ナルキッソス
猫煮
しあわせかぞくけいかく
床に転がった女雛の顔は右半分が割れて、残ったもう半分も罅が細かく走っていた。整えられていた髪はほつれ、散らばった破片は涙の跡を思い起こさせる。にも関わらずその女雛は、白磁の肌に優しげな面差しの元の姿を想像しうる美しさを残していた。転がった首はそのような姿である一方、胴の方は見るも無惨である。刃物で滅多刺しにされた着物は元の仕立ても解らぬほどに切り裂かれ、その残骸は朱の着物の名残もあって滴る血を思わせた。
微笑みを崩さぬ女雛をそのような姿にしたのは、人形が見つめる先で包丁を研いでいる女である。女は中年相応に太っていた。娘はいるが夫はいない。かつての夫は彼の不倫を原因として、二十年も昔に別れた。その分、母親としての愛情を娘に注ぎ、父親と同じように娘を厳しく躾けた女である。そして、自らのことのように娘に寄り添おうとした女でもあった。
女雛を刺し殺した包丁を研ぐその女は、手を止めずに昔を思い出していた。あれは娘の佳代が五歳になった頃だろうか。幼稚園から帰ってきた佳代は、嬉しそうな顔で言った。
「あのね、まーくんに結婚してっていわれたんだよ」
「そう、それでどうしたの?」
女が平坦な声で尋ねるが、佳代は背中から聞こえる母親の声色に違和感を持てずに機嫌良く答える。
「それでね、良いですわよって答えたの。あたし、およめさんになるんだから」
「駄目よ」
女は即座に答えた。その言葉に振り返った佳代は、怯えた顔になる。その表情に気が付かず、女は娘を見ながら平坦な声のままで続けた。
「馬鹿なことを言わないで頂戴。お嫁さんなんて冗談じゃないわ。結婚なんて辛いことばっかりで、女に生まれたことを呪うばかり。あなたの父親は私に苦痛と憎しみだけを残して、他の女のところへ転がり込んだ。結婚は男にとってアクセサリー感覚で女を見せびらかすためのおぞましい儀式なの。そうして、女は苦痛に耐え続けるしかない。おかあさんにはあなたが産まれてくれたから良かったものの、そうでなければと思うとぞっとするわ。お願いだから、お嫁さんになろうなんて思わないで。それとも、おかあさんをこれ以上不幸にしたいの?」
娘と視線を合わせながら、娘を見ていないその瞳に、佳代は怯えて泣きそうになりながらも反論する。
「でも、おとぎ話のお姫様はおよめさんになって幸せに暮らしたって」
すると、女は大股で娘へと詰め寄り、思わず身をすくめる娘の肩を力いっぱい掴んで言った。
「ああ、あなたはなんて馬鹿な娘なの。よく考えてご覧なさい。おとぎ話の最後は結婚して終わりでしょう。どうして、結婚して幸せな生活なんてものが描かれていないと思う? そんなものはおとぎ話の中にもないからよ。幸せな気持ちでいられるのは、結婚するその瞬間まで。その後は女にとって地獄の苦しみしか残っていないの。子どもにそんなものを見せるわけにいかないから、おとぎ話は結婚で終わりなの。『一生幸せに暮らしました』というのは、結婚を境に幸せなヒロインとしての人生が終わって、あとは人生を絶望に満ちた結婚生活に捧げましたって意味なの。自分から地獄の釜を覗き込みたいと言うならそうしなさい。けれど、おかあさんも不幸せになることを忘れないでね。あなたは良い子でしょう?」
佳代はそれを震えて聞いていた。その震えは肉に女の爪が食い込んでいた為か、あるいは他の理由かはわからなかったが、女が抑揚をつけずに話すその言葉を理解する余裕だけはあった。そして、震えを隠せぬ声で、何度も頷きながら言った。
「うん、あたし、結婚しない。結婚しないよ」
それを聞いた女は、普段通りの優しい母親の顔に戻り、娘の肩から手を退けると普段通りに台所へと歩いていった。
「そうだ、忘れてたわ。ケーキが買ってあるの。ショートケーキとチーズケーキ、どっちが良い?」
「その、あたし要らない」
「あら、どうして? もしかして、お金のことかしら。大丈夫よ。おかあさん、あなたのためなら、なんだってできるんだから。それに、ケーキもひなまつりフェアで安かったんだから。気にすることないのよ」
佳代が食欲と恐怖の間で迷っている間に皿に乗せたケーキを運んできた女は、得意げに言った。そして机の上に皿を乗せ、娘の手を引いてその前に座らせる。
「両方食べたって良いのよ。あなたが喜んでくれるのが一番なんだから」
「でも、うちにお雛様もいないのに?」
佳代がおずおずと尋ねると、女は心底不思議そうに答えた。
「あら? だって必要ないでしょう?」
満面の笑みで訪ね返す女に娘は無言で頷くと、ゆっくりとチーズケーキに手を伸ばし、無言で食べ始めた。女はそれを笑顔のままいつまでも眺め続けていたのである。
女がこの雛人形を密かに買ったのがこの年のことである。それはある種の願掛けのようなもので、女自身その効果を信じてはいなかった。故に、女は娘が幸せであることを願い、常に細心の注意を払って娘を見ていた。買い与える服は努めて女性的でない物を選び、スカートを履きたいと言ったときも言葉を尽くして説得をした。化粧を覚える歳になれば、男たちの野卑た目に負けぬように勝ち気に見えるようなメイクを教え込んだ。男は言うに及ばず、女であっても男に媚びるような芸能人のことは、話題に出さないようにしたし、話に出たとしてもそれがいかに愚かな行為であるかを説いて聞かせた。
それらの努力の甲斐あって、佳代はボーイッシュで思慮深く見える、女にとって理想の娘へと成長した。これは女の血のなせる技ではないが、身長の高いスレンダー、いわゆるモデル体型に成長した佳代。学生の頃には同年代の少女たちの間で噂になるほど慕われ、このことも女の自尊心を満たしていた。女の努力の甲斐あって、佳代が色恋について口にすることはなかったし、その影も女には見つけられなかった。そのために、その日の娘の言葉は女に強い衝撃を与えたのだ。
佳代が有名な女子大に入学して数ヶ月が経ってからのことである。ある日の夕食の席でのことである。
「母さん。私、サークルの先輩に告白されたの」
「そう、断ったの。あなたも大変ね」
美しく成長した佳代が男から求愛されるのは、これが初めてではなかった。しかし、その度に佳代は女の教え通りに断ってきたし、それが当然の摂理であると女には思えていた。ところが、今回は佳代が言葉を濁すばかりである。女は眉をひそめ、問いただす。
「まさかあなた、変な気を起こしたんじゃないでしょうね。駄目よ? あなたの年頃にはホルモンが妙な気を起こさせるかもしれないけれど、所詮そんなものは幻なんだから」
「でも、母さん。その人、本当に良い人なのよ」
その言葉に、女は頭に血が登った。勢いよく立ち上がり、机の天板を平手で打ち付ける女。卓上の味噌汁が椀からこぼれたのにも構わず、女は目を見開いたまま娘を睨みつけた。
「良い人だとか、そんなことは関係ないでしょ。男女の交際自体が不幸を呼ぶの。相手の人格以前の問題で、男と女が結ばれる事自体が悲しみの元なのよ。昔から教えてきたわよね。女は男に気を許したが最後、支配されて人間でなくなってしまうんだって。どうしておかあさんを悲しませるのよ」
平坦な声でまくしたてる女。しかし、対する娘は五歳の幼女ではない。
「母さんがどれだけ大変な思いをしてきたかは解ってるわよ。育ててくれたことも感謝してる」
「それなら」
声を遮ぎられて眉をひそめるも、娘の言葉に安堵したような声になる女。しかし、娘は続けて言った。
「でも、母さんが正しいなんて、一度も思ってなかった」
絶句して慄く女に、佳代は続ける。
「母さんが悲しむと思って言わなかった。けれど、母さんの言ってることって変だと思ってたし、母さんに隠れて恋人を作ったことだってあった。でも、母さんが言ったみたいに不幸せにならなかった。その人と別れたのだって、彼が遠くの学校に行くからだって、笑って送り出したわ。本気の恋じゃなかったのかもしれないけど、幸せだった」
「なんで、そんなことを今まで、隠して?」
力なく椅子に座り込む女を、佳代は哀れみの目で見たが、直ぐに目を逸らした。
「母さん。私、もう結婚できる歳なのよ」
「許さないわよ。そんなこと絶対に許さない」
娘の言葉に幽鬼のように顔を上げた女は、言い聞かせるように呟いた。それが娘に向けただけのものでないことには娘も女自身も気がついていたが、互いにそれを悟った風を見せずに睨み合う。
「女の幸せなんて言うつもりもないけれど、私だって家庭を持って良いはずだわ」
「あなたが男の人と幸せになれるわけがないでしょ。そんなこと許さない。あなたは私の娘なの。あなたは私と同じ血が流れてるの。あなたが幸せな結婚だなんてできるはずがない!」
般若の貌で言った女を佳代は冷めた目で見つめながら言った。
「母さん、私は母さんじゃないの」
絶句する女をよそに、佳代は食卓に手を合わせて立ち上がり、「私の大学も覚えてないのね」と言うと、自分の部屋へと歩を進める。その後姿を黙って見送った女はその後一言も話さず、食事を片付け、風呂に入り、洗濯物を干して、全く普段通りの行動を取ってから、布団に入った。そして、一睡もせぬままに朝起き上がると、後ろ手に包丁を持って娘の部屋へと向かった。しかしそこに娘の姿はなく、ただ机の上に『友人の家に世話になる』とだけ書き置きがあった。女はきっかり三十六分だけその紙を見つめると、朝から変わらぬ笑顔のまま丁寧に置き手紙を破り捨て、娘の部屋のちり紙入れへと捨てた。
女は普段通りの時間に朝食を食べ終わると、自分の部屋へと入り、椅子に座る。すると、棚の上に何年も飾ったままにしてあった雛人形が目に入った。男雛の顔はインクで塗りつぶされてどのような表情かは伺いしれなかったが、女雛は薄い笑みを浮かべているように女には感じられた。女は表情を消すと、女雛に歩み寄り、その首を力いっぱいに締め付ける。一言も発さずに満身の力をこめるその姿は親にすがりつく子どものように見えたが、女の娘がそのようにすがりついたことは一度もなかった。
それから、女は雛飾りを隠れて飾ることをやめた。居間に堂々と置くようになったのである。そして、かつて娘にしたように話しかけ、かつて娘にしたように世話を焼いた。そうしてみれば、実際この人形は親に逆らわない『良い娘』に思える。女の唯一の不満は女雛が食事を摂らないことだったが、それもすぐに慣れた。しかし、時折。夕方になると、女は思い出したように女雛の首を笑顔で締め、それからさめざめと泣くようにもなったのである。
そんな日々が半年ほど続いた頃である。二月二十九日の木曜日、珍しく佳代から電話があった。ショートメールでのやり取りは何度かあったが、そのいずれもが事務的で、声を聞くのも佳代が家を出てから数日後に一度だけ、電話越しに話したきりだった。
「母さん。私、今度の日曜日に一度そっちに戻るね」
「そう。どうして?」
「年度も変わるから。それに、半年もかかったけど、ようやく冷静に話せるような気がするから」
「そう。あの先輩とは、それからお付き合いをしてるの?」
佳代は少し黙っていたが、小さな声で「うん」と、照れくさそうに肯定した。
「そう。今度おかあさんにも紹介して頂戴」
「うん、うん。今度紹介するね。本当に良い人なの」
「そう。楽しみね」
娘の万感の思いの籠もった涙ぐむ声を聞きながら、女は何度も頷いた。それから、女と娘は二言三言会話をして、通話を終える。女の顔は受話器を取ったそのときから、全く変わらぬ笑顔のままだった。
「佳代さんが帰って来るんですよ」
女は女雛に話しかける。
「良い人を紹介してくれるんですって。楽しみねえ、楽しみねえ」
人形の陶器の肌に、午後の日差しが鈍く輝いた。
そして三日後の夕暮れ時。女はいつもの衝動にかられて女雛の首を絞めたあと、そのまま床へと叩きつけた。その衝撃で人形の顔は割れ、首はあらぬ方へと飛んでいったが、女は人形の胴体を床へと押さえつける。そして、半年前にできなかったことを存分に行ってから、刃の欠けた包丁を研ぎ直し始めた。
刃先を研いでは光に透かしていた女。そのうちに玄関のチャイムが鳴ると、研いでいた包丁を上着の裾に隠して玄関へと歩いていく。夕日の差し込む部屋で、その背を見送る女雛の顔は照らされて影を作っていたが、なんの表情もそこには無かった。
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