烏と太陽 6

 吹き付ける春の風を全身に浴びながら、矢至は自動ドアをくぐり病院から出た。消毒の匂いは芽吹き始めた草木の匂いに変わる。肺一杯に空気を吸い込み、思い切り背伸びをした。体のどこも痛まなかった。

 入院中に何度も見た顔は、退院の今日に限って誰もどこにも見当たらない。そのうちの一人に会うため、矢至は歩き出した。


 横断歩道の信号が赤になっている間、矢至は道路の向こうの建物を視界に捉えた。地方のお役所のような堅い雰囲気だ。

 最近では玄関に置いてあるプランターにミツバチは寄ってきているらしい。このことを話してきたのは、大事な話があると言って入院中に顔を見せにきた本郷からだった。あの場所には似合わないメルヘンチックな光景だと矢至は思いながら、見慣れた建物に向かった。足取りは軽かった。


「ああ、矢至君お久しぶりです。今日が退院だったんですね」

「お陰様で。それ持つか?」

「ではお願いします」

 鹿倉は大きな段ボール箱を抱えていた。渡された箱の中には、擦り切れたファイルや祟化が原因と思わしき被害写真が詰まっている。

「これ俺が運んでも大丈夫なやつか?」

「これだけ忙しいんですから偶には横着したいんですよ。箱の中身は見なかったことにして下さい」

 出会った当初よりも良くも悪くも先輩感が強くなった鹿倉は、胸ポケットから手帳を取り出しなにやら読み上げ始めた。

「締木は病院に搬送された後、無事遺骸を吐き出しました。今頃警察署で諸々の事情徴収を受けているはずです。ナルの遺体は研究所に送られました。一通りの司法解剖を終えたら、研究所の所有地である山中の霊園に埋葬されるそうです。……ナルが祟化させたツキノワグマも同様です。研究所の敷地内には動物の慰霊碑があるので」

 鹿倉は目を伏せると手帳を閉じ、ポケットに仕舞った。

「正規職員以外に教えていいかわからない物もありましたが、独り言なのでお気になさらず」

 苦笑を浮かべながら矢至は頷く。鹿倉も満足げに頷いた。


 矢至は人が行き交う雑多としたオフィスの端、パーテンションで仕切られた箇所まで段ボールを運んだ。研修室に須川の姿は見当たらない。

「なんかバタバタしてる感じがするな」

「事後処理に追われてるんですよ。遺骸取締課の顔色は特に酷い状態ですよ。締木が捕まって調査しなければならないことがどんと増えたでしょうからね」

「鹿倉さんはどうなんだ?」

「ツキノワグマの安楽処置の報告はほとまず落ち着いたので、他の件の調査です。つまりいつも通りですよ」

 鹿倉は微笑むと二つ分の湯呑みにお茶を注ぎ、机の上に置かれていた煎餅に手を伸ばす。

「矢至君のほうはどうですか? 特殊な祟化の仕組みが判明して何か心境の変化は」

「今まで通り、変わりなしだ」

 どうぞ、と矢至にもお茶と煎餅が渡された。受け取り封を切って囓る。醤油味だった。


 入院中矢至は、須川達に自分の祟化の状態に関してある仮説を話した。

 神使が食われることを許容している場合のみ、心身は獣による現象は起きないのではないかというものだ。他にも何かしらの可能性はあるのかもしれないが、食べた当時の状況を思い出した矢至は、そうとしか考えられなかった。

 須川には、この考察は余所で話さない方がいいだろうと言われた。二人の意見も概ね同じだった。デメリット無く遺骸を口にし回復能力や獣の力を手に入る方法があることが世間に知れ渡れば、悪用する人間が必ず出てくるだろうと。

 ナルの件も、矢至が卵を吐き出し状況打破の一助になったことは報告書には書かれていない。『須川が祟化しその交戦によってナルを弱らせ、その後人に戻ったときに居合わせた矢至の助けを借りて自ら遺骸を吐き出し、そしてナルを撃ち抜いた』と、こういうことになっていた。

 ナルを撃ったのも、須川さんということになった。


「お、矢至きてたのか。体はもう大丈夫なのか」

「ああ。ちょっと体力は落ちたけどな」

 パーテンションの向こうから、ひょっこりと本郷が顔を出した。相変わらず人の良さそうな顔をしている。鹿倉よりも役職が上という立場上、須川と同じくらい疲れているようにも見えるが、以前よりもどこか余裕のありそうな表情をしていた。

「若いからすぐ元に戻るさ。腹減ったらいつでも声掛けろよ。いつでも奢るぞ」

 矢至は礼を言いつつ、須川のことを思い出した。湯呑みの茶を一気に呑みきる。食道に熱が籠もり噎せそうになった。

「須川さんはどこにいるんだ?」

「謹慎処分はもうしばらく続くはずだし、宿舎にでもいるんじゃないか?」

「名ばかりの謹慎処分ですけどね」

 鹿倉は煎餅の空袋を結ぶとゴミ箱に放り投げた。


 ナルの事案を収束させるに至ったものの、研究所から無断で遺骸を持ち出し挙げ句の果てにそれを食べた須川は、多方面から強い非難を受けたらしい。辞職までに至らなかったのは今までの貢献と本郷の尽力があったからだと聞いた。そうでなければ解雇処分。もしくは逮捕の可能性もあったようだ。

 とはいえ鹿倉の言うとおり名ばかりの謹慎処分で、病室に顔を見せにきた須川の顔は相変わらず険しかったし、最初のころの方事後対応で忙しさが凄惨なものだったのか、目の下に濃いクマが出来ていた。万が一祟化が疑われる事案が起きれば、招集されることになっているらしい。

 そんな状況でも須川はほぼ毎日矢至の病室に顔を見せに来ていた。呆れるほどの甲斐甲斐しさだ。


「ほんとは無理にでも休ませたかったんだけどな」

「わかった。ありがとう本郷さん。それと一つ相談なんだけど、病院で話してきたあの話、少し保留にして欲しい」

 サングラス越しに本郷が目を見開いたのがわかった。呆然としていた顔は次第に何かを察した微笑に変わり、答えを聞かずともなんと返ってくるかかわかった。

 矢至は来客用のネームケースを受付に返却し、管理局を後にした。


 ====


「須川さん、今いいか」

 ガタガタと物音が聞こえ、少しだけ躊躇うような時間をおいて扉は開いた。

「相変わらずおっかない顔してるな」

「そんなこと言いにきたのか。ならさっさと帰れ」

「違う違う! 待ってくれ」

 矢至は閉まり掛けた扉に隙間に足を差し込み、懐から煙草の箱を取りだし須川に見せつける。須川がいつも吸っているものと同じ銘柄のものだった。

「あんたの実家で勝手に吸っちまった分、用意したけど要らないなら貰うぞ」

 須川は呆れたようにため息をつくと、煙草を受け取った。肯定とみなし矢至は部屋に入った。


「謹慎中でも仕事してんのかよ」

 須川の部屋の机の上には、いくつかの書類とパソコン。それと灰皿が置かれていた。宿舎の玄関に張られている敷地内禁煙のポスターが脳裏を過ぎるが今更だ。

 矢至は自分の煙草に火を付けた。きっとポスターが泣いている。

「反省文と報告書は粗方終わったんだけどな。まだ細かいもんが残ってて。あと研究所からの連絡も来てた。霞野さんからだ。近いうちにまた来て欲しいってことだったぞ」

「……あんまり気乗りしないな」

「上手いこと躱しておく」

「あんたはなんともなのか、体調とか」

「なんとかなってたら今頃研究所の連中、特に霞野さんから質問責めにあって検査三昧になってるだろうよ。……ああ、ただ」


 須川はベランダを開け周囲を見渡すと、ベランダの縁に座り矢至から受け散った煙草を取り出す。ライターを差し出しその横に座ると、間もなく二人分の紫煙が立ち昇り始めた。

「鼻が以前よりも少しだけ効くようになっちまった」

 以前よりも更にしかめっ面で煙草を吸う須川に、矢至は吹き出した。すぐに須川に後頭部を叩かれる。

「良かったな。この機に本数減らしたらどうだ?」

「それとこれとは別だろ。別に鼻がもげそうってわけでもねえからな」

 ぬるい風が吹き煙が須川の顔面に当たる。須川はそれでも特に火消すといったようなことはしなかった。


 宿舎の前を通り過ぎる車の音と、通行人の話声だけが部屋の中に流れ込んでくる。どこか落ち着く静寂を先に破ったのは、須川だった。

「本郷さんから、話はされてたかもしれないがな」

 須川は煙を吐き出し、気まずそうに額を掻き、手元を見つめてから息を吸った。

「お前の特例処置がなくなることになった。今までの期間、何度か危険な目にあったが、祟化の兆候があったのは本当に殺され掛ける寸前の一回だけだ。危険性はよっぽど薄いと見なされた。良かったな、割に合わねえ仕事から抜け出せるぞ」

 矢至は曖昧な相づちを打った。


「なんだ、嬉しくなさそうだな」

「この宿舎、家賃は安いなりに設備は整ってるから出たくないんだよ。でも管理局の雑用係を辞めたら出なきゃいけなくなるだろ」

「そんな理由かよ」

「それに生憎、目標が出来ちまったからな」

「目標?」

 須川は横目で矢至のことを伺っていた。矢至は目を瞑る。白い烏の幻聴も幻覚も聞こえない。寂しくはあるが、悲しくはなかった。思い出ばかりに縋ってもいられない。世話になった人を、憧れている人を守るためには、肉体はともかくとして強い精神が必要だろう。

 矢至は胸を張った。太陽が眩しかった。


「須川さん、俺をあんたの弟子にしてくれ。須川さんが持っている技と覚悟を身につけて、俺は他人もあんたも助けたいんだ」

 須川は目を見開いた。反対されるのはわかっていた。だから矢至は目を逸らすことなく須川を見返し続ける。自分が決して意を曲げる気がない意思を持ってここまで来たことを伝えるために。

 須川の煙草から灰がこぼれ落ちたころ、須川は灰皿に灰を落とす。そして煙草を吸い、ゆっくりと煙を吐き出した。

「馬鹿だな、お前……割に合わない仕事なことくらい散々見てきただろ」

「見てきたからだよ。割に合わないってわかってても危険に飛び込んで誰かを守ろうとする背中を見てきた」

「美味い飯食って寝て、んで遊ぶ生活を享受すりゃ良かったのに」

「言っただろ、目標が出来たって」

「……本当に馬鹿だな」


 少し溜まっていた給料でスーツを買うことを画策しながら、矢至はただ、嗅ぎ慣れた煙草の匂いを鼻腔に入れた。

 須川はまるで、眩しい物でも見るかのように矢至を見返してる。須川の背後太陽がある。矢至もまた、須川を見返した。

 矢至は思った。自分もきっと、須川と同じような表情をしていると。

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遺骸管理局 祟化対応課局員の記録 がらなが @garanaga56

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