第1話

時の流れに身を任せて散っていく命も儚くていいけれど、どうせ命を終わらせるなら、愛する君の手で手折たおって欲しい。

 白いシーツに横たわるその人は、見舞いにはそぐわない百合の花弁をむしりながら、かさかさの唇の隙間から空気を洩らすようにそう言った。

 すぐに死に至るような大病でもないというのに、生まれて初めての入院というものを経験して気が滅入ってしまったのか、それともその状況に酔っているだけなのか。本気で言っているのかどうかすらも定かではないけれど、いつもはあっけらかんと笑う彼が珍しく真剣な瞳をして言うものだから、馬鹿ね、と私は笑い飛ばした。



「そんな大それたことを言うなんて、貴方の柄じゃないでしょう」


「柄じゃない…か。もしかしたら、君のよく知る僕と、今君の目の前にいる僕は、少し違うのかも知れないよ」


「ふうん。じゃあ、今ここにいるあなたは誰?」



 うーん、と低く唸った彼は、長い睫毛を伏せ、骨ばった指で顎先を撫でた。考え事をするときの彼の癖だ。

 透けるように白い肌をじっと見つめていると、瞼の裏で、ころころと眼球が動いているのがよく分かる。

 以前、そんな風にしていて、目が回ったりしないの?と聞いたことがある。彼はこの癖に自覚がないらしく、その上何故か不名誉なことを言われたと感じたようで、そんなことはしていない、目だって回らない、と憤慨していた。

 被害妄想が激しめなところは、彼の欠点であり、私が思う彼のチャームポイントでもあった。

 


「よく考えたら、君も昨日の君と全く同じ存在ではないよね。僕らだけじゃない、他の大多数の人たちにも言えることだけれど、毎日の出来事や考えたことを吸収して、思考は日々アップデートしていく。だけど僕は少し前に大幅なアップデートが入っているから、そういう意味で、僕は君の知る僕とは少し違うのかも」


「…もっと具体的に話してくれます?」


「君は、明日ちゃんと目が覚めるのかな、このまま心臓が止まって、それきりになりやしないかなって、そればっかり考えてしまう経験はある?僕はね、このところ毎日そうなんだ。毎晩眠るのが怖くて怖くて仕方がなくて、朝になると飛び起きて、自分の胸に手を当ててホッとする。そうやって始まる1日は、始まったそばから1日の終わりにも追われているようで、なんだか落ち着かなくて、段々生きているのが辛くなってくるんだ」


「…要約すると?」


「君の手で終わらせてほしい、ってこと」



 黒目がちな、気を抜くと吸い込まれてしまいそうな瞳の中で、またその話か、とうんざりした顔の私が揺れている。彼の長話に付き合いはしたものの、私が意見を変える気があるかと問われれば、答えはノーだ。

 彼はシーツの上に散らばった花弁を拾い集めると、窓の外に放った。桜や梅なんかとは異なり、花弁に重さがあるせいで、あっという間に地上を目掛けて堕ちていく。

 ―――見舞いに来る時は君と同じ名前の花が欲しい、と強請ねだったのは彼なのに、酷いことをするものだ。



「おかしな妄想をする気力があるのなら、小説でも書いて、何かの賞に応募してみたらどうですか?貴方に文才があるかは分からないけれど、意外と良いところまで行くかも知れませんよ」


「…僕は病人なんだ。もう少し優しい言葉を掛けてくれたって、バチは当たらないと思うよ」


「そんなに口が回るなら心配いりません」



 血の気のない唇をへの字に歪めて、彼は無言のまま私を非難する。普段は格好つけた微笑をたたえているくせに、時々、こうして悔しそうな表情を見せるのがいじらしい。

 よく見知った顔に少しだけ気分が良くなって、皺の寄った眉間をツンと突けば、拗ねたような低い声が鼓膜を揺らした。



「僕はいつも君に優しくしてたのにな」


「私を殺人犯に仕立て上げようとしている人の、何が優しいもんですか」


「逆の立場なら、君も同じことを考えると思うのだけれど」


「貴方と一緒にしないで。そんなに死にたいのなら、薬でも飲んでしまえば良いじゃないですか。きっと楽に逝けますよ」


「違う違う、そんなのは全然違うよ。ただ死にたいわけじゃない。視界を君で満たしたまま逝きたいんだ」


「死に目に立ち会うくらいは、してあげても良いですけど」


「立ち会うついでに、首でも締めてくれないか。愛しい恋人の手に掛けられるのは、きっと病気で死ぬよりずっと良い」


「貴方のエゴに、私を巻き込まないでください」



 ぴしゃりとそう言い放てば、彼は面食らったようにパチパチと瞬きを繰り返して、相変わらず君は強いひとだなあ、と困ったように笑った。

 私は、この笑顔に弱かった。強請ねだられればどんな願いだって叶えてあげたいと思って生きてきたけれど、今回ばかりは簡単に頷いてあげることはできなかった。



「貴方が本当に死ぬときは、寂しくないように看取ってあげますから」



 私の最大限の譲歩に、彼は眉尻を下げて、申し訳無さそうに微笑むだけだった。

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