烏と太陽 5
垣根の中で矢至は、咳き込んだ。たったそれだけで全身に痛みが走る。
昼間だというのに雨雲のせいで太陽が隠れ薄暗く、雨が体を冷やす。息を吐き出すと打った背中が酷く痛んだ。背骨は折れてはないと思うが、肋骨はわからない。滑落しながらも頭部は覆い守ったが、それでもズキズキと膿んだような痛みがあった。
以前同じように滑落した時無傷だったのは、須川が安全なルートを選び斜面を下らせたからだ。咄嗟に矢至を投げた今回はそうはいかなかったんだろう。斜面の途中で垣根に引っ掛かったが、そうでなけらばもう少しで岩にぶつかり頭が割れているところだった。
矢至は袖で目元を拭った。ジャンパーの袖の色が濃くなり湿る。
体中悲惨な状態でも命があるのは須川のお陰だった。須川があの場で自分を投げなかったら今頃ナルに殺されていたし、須川があそこで遺骸を食べ祟化しなけらば恐らくここまで追ってきている。須川は自分を助けるために命を張ってしまったのだ。
矢至は呻き声をあげながら膝を何度も叩き自分を奮い立たせた。早く須川の元にいかなければ手遅れになってしまう。
ナルに殺されるか、あるいは祟化が進行しすぎて安楽処置が施されるか。矢至は首を振った。須川にそんな終わり方を迎えて欲しくはない。父親の時と同じようになにも出来ずに終わるのはもう御免だ。
息を止め腹に力を込める。無理矢理体を転がし垣根から抜け出すと、打撲した箇所が熱を持って痛みを訴えた。
『しっかりやれよ』
自分を斜面に投げ飛ばした時の須川の表情が脳裏を過ぎる。自分自身のことは何もかも諦め、他人の輝かしい部分を切なさそうに見ていたあの表情。矢至は歯を食いしばった。思い出すと、気にくわないという感情ばかりが胸の中に募った。
矢至は須川がどんな人間なのか知っている。
居場所が欲しいがゆえに碌でもない連中と関わり、禄でもない人間になった挙げ句使い捨てられ、自業自得とも言えるようなザマになった人間に真正面から向き合うような、真っ直ぐな馬鹿だ。
あんな人に憧れている自分も、きっと相当な馬鹿なんだろう。
矢至は地面に手を付く。雨でぬかるんだ地面のせいで滑りつつもなんとか立ち上がった直後、地震でも起きたかのように視界が激しく揺れた。頭は守ってはいたが衝撃を完全に防げたわけではない。その影響が出たんだろう。
脳が揺れるかのような感覚に矢至は吐いた。腹筋が収縮し吐瀉物が足元を汚していき、やがて口の中から卵がこぼれ落ちた。白く丸い殻にヒビが入り、人を包み込めるほどの巨大な翼が広がる。白い体毛には青紫色の光沢が浮かんでいて、雨水が羽根の上を粒の形を保ったまま滑り落ちていた。
「ヤヒロ……」
呟きに烏は何の反応も示さない。矢至もわかってはいた。この烏の足の付け根や尾羽の一部は、泥で汚したような汚れた色をしている。
しかし懐かしい名前を呟いた途端、視界が明滅した。混濁した脳は、昔遭遇した、今とよく似た状況の光景を引っ張り出す。
体を打ち付ける雨、満身創痍の体、雨粒を乗せた烏の羽根。
違うのは、体のすぐ横に崩れ落ちてきた岩があること。そして額からどろりとした血が流れ、指先の感覚が無くなっていたこと。
体を動かそうとしても駄目だった。多分背骨が折れていた。次第に視界は黒く染まっていき、音だけしか聞こえなくなる。
これは、落石に巻き込まれたときの記憶だ。事故の影響で脳の奥底に塞がれていた記憶。そして、ヤヒロとの最後の記憶でもあった。
名前を呼ぶと、ヤヒロは喉を詰まらせたような鳴き声を上げる。甘え、そして心配してきている弱々しい声。思い出してみると手にすり寄ってくる体温は温く湿っていて、ヤヒロの輪郭は酷く歪だった。指先に羽毛の柔らかい感覚に紛れ、尖った硬いものが触れた。矢至は胸が痛々しく冷えた。当時は自分の精神を守るため考えないようにしていたが、今ならわかる。あれはヤヒロが空を飛ぶに翼を支えていた、骨が飛び出したものだった。
次第に小さくなっていくヤヒロの鳴き声と自分の呼吸の音を聞きながら矢至は、死にたくないと、心の底からそう思った。
体が冷えていく中、矢至は手を握りしめた。ヤヒロが返事をするように一際大きく鳴いた声が聞こえる。
そして、口の中に何かが滑り込んできた。温かい液体と柔らかい感触。それらを咀嚼したのかどうかは記憶が定かではないが、嚥下したのだけは確かだった。直後、体中の痛みと寒さが消えていった。
手に残った余韻のようにヤヒロの体温。それが、この記憶の最後の感覚だった。
====
「ヤヒロ、そうか、お前……」
矢至の意識は現実へと戻った。巨大な烏が矢至のことを見下ろしている。小さな丸い瞳に懐かしいものを覚えたが、烏に対して名前は呼ばなかった。雨音に混じって嗚咽が漏れた。
小さな白い烏は、矢至の命を救うために自らの体を食わせた。矢至の死にたくないという願いをくみ取ってしまったのか、怪我の治療をして貰った恩返しなのかは、矢至には理解しようがなかった。
大きな烏は蹲る矢至の頭を小突き、襟を嘴で摘まんだ。矢至は顔を上げる。首根っこを掴まれるような乱暴な感覚は、須川を思い出させた。
他人に命を張って救われてばかりだ。このままでいいはずがない。まだ救える人を、自分を守ってくれた人を救えなければ、自分のことを一生許せなくなる。
矢至は立ち上がった。ふらつく体を支えるように烏はその体を貸してくれる。
矢至には不思議な確信があった。祟化した人間が変わり果てた自らの手足を自由に動かし成したいことを成すように、矢至が成したいことを、この烏が支えてくれると。この烏は、自分の意思そのものだと。
矢至は斜面の上を見上げる。烏が翼をはためかせた。烏の背中に体を預けると、瞬く間に木々や岩が通り過ぎていく。風がうねる音の中で、争う音が聞こえる。
「須川さん……」
人間の大きさほどの山犬の姿になった須川が、ナルにのし掛かったまま泣くように遠吠えを上げていた。
体のあちこちに返り血と切り傷があり、背中にはナイフを突き立てられた跡が残っている。下敷きになっているナルも首や頬、太ももとあちこちに噛傷があった。普通であれば死んでいてもおかしくない出血量だが、ナルは左耳が噛みちぎられながらも抵抗を続けている。しかし、やはりしぶとさにも限度があるのだろう。のし掛かる須川を押しのけるほどの力は、もう残ってないようだった。
矢至は息を止めた。争う末に強奪したのか、ナルの手には須川の銃があった。荒い呼吸を繰り返すナルは銃口を須川に向ける。矢至は烏の背から飛び降り間に手を伸ばす。乾いた破裂音の後、矢至は自分の骨が砕ける音を聞いた。手の平に穴が空き血が垂れ落ちる。
「貴琉、戻ってきたのか」
「おめえのためじゃねえよ!」
矢至はナルの手を踏みつけ銃を落とさせ、顎を蹴った。気絶させられればよかったが力の入りきらない体では大した力は入らない。ナルが蹴りを入れた矢至の足を思い切り掴んだ。骨の軋む音がして呻き声が漏れる。すると須川が牙を剥き唸り始め、ナルの首に牙を突き立てた。そのまま首を左右に振り噛みちぎろうとしている。須川とナルの間には矢至が挟まっていたが、にも関わらず須川はナルを首を噛んだ。
矢至は須川を押さえ込み必死で止めようとした。須川が動く度に、体中の傷口から血があふれ出している。どこか自傷めいているようにも感じた。
「須川さん、何やってんだよ……!目を逸らすなって言ったのは、あんただろうが!」
ナルが須川の目に指を突き立てようとしているのが視界の端に映り、空を仰いだ。烏が翼を翻し滑空してくると、かぎ爪でナルの指を抉った。一瞬で指が二本地面に落ち、もう一本は手から半端にぶら下がった状態になる。呻き声が上がった。
どれぐらい時間が経てば、どれぐらい負傷してしまえば祟化から戻れなくなるのかがわからない。矢至は必死に叫んだ。
「俺はもう大丈夫だから! 頼む、戻ってくれよ!」
須川は矢至の手の拘束を解こうと必死に頭を振る。吹っ飛ばされかけると、肋が叫びそうになるほど痛んだ。やはり折れていたんだろう。
須川は煩わしそうに唸った。しかし唸り声を上げるだけで矢至に牙を向けてくることはない。これだけ邪魔をしているにも関わらずだ。
一つの確信を持った矢至は、もう一度空を仰いだ。烏は自分の子でも掴むように須川の体をかぎ爪の中に収める。矢至の何倍もの力で抑えられた須川はより一層激しく抵抗しているが、抜け出せそうにはなかった。
烏が須川を抑え込むと、須川の下敷きになっていたナルが体を回転させ烏や矢至から距離を取り、体勢を立て直す。首から脈打つ度に溢れていた血は止まり掛けていた。
「何馬鹿やってるんだよ貴琉。救うことだけに集中させて貰えると思ったか」
ナルは地面に落ちていたナイフを掴み立ち上がった。青白い肌と白髪は、傷から溢れた血と、泥によって酷く汚れている。三日月のように細められていた目は見開かれ、色素の薄い目は血走っていた。
「お前は俺のことを低く見積もってる。俺の生きる理由は初めて生きる喜びを知ったあの日よりももっと頭がおかしくなりそうな物を食うこと。食いたいという欲に従って生きること、それだけなんだよ!」
「低く見積もってんのはお前だろ、ナル。お前は人間のことを対等に見てるって言ったが、本当は見下してるだろ」
ナルは乾いた笑みを浮かべた。
「そんなつもりはなかったんだけどな。でも、だったらどうした?」
「……お前の全部を拒絶する権利は俺にはない。俺だって、食っていくために禄でもないことをした。そんな生活から、禄でもない人間から掬い上げようとしてくれたのが須川さんだ。だから俺は、この人のためならどんな覚悟も決められるんだよ」
矢至はまっすぐにナルを見つめた。色素の薄い血走った目も矢至を見返す。そして数歩駆け出すように前に出た。烏は須川の体を拘束していて動けない。矢至は息を吐き身構えた。
ナルはナイフを振りかぶると烏の足元、もがいている須川に向けて凶刃を飛ばす。矢至は咄嗟に須川の前に出た。サバイバルナイフが脇腹を掠り、ナルはそのまま矢至を殴り馬乗りになった。手を首に伸ばし気道を圧迫してくる。
呼吸はおろか、首の骨が軋む感覚がした。
矢至の顔に白髪の三つ編みが垂れ下がり揺れる。その合間に矢至は、烏に抑えられている須川が狂ったように暴れているのが見えた。
血流が停滞し顔が赤く染まっていくのを自覚しながら、苦笑した。理性を失ってもなお他人を守ろうとするのが須川らしくて笑えた。
「気でも狂ったか?」
首に掛かる圧が強まる。頸椎が追られる前に矢至は背中に手を差し込んだ。下敷きにしていた硬い物に手が触れ、それを掴み引き抜く。
矢至はナルの鼻の先に銃口を当てた。色素の薄い血走った目が見開かれているのを真っ直ぐに見返しながら、引き金を引く。乾いた破裂音の後、ナルは糸が切れたように崩れ落ちた。
のし掛かってきた体を退ける。ナルの顔の真ん中に空いた穴からゆっくりと血が垂れ落ちていて、目は見開かれたままだった。
「言っただろ、どんな覚悟も決められるって」
矢至はナルの瞼に触れ、目を閉じさせた。瞼には血管の色が浮いて見える。今しがた血の流れが止まった血管だ。
矢至は立ち上がった。拘束は解けたのに、体は思うように動かない。歩く度に腹や肩に走る激痛を食いしばりながら堪え、須川のもとへ歩いた。
烏は須川に傷をつけずに掴んでくれている。山犬になっても須川は険しい顔を見せている。やはり相変わらずだ。
矢至は牙を見せつけ唸る須川の口の中に手を入れた。皮膚に鋭い牙が突き刺さる。それでも、腕は噛みちぎられなかった。湿った喉奥に指を引っかける。汚れた毛で覆われた腹が収縮した。
「須川さん、帰ろう。俺はまだあんたに、何も返せてないんだ」
須川の目が矢至に向けられる。蜜蝋のような目の中にある瞳孔が揺れた気がした。
間もなく吐き出された吐瀉物の中には、白い毛に混じって乾いた干物のような肉が混ざっていた。
矢至は全身の力が抜け、その場に座り込む。泥で汚れるのは今更どうでもよかった。どうせ既にボロ雑巾のような状態なのだから。
須川を掴んでいた烏はかぎ爪の力を緩め須川をその場に下ろすと、矢至の傍に寄ってきた。青紫色の光沢を浮かべる羽根を撫でる。引き金を引いた腕は緊張と疲労と痛みで震えていて、情けない状態だった。
「もっと頑張んなきゃなあ」
烏は喉を詰まらせたような鳴き声を上げると矢至に膝の上に頭を乗せ、目を瞑った。そして一呼吸置いてから、少しも動かなくなった。
すぐ隣から水たまりを踏む音が聞こえた。
「馬鹿だな……お前、こんなになってまで戻ってきたのか。薄給のくせに、割に合わないことすんじゃねえよ……」
須川が矢至を見下ろしていた。疲労困憊しふらついているものの、傷は塞がっている。矢至は口角を上げた。
「本当だよ。割に合わなすぎる。こんなに必死こいて働いたんだから、あんたがラーメン奢ってくれよ」
「……安上がりだな。ついでに肩も貸してやるよ」
須川は矢至の襟を掴む。首根っこを掴むように無理矢理立たせ、そして肩を差し込んだ。呻き声を上げると、歩くスピードは加減された。
雨は勢いを潜めてきている。遠くから車が山道を登り走ってくる音と、鹿倉の声が聞こえてきた。隣で須川は安心したように息をつく。
矢至はふいに顔を上げた。
「どうした?」
「……いや、なんでもない聞き間違いだ」
「俺もお前も相当疲れてるな」
頷いた矢至は、少しだけ瞼を閉じた。
ヤヒロの鳴き声が聞こえた気がする。幻聴だろう。脳が満身創痍の体を哀れに思ったのか、自分が聞きたいと思った物を聞かせているだけだ。それでも矢至は、自分の背中を押すかのように鳴く烏の幻聴を聞いて口角を上げた。
頭上では、曇天の中翼を広げた鷹が自由に空を飛び回っていた。鷹は須川と矢至の頭上を長い間旋回し、やがて何にも捉われないように霞立つ木々の上を飛んでいく。矢至と須川はぬかるんだ地面を踏みしめながら、その飛翔を見送った。
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