第2話

「私ね、あのとき貴方が言っていたことが、ようやく理解できた気がする」



 遠いところを見つめながら、彼女がぼんやりと口を開いた。

 あのとき、という言葉の意味するところがすぐには思い浮かばなくて、数秒遅れて、ああ、と僕は頷いた。何年も前に、僕が盲腸で入院したときのことを言っているのだろう。



「君の手で殺してくれっていう話?」


「もう少し詩的な言い回しでしたよ」



 たかたが2,3日の入院期間中に紡いだ、若かりし日の言葉たち。退院後に正常な羞恥心を取り戻し、後生だから忘れてくれ、と彼女に懇願した記憶がある。

 まさか今になってその話を蒸し返されるとは思ってもみなくて、僕は困ってしまった。逃げられるものなら逃げ出したいけれど、今度こそ、一生 強請ゆすられ続けるネタになるだろう。仕方なく、当時のことをぽつぽつと話し出した。



「…あの頃は、入院している自分に酔っていたんだ。若かったし、初めての入院だったから、テンションが上がっていたんだろう。もう随分と前のことだし、君も忘れてくれたものだと思っていたのに」


「あれだけ衝撃的なことを言われて、忘れられるはずがないでしょう。見舞いに持ってこいと言った百合の花をむしって捨てたのだって、今も覚えてますからね」



 次々と晒される黒歴史に、耳が痛い。そんなことあったっけ、と苦し紛れにとぼけてみれば、色素の薄い瞳にジロリと睨まれた。

 僕は彼女の、この冷ややかな眼差しが好きだった。彼女にたしなめられたくて、わざと突拍子もないことを言ってみたこともある。例の話をしたときは、恥ずかしながら、全部本気で発言していたのだけれど。



「どうして、あんなことを言ったんですか?」



 落ち着いた声で問われ、僕は顎先を撫でた。普段とは違う状況にハイになった若者の、決して正常とは言えない思考だ。彼女の希望とはいえ、正直に話すべきだろうか。

 僕は少し考えたあとに、引かないでね、と何度も念を押して、口を開いた。



「君の人生に、消えない傷を付けたかったんだ」


「…なんて?」


「僕が死んだあとの世界で、君が僕を忘れていくのが怖かった。君には幸せに生きていて欲しかったけれど、僕がいない痛みを、どこかに持っていて欲しかったんだ。君が僕の死に加担してくれれば、君の心が手に入ると思ってた…あの頃はね」


「…重症ですね」


「引いた?」


「いいえ」



 引かないでねと頼まれた以上、うんとは言えなかったのだろう。嘘をつけない彼女の素直さが、昔から好きだった。今もきっと、浅はかな僕の戯言を聞かされて、苦虫を噛み潰したような顔をしていると思っていた。

 それなのに、僕を真っ直ぐに見据える彼女の表情は、真剣そのもので。戸惑う僕の視線の意図に気付いたのだろう、彼女は静かに微笑んだ。



「本当に、引いたりなんてしません。想像よりもずっと重かったけれど、それが貴方のくれる愛なんでしょう?だから私も、同じものをあげる」


「…え?」


「貴方も、私のために消えない傷を負ってくれますか?」



 白いシーツの上に横たわる彼女が、僕の手をそっと握る。僕のよく知る柔らかさはどこにもなくて、鈍器で頭を殴られたような衝撃を受けた。

 ―――彼女の嘘を信じ過ぎていたことに、ようやく気が付いた。



「…もう、助からないの?」


「持って一年、早ければあと数ヶ月だって言われました。穴の空いた風船みたいに、日毎に命が抜けていくのが分かるんです。何日も眠りこけた末に死ぬなんて絶対に嫌。この命が終わるその瞬間ときまで、目に映るものが貴方であってほしい」



 どこかで聞いたような台詞に、くらりと目眩がする。僕も彼女に、こんな残酷なことを言っていたのかと、遅過ぎる後悔の念に襲われた。



「貴方の手で終わらせて欲しいんです。どうか、私の死に加担してください」



 彼女は鈴を転がすような声で、懇願した。








◇◇◇










 これは僕の自論なのだけれど、愛に勝る呪いはないと思う。


 それが彼女の命綱だと分かっているのに、痩せて小さくなった身体に繋がるチューブに手を掛ける。意を決してそっと引き抜くと、空気の抜ける音がした。同時に、彼女の身体から命が抜けていく音なのだと思うと、僕の呼吸も浅くなった。



「君は嘘つきだね。僕を看取ってくれるって言ったのに、先に逝ってしまうなんて」



 僕の渾身の嫌味に、彼女は力無く笑う。もう何日も、彼女の声を聴いていない。

 本当にこれで良いのかと、先程から何度も何度も確認したけれど、彼女はただゆっくりと頷くだけだった。



百合ゆり



 愛してる、と言おうとしたけれど、喉元で引っかかったそれが言葉になることはなかった。どうしても涙を堪えることはできなくて、最愛の妻の姿がじわりと滲んだ。

 くたりと力の抜けた、骨ばった指先に自分の指を絡める。この温もりも、あと数分もすれば失われてしまうという事実が、途轍もなく寂しい。



「…死なないで」



 けてしまった頬にそっと手を添えてみると、絡めた指がぴくりと動いたような気がした。ハッとして目元を拭えば、彼女と視線が絡む。

 次の瞬間、命の終わりを知らせる機会音が、しんと静まり返った部屋で無慈悲に鳴り響いた。

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エンドロール【完】 鳴海スイ @narumi_sui

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