桜を見る頃

久火天十真

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「桜が、見たい」

 病床で寝込む彼が言った。その声はか細くて、耳を立ててようやく聞き取れるくらいに弱々しい。

 窓の外には淡い光が点々と塗してある。光はあまりに淡すぎて、夜の闇に覆い尽くされようとしている。オリオン座だけがかろうじて見える。特徴的な星の並びは、黒い海の中でも未だ見えたままで、春の遠さを感じさせる。

「僕ももう、長くはないんだろう」

 私の方を見て彼は言う。その表情は以前の彼と同一人物とは思えないほどに頬はこけて、薄皮が張り付いているようだった。大きな目は瞼を薄く閉じかけていて、その奥には夜の闇にも似た黒い球体が浮かんでいる。

「ならば、最期にまた君と桜が見たい」

 なぜ桜なのだろうと思った。そしてすぐに答えがわかった。彼は私の顔を見て力無く笑う。気づいたかい、とでも言いたげな目線で以て雄弁に語りかける。私は思わず笑ってしまって、ふと、最後に笑ったのなんていつだろうと思った。

 もう思い出せないくらいに笑っていない。

 泣いた記憶だけは数え切れないけれど。

「僕は未だに思い浮かべるんだ。君と見たあの桜を。あの月を背負った夜桜を」

 私も頭に思い浮かべる。少しぼやけてきたあの夜桜を。近所の空き地に咲いていた桜の花。

 もう何年まえになるだろう。帰り道に、こんなところに桜が咲いていたんだね、なんて言って2人で地面に座って眺めてた。夜風が気持ちよくて、桜の花びらがかすかに揺れて舞い落ちて。そのひとつが私の鼻先を撫でるようにして落ちてきて、くすぐったくてくしゃみをした。花びらはそのままどこかに飛んでいってしまって、彼はそんな私を見て笑ってた。

 その日から私と彼は夜になるとアパートの部屋を抜け出して、静かな空き地の中で花見をする日々を紡いだ。溢れそうなほどに大きな月を背景にした桜は、薄い月光に照らされて、自然の色を取り戻す。ライトアップなんて人工物じゃ味気ない。月に桜が、あの狂おしいほどに美しいあの世界が、私たちの幸せの象徴になっていた。

「あの頃は、ただただ幸せだった。不安なことなんて何ひとつなくて。ただ未来に希望を持っていた。君とならきっと、地獄でだって、きっと生きられたんだ」

 彼の目はまた細くなって、黒い目は水鏡のようにどこまでも綺麗で、かすかに揺らぎ始める。その水鏡に私は透き通ってしまって、やるせない気持ちになる。

「もう、何年も、何年も、桜を見ていないなあ。多分、桜があまりに美しすぎたから、僕の目にはもう、映らなかったんだね」

 私は彼の言葉を聞いても、何も答えられない。答える術を私は知らない。頭に言葉が浮かぶ。浮かんだ喉に落ちていき、呼吸と共に湧き上がる。それでも私の喉を透き抜けて、虚空に、闇に消えていく。夜の闇に滲んで、彼には何も届かない。

 どうして、どうして。


 どうして、私は彼を遺して死んでしまうことができたのだろう。彼は私を見ながら言葉を続ける。一生懸命に、私の届かない言葉を表情から読み取って、また瞼は重く閉じ始めて。

「君が死んでから、もう随分と経つ」

 彼は苦しそうに、それでいて穏やかそうに大きく息を吐いて、また微笑む。

「君がいつか、僕に会いに来てくれるんじゃないかと。淡い期待を抱いていたんだけれど。まさかこんな時に来るなんてね」

 声にならない声で、彼は笑ってみせる。その姿が私には昔の姿に重なって見えた。面影がかすかに残る程度の遠い昔の姿に重なって見えて仕方がない。

「あ、ああ」

 何か言おうとして、言葉に詰まり、喉の奥が疼くのかひどい咳をこぼす。私は彼に何をしてあげることもできないで、ただそれを眺めていることしかできない。

「……僕はね。僕は」

 口を軽く動かす。次第に言葉にならなくなり、声にならなくなり、細くなった腕を持ち上げて、私に触れようとする。それでも力が入らないのか、腕は音を立てて落ちて、それから動くことはなかった。

 それでも、枯れない嘔吐したことが私にはわかった。言葉にならず、声にならず、ただただ頷く。私の目からは流れるはずのない涙がこぼれ落ちていたような気がする。やけに視界がぼやけて仕方がない。

 彼の目は閉じられていた。

 彼は私の答えを知れただろうか。

 それはわからなかったけれど、その顔はやけに晴れやかで、彼は最期の力で静かに口を開く。

「ああ、桜が、見える。隣には、君がいる。月がぼやけて、花が舞う」

 虚ろな様子で言葉をこぼす。こぼした言葉は確かに私に届いている。

 彼は瞼の裏にあの日の桜を見ている。透き通る私の向こうに、あの幸せな日々を夢見ている。

 私は透き抜ける彼の手を確かに握ろうとしたまま、彼の唇に自らの唇を重ねる。

 夜が明ける。

 地平の向こうから、陽の光が差し込んでくる。暁の星を残して、オリオン座も、星々も、大きな光に塗りつぶされていく。

 彼は私を追い抜いていった。

 それが私にとってどれだけ幸福か。

 その幸せを私はひとり噛み締めながら、夜明けの光が透き通っていくのを感じていた。

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