ア、ミューズ

本編

 久しぶりの外出で、りつきちゃんの歩く速度はみるみる落ちていく。

 そら見たことか、と思う。いつも引きこもって寝続けているからだ。

 鳥が惰性みたいに鳴いている。

 日が傾きはじめる頃にはほとんどのアトラクションをまわり尽くしてしまって、待ってましたと言わんばかりに本命の観覧車が目の前に現れる。まるで運命みたいに。

「そろそろ乗る?」と前を指さす。おおきな瞳がその先をとらえる。堂々とそびえたつ観覧車が、ゆっくりと回っている。ゴンドラのひとつひとつが夕空で色づくのを見せつけている。

「うん、乗ろう。そろそろ最後って感じだし」

 西日に照り映える笑顔はとても晴れやかに変わっていた。

 いつのまに笑えるようになったのだろう。

 この湿って腐った数ヶ月を、いつのまにりつきちゃんは焼却できたのだろう。

 長いまつげが影を落としても瞳はきらきらしている。汗をかいても髪が乱れてもりつきちゃんはすべてが作品みたいにかわいい。ハリのある素材のミニワンピースが風ではためく。そこから伸びるほっそりとした太ももまでもが自然で、女の子って感じだ。

 ひとりでに心臓がざわつく。知っている姿が勝手に思い起こされる。

 隠されている下にはまるいお尻があって、それを大切に包むレースの下着があることを。うすっぺらい腰回りを。華奢なわりにおおきな乳房があることを。

 心臓がはげしさを増して脈打つ。その力が、胃の中身を口から溢れさせそうなほどに。

 また、だ。いらいらする。私のせいじゃないのに罪悪感が苛む。

 観覧車の大きな影へ駆け込む。

 カカッ、カッ。ヒールの音が慌ててついてくる。

 私の背中にさえずるような声がかかる。

「観覧車は逃げないよー」

 ううん、逃げたいんだよ。

 そんなことは言えなくて「遅いよー」と笑ってみた。


 もう数ヶ月も前になる。りつきちゃんが働いて、私が通ったコンカフェは、経営者の未成年淫行が発覚しあっけなく幕を閉じた。

 生きがいを失って途方にくれていたところに、りつきちゃんから「ちょっと泊めてほしい」とDMが来た。私はファンだったからすぐに「うちでよければ」と返事をするほかなかった。

 ほどなくして、りつきちゃんは店の卓上観覧車を盗んでやってきた。

「これも犯罪なのかな」

 それはゴンドラ部分がショットグラスになっていて、一般的にはお酒などをいれるパーティーグッズ。あの店でキャストだった証として、ただひとつ、りつきちゃんが盗んでまで欲しがったのはそれだった。結構重くてさー、とそれ以外ほとんどなにも荷物を持たずに。


 仕事を失って見るからに困っていたしよく泣いていたし、手首を切られたくなかったし「だいじょうぶだよ」とことあるごとに言った。言っているうちに、それが二日になり一週間になり一ヶ月になった。重なって重なって、りつきちゃんはすっかりだらしない引きこもりになった。客用布団を用意したのに、私のベッドで「ぽよんぽよんだー」と下着姿のままくつろぎだして、あんなに丁寧だったメイクもほとんどやらなくなって、さすがに夢を見続けるのも厳しい。

 私が好きなのはコンセプトカフェという守られた場所で、守られる存在として輝いているりつきちゃんだった。すべて消えてしまった。

 それならばせめて、また新しい場所で輝いてほしかった。観覧車だって、廃園したら移設されてふたたび活躍するのだから。

 綺麗でかわいくていつも幸せそうに笑ってくれる姿は理想の、これ以上ないってくらいの女の子で、りつきちゃんが輝いているかぎり私の人生には希望が溢れていた。安心して生きていられた。りつきちゃんは夢だった。

 観覧車は盗んでこられたっきりスイッチを入れてもらえなくなった。光れもせずワンルームをむなしく圧迫しつづける。

 どうして観覧車なの? という問いに、りつきちゃんは「憧れなの。遊園地行ったことないから」と答えた。私にとってのりつきちゃんってことなのかもしれなかった。

 りつきちゃんをこのまま放っておくなら、ふたたび輝く可能性なんてゼロだ。輝かないとしても、りつきちゃんをもっとたくさん知らなければならないだろう。

 どうして下着で寝るの? どうしておなじベッドに入ろうとするの? って。それで全部解決したら、また夢になってくれるかも。

 だから寝転がったままのりつきちゃんに「遊園地、行こう!」と声をかけた。りつきちゃんは「なんで?」と目をまんまるにして、オンラインチケットの購入が完了しました、の文字をまじまじと見つめていた。

「憧れなんでしょ、行ってみようよ」と激励して、家を出る時間を決めた。それでもすこし逡巡をくりかえしていたけれど、なんとか「……わかった」とうなずいてくれた。


 観覧車へ、りつきちゃんを先に送り込んだ。目の前でポニーテールがゆらゆら揺れる。見慣れないヘアスタイル。コンカフェではずっとハーフツインだったのに。

 地面からゴンドラに踏み込む。

「りつきちゃん、支柱のほう座って」

 重力が変わったような浮遊感。慣れない揺れにささやかな悲鳴を上げながら、向かい合わせに座った。

 外はまだ見所もなく、かといって真正面から顔をつきあわせるのも抵抗がある。自然と顔はやや下に向いていた。

 ちいさくなめらかな膝が視界に入る。りつきちゃんのだ。その向かいには私の膝がある。スカートに包んでいるのに太い骨が目立つ。丁寧に足を揃えたところで、さして見栄えは変わらない。それなのに目の前に投げ出された足はどこまでもすべらかだ。こういう違いにずっとつきまとわれる。

 りつきちゃんに憧れるということは、つまり、ずっとこうあり続けることになるんだろう。

「歩いたねー」

 りつきちゃんが声色に疲労をにじませる。顔を上げると、窓ガラスに反射する姿で前髪を直していた。はりついていた箇所に、五千円もするフェイスパウダーをはたいて櫛でとく。

「ね、広いよね」

 おなじように自分の前髪も整える。

 ゴンドラの中は当然ふたりきりで「空の旅をお楽しみください」というアナウンスが終わってしまえば、もう、眠くなりそうなBGMしか音がない。会話をしないと空気が重みを増してのしかかってくるようだ。

 かつて言った、だいじょうぶ、という言葉に引っ張られて聞けないでいることばかりだ。

 ゴンドラが揺れる。りつきちゃんが笑う。いまの風すごかったねって、それこそがそよ風のように軽やかだから、やっと聞けると思った。

「もう、キャストやらないの?」

「あー、んー……」

 りつきちゃんは、やっぱ気になるよね、と俯きがちになった。注視するとわかりやすく困った顔がある。

 眉尻の下がった目が、ちらりと合う。目が合ったら、つやつやの瞳は外の景色へ逸れる。

 私たちが収められるちいさな箱は支柱の森を抜けて、園内を一通り見渡せるほどの高さにいた。さっきまで歩いていた大通り、乗ったアトラクションの数々、アイスキャンディ屋さん。

「キャストは……やらない」

 困った顔なのに、口元は器用に微笑む。

 どんな相づちも浮かばないでいると、BGMが流行曲のインストアレンジだと気づく。

「楽しくなかったわけじゃないんだよ」

 りつきちゃんの言葉に「じゃあ、どうして」と口をついて出た。私のすぐそばの窓には汗でファンデの浮いた顔がある。

 鼻筋が大きくて骨っぽさが目立っている。この顔はどうしたって女には見えない。

「りつきちゃんは女の子なのに」

 どれだけ欲しても手に入らないものをたくさん持っている。

「かわいいのに」

 楽しそうに働いていて、どんな衣装も似合っていた。どこまでも広く深いふところで、私が打ち明けた、男でいるのが嫌な話も受け入れてくれて、それがどんなに嬉しかったか。


 初めてコンカフェに行った日のことを思い出す。

 ミックスバーじゃないところへ行きたかった。私は肉体と心の性別が違う感じがして、なのにマイノリティという言葉に実感がいつまでも生まれなくて、どうにも後ろめたかった。なんとなく看板が目について入ったときはまだ、磨いてトップコートを塗っただけの爪だった。それを「爪、ちゅるちゅるでかわいいね」と褒めてくれたのが、りつきちゃんだった。

 ネイルに行くと全部やってくれるからね、自分でお世話できるのはすごいことだよって褒めてくれた。


 でも所詮、向こうも仕事だし。

 たったその一回で通うほど、私は女の子に接客されることに価値を見出せなかった。だってそれは、男がされて嬉しいことじゃん。

 そう思っていたくせに、また行った。

 その日ははりきってヒールをおろしたのにとても最低な一日だった。その上、履きなれない靴がしんどくて、とてもみじめだった。

 涙が押し寄せる頭の中で、あの子の顔が真っ先に浮かんだ。

 いますように、と祈りながらドアを開いた。

 すぐに「あっ、こないだの!」と声が飛んできた。涙は本当にすぐそこまで来ていたけれど、どうにか押し込めた。

「ヒール履いたら靴擦れしちゃって。情けないね。似合わないことするからだね」

 りつきちゃんはパッチリと目を合わせたのち、ちょっと待ってて! とスタッフルームへ駆け込み、すぐにピンクの絆創膏を握って再登場した。

 渡されるがままに受け取ると「自分にかわいいものがくっついてるの、めちゃ嬉しくない? その靴、すてきだよ」とりつきちゃんが微笑んだ。それがどうしようもなくやわらかくて、あたたかくて、結局泣いてしまったのだった。りつきちゃんはよくうなずいてくれて、それまでもとても誠実な印象で嬉しかった。

 すりきれた私の心に、りつきちゃんがくれた絆創膏。治療というよりラッピングだ。

 かわいくなりたい私を私よりも大切に、壊れないように、そして特別にすてきなものであるように、かわいくラッピングしてくれた、りつきちゃん。


 それをずっと憶えている。とっておきのワンピースを着ているときよりもっと心強くなる。なのにどうして、試すようなまねをするの。

「りつきちゃんにとって、やっぱり私は男だった?」

 ぽろ、と頬を伝う感触がして、大きなしずくがスカートに落ちた。

 ちゃんと目を見て確かめたいのに、顔を上げられない。沈黙が耳を、頭を引き裂いてしまうほど痛い。気づけば涙の後を隠すみたいにスカートを握りしめていた。

 それに、そっと手を添えられる。シルクみたいな肌に伸びきったネイルでアンバランスな手が。

 細くて青白い指が、壊れやすいあめ細工を拾い上げるみたいに私の手を包んだ。

「ごめんなさい。……安心が、わからないの」

 声は細く震えている。

「優しくしてくれるひとはみんな、何か理由がある気がして。でも、この関係は性欲じゃないって……証明したかったし、してほしかった。そうじゃないなら、さっさと壊しちゃいたかった」

 ねばつくような手つきで撫でられないことが、自分をひとりの人間という、確固たる存在にする。りつきちゃんが本当に欲しいのは、そういうことらしかった。でも、そんなのは今更のような気がして仕方がなかった。

 顔を上げると、りつきちゃんはまっすぐにこちらを見ていた。握ってくる手は視界の外にあったけれど、震えているのがわかった。それでも瞳は伏せられず、逸らされることなく、私を見ている。

「女の子であることをやめたかった、それでも一緒に生きてもらえるのかって、知りたかったの」

 どうして、とこぼれた。どうしてそんなことが必要になってしまうの、って。

 りつきちゃんは体を硬くする。手がひとつのかたまりみたいになって、大きく息を吸って、吐いて、すこしだけほどける。

「オーナーさ、淫行で捕まったじゃん」

 うん。と相づちを打つ。

「わたしもね、キスとかされてたの。それはわたしがかわいくて女の子だったからだろうね。あそこでたくさん働かせてもらえたのも、そうなんだよね」

 りつきちゃんは一息に話す。

 キス、とか、って。

「コンカフェってルール多いじゃん。おさわり厳禁、連絡先交換NG、ちょっとのセクハラ発言もだめ、って。厳しい世界でわたし、宝石みたいになれるって思い込んでた」

 かろうじて首を縦に一度振ると、りつきちゃんは唇を弓なりにしてみせる。痛ましいのにしなやかな笑顔は、はげしい雨や風に打ちつけられながら立っているようだ。

「わたし、じつは遊園地にがっかりしたの。想像より、人間がつくったものって感じがあってさ。がっかりって、悪い言葉に聞こえちゃうかもだけど。偉大すぎなくて、人間のサイズ感で……」

「うん」

「また来れそう、来たいって思った」

 りつきちゃんの背後にあるゴンドラが窓枠の外へ消えはじめる。観覧車が頂上にたどりつこうとしていた。

 がっかり……と復唱する。まぶたの裏側に映像が流れる。

 この数ヶ月の様々が私の中を駆け抜けた。

 いまだ曖昧な、ほんのすこしの煩わしさは残りながら、まぶたを持ち上げる。まっすぐ前を向く。

「私も、がっかりしてた」

 うん、と今度はりつきちゃんがうなずいた。

「わたしが言うのもなんだけど、きらっきらの夢のまんまのほうがしんどいよ」

 だって、わたしたちはおなじ、人間なはずなんだもん。

 日差しがその瞳を美しく染める。ああ、やっぱりりつきちゃんは、ずっとりつきちゃんであり続けるんだろう。そういう確信があった。

「ほんとに、わたしが言うなって話なんだけどねーっ」

急な自虐に耐えきれず笑いが飛び出る。ふたりの間でぶつかりあって増幅する。

 しびれるほど重かったはずの空間で、全部が「あはは」って吹っ飛んでいく。

 吹っ飛んで、新しい空気が満ちていく。

 りつきちゃんの背景に(そしてきっと私の背後にも)晴れやかな青空がいっぱいに広がっていく。

 いよいよ世界から私たち以外が消える。

 空と私たちをうすく隔て、包み込むゴンドラだけがある。


 観覧車を降りて足を踏み出した途端、りつきちゃんが「いてっ」と言い、ベンチへぎこちなく座った。くるぶしの皮膚が真っ赤に剥けており、いっそ見事なまでの靴擦れだった。

 鞄から絆創膏を出して貼る。やっぱりそういうの持ってるんだね、すごいなーと声が上から降ってくる。ずいぶん暢気だ。あの時もらって嬉しかったからなのに。

「あれは店にあったからあげられたんだよ」

 たしかにこの数ヶ月見ていたかぎり、りつきちゃんは絆創膏を持ち歩きようもない。

「てかさ、ふふっ、ほら」

 立ち上がったりつきちゃんが、じゃんっと効果音付きで手当された傷を披露する。

「わたしだって靴擦れするんだよ。ヒールってかわいいのにね!」

「本当だね、かわいいってたいへんだね」


 メインゲートまで、来た道をゆっくり戻っていく。

 人気の減ったところでりつきちゃんが「もうちょっとおうちいていい?」と今更なことを聞いてくるから、おもわず笑って「パジャマ着てね」と返す。

 りつきちゃんも「うん。いつもありがと」と言いながら笑った。

 風が吹き抜ける。

 整えた髪がまためちゃくちゃになりながら、飛んでっちゃう! とりつきちゃんが手を差し伸べてくる。

 それをぎゅっとつかむ。

 空には雲のひとつもないから、きっとこのまま晴れつづけるんだろう。

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ア、ミューズ @stern_works

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