僕は改めて考える。あの日、目撃した天使のこと、あのプールの神秘的な威圧のこと。それは、僕が色眼鏡で世界を見ているせいで感じた、錯覚だ。いや、そもそも世界は、僕の認識一つで何もかも変わってしまうのだから、最初から何もかも錯覚の繰り返しなのかもしれない。僕の心の在りよう次第で、世界は汚染されうるし、漂白されうる。

 ならば、今までの全てを、悩みを、ただの考えすぎと決めて、今感じているある種の気楽さこそが本当だ、と思えるか? この俗世はかくも美しい、というように、まっすぐに決めてしまえるものだろうか。

 いや、やっぱり、そんなに簡単じゃない。

 あの夏で、僕が僕自身に眠る何かを、完璧に克服できた、だなんて、それこそ思い込みだ。今だって、それは証明され続けている。今、僕の前で揺れている、歩く火魚ちゃんの尻尾を見て、僕はあのプールでの出来事を思い出している、そして、それから意識を逸らしたくて、僕は結局、あの沈みゆく夕陽と、赤い空に目線を泳がせている。それが、僕の自然な心の動きで、逃れられない性だ。

 僕は、優しくありたい。本当にそう思っている。

 そして一方で、小笛みたいな友だちもいるということは、やっぱり、僕にとって悪いことじゃないのだろう。出し抜けに、小笛が口を開いた。僕は、ようやく前を向いた。

「あのさー、火魚ちゃん、その尻尾とか背鰭って、冬場冷えないの?」

「え?」火魚ちゃんが、不意を突かれたように顔を上げる。

「おれン羽もさー、冬とか、割と寒いんだよね。なんか防寒具とかさー」

「いや……あんまり、外に出ないから」

 華火くんが、さっきまでの僕と同じように、夏の夕空を見上げて言った。

「まだ夏だってこれからなのに……気が早すぎだよ」

「いやあっという間じゃん?」小笛が食い気味に反論する。「対策しないと」

 その時だった。僕が会話に混ざらずにいるのを察してか、火魚ちゃんが僕の方を振り向いた。

「ねえ、千鳥」

「なに?」

「編み物って、今もできるの?」

「ええっと」

 その言葉があまりにも想定外だったので、僕は固まった。

「え、千鳥、編み物とかできるの? すげー!」

 小笛が騒いでいるのが聞こえた。だが、僕はまた、じっと考えに耽り始めていた。

 それは、僕が、捨ててしまった特技であり、数少ない趣味だったもの。柔らかさの追求であって、自分を忘れてしまった大切な誰かとの、繋がりだったもの。

 不思議なもので、考え出すと、あの毛糸玉を触っていたときの感覚が、ありありと蘇ってくる。

 小笛の防寒具か。あの翼を覆う、袋みたいなことでいいんだろうか。開いたり閉じたりするわけだから、ある程度ゆとりと伸縮性が必要だし、なかなかに工夫と労力のかかりそうな仕事だ。それに、本人は言及してないが、あの毛のないむき出しの足こそ寒そうじゃないか。靴下か何かを作ってみてやるのもいいかもしれない。

 それと、火魚ちゃんには尻尾袋か、背鰭袋だ。とはいえ尻尾に関して言えば、あの大きさの尻尾をしまうというだけでも大変そうだし、不格好なものになっては申し訳がない。それに彼女は、なんとなくだが、皮膚を無理やり覆うようなのを嫌いそうな印象がある。彼女は家でもずっと裸足だった。それなら、今日はストールをしているわけだし、冬場に向けて大きなマフラーを作るというのも手だ。いや、糸が鰓に刺さって痛いかな。全く、彼女は何なら喜んでくれるのだろうか。

 華火くんはどうだろう。やはり、真っ先に思い浮かぶのは手袋だった。だけども、今の彼には、それは違うと言われてしまうだろうか。それなら、いっそセーターとかもいいかもしれない。服を借りたことの恩を返すという意味で、ちょっと大げさかもしれないけれど、ああ、それもいいな。

 僕は想像した。彼らが、僕の作ったものを身にまとっている。冬の日、それこそ、町はクリスマスの楽しげなムードに包まれていて、僕らはその中を、白い息を吐きながら歩く。

 それは愛のイメージだと思えた。僕の中にある柔らかな愛の情景だ。

 僕はこう思った。僕たちに、これから何があろうと、このイメージが先にある。根源にそれがある。そこに帰ってこられる。そういう風に、僕には感じられた。

 僕が黙って考え事をしているので、華火くんが見かねて、僕の脇腹を肘でこづいた。

「千鳥」

「ああ……ごめん」

 僕は改めて前を向いた。

「編み物、いいね。……考えてみようか」

 僕が言うと、火魚ちゃんがにっこりと笑った。小笛が両手を上げて騒いだ。

「よっしゃー!」

「お返しも、考えないと」火魚ちゃんがそう言った。

 その時、自然と、華火くんが僕の隣に来た。僕らは並んで歩く。もう、火魚ちゃんも、彼の後ろに隠れてはいない。闇に沈む町中で、僕らは歩みを進める。

「遠回りしてみるもんだ」

 華火くんは言った。


 僕たちは、小さな炎だ。その存在を燃やし尽くすまで、この大気を熱して、汚していく。暴力的な熱さで、どうしようもなく、場所を取る。

 だがその存在の熱が、暖かさになることもある。あの灼熱の太陽が、重力が生み出す確かな距離によって世界を暖めるように。その暖かさが、花だって咲かせる。暖かさを生み出す、距離の働き。その距離を測るのには、きっと時間がかかるのだろう。

 ただ、そうして咲いた花が、今度は僕の世界に、少しだけ美しさを取り戻す。そう思いたい。


 海の音が響いていて、ほのかに潮風が薫る。僕は大きく息を吸い込んで、それをゆっくり吐いた。

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ひと、さくはな @ryu19076

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