第4話 逃げ水

 暑い夏だった。


 目の前のパソコンのモニターにはオーディションの応募画面が表示されている。必要事項は全て入力済みだ。応募締め切りまであと数分しかない。


 並木橋での日々が泉のように湧き上がってくる。




 家族には内緒のままで応募した。怒られると思いながら報告をしたら、私が夢中になれるものを見つけたと知って泣いて喜んでくれた。


 初めての先輩との対面。テレビや雑誌で見ていた人たちの前に立つと、緊張でうまく声が出なかった。


 ボイトレでは先生に怒られっぱなしだった。ダンスも覚えられなくて、遅くまで居残り練習していた。辛かったけど、同期のみんなと一生懸命になれている自分がなんだか誇らしかった。


 初めてのレコーディングでは、うまく歌えなくて悔し涙を流した。


 初めてのライブ。こんな私でも応援してくれる人がいるんだと知った瞬間の、全てを肯定されたような感覚。


「さっきのダンス、めちゃくちゃ格好よかったよ!」


 ライブ終わりに千尋さんが話しかけてくれた。あれが仲良くなれたきっかけだったかもしれない。


 全部、全部、全部、私の青春だった。




 応募ボタンを押さずに、ページを閉じた。


 涙が止まらなかった。



☆★☆



 ひとしきり泣いて、リビングに向かった。お母さんが不思議そうに私を見る。


「あら、どうしたの、目真っ赤だよ」


「なんでもないよ」


 なんでもない。何も起こらなかったのだ。


 テレビではニュースが流れていた。


『並木橋Bestieの新メンバーオーディションの募集ページが応募者多数のためサーバーダウンしました。これに伴って、運営事務所は、オーディションの募集期間を一日延長すると発表しました』


 あの時はそんなこと起こらなかった。


「そんなに人気あるのかねえ?」


 隣でお母さんが馬鹿にしたように笑う。


 自分の気持ちの置き所が分からなくなって、家を飛び出した。


 人気あるんだよ。

 みんなすごいんだよ。

 私、夢中だったんだよ。


 家の前の道に立って、遠くを眺める。


 熱い日差しに照らされて、遠くに逃げ水が揺らめいていた。


 それがまるで私の夢みたいで……。

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世紀の嫌われ者 山野エル @shunt13

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