『トリとサメ』連作第一話 ひなまつり

鳥辺野九

第1話 ひなまつりとナルコ


 誰だってこんな泥まみれになって働きたいだなんて思わない。でも仕方がない。特に優れた能力もないあたしにはこれしか出来る仕事がない。

 粘つく泥は一塊りの生き物みたいに跳ねて身体にひっつく。汚れた泥を流すためにきれいな泥水を探す始末だ。おまけにこの泥はやたらと灰臭い。何かの燃え滓のような臭いがこびりつく。仕事開始五分で嫌になる。十五分も経てば辞めたくなる。でも辞められない。この仕事を辞める時は死体になる時だけだ。


「ナルコ! そっちに一匹、いや二匹だ!」


 声と態度だけはデカい班長が叫ぶ。キセルを振り回してあたしに檄を飛ばす。煙がもうもうと泥水に跳ねて巡る。二つの筋が泥を割ってこっちに向かって走る。仕事開始二分で、ほら、もう山場だ。

 大暗渠。そこは薄暗い泥の溜まり場。工場から垂れ流される廃泥は下水道を巡り巡って泥集積場に渦巻き沼を作る。そこには廃棄された泥以外にも産業廃棄物も違法に投棄されている。いわば工業地帯の見て見ぬ振りするゴミ捨て場だ。

 渦巻き沼へ集まるのは何もゴミだけではない。何をとち狂ったのか産業有機廃棄物を栄養と勘違いしたドロザカナたちが下水道を遡って集まってくる。こいつらが厄介なのだ。

 ドロザカナはその巨体で有機廃棄物を食い散らかして、廃棄された機械群まで噛み砕いてしまう。闇リサイクル業者にとってこれほど厄介な商売敵はない。

 そこであたしらの仕事、ドロザカナ駆除業者の出番だ。誰もやりたがらない汚くて臭い作業に取り掛かろう。

 一匹でも面倒だというのに、泥を走る筋は二つ。一瞬どちらが大きいか見定めようと思ったが、やめた。この仕事は効率重視だけではやっていけない。多少強引でもいかに早く仕留めて、一分でもいいから早く泥から上がるかだ。二匹まとめて相手をしてやる。

 太ももまで泥に浸かっては身動きもまともに取れない。あたしみたいにひなまつりがお似合いな華奢な女子ならなおのこと。しっかり下半身を泥に沈めてどっかり腰を据えて出来るだけ上半身を捻って、キセルを咥えて雁首に泥まみれの手を添えて、火皿にぽっと火を灯す。

 ガストーチライターのまばゆい灯りが薄暗い暗渠の泥溜まりを切り裂くように照らした。

 胸いっぱいに薬草タバコの煙を吸い込み、鋭い線のように吐き出す。白い煙は泥にラインを引いた。これがあたしの相棒への指示図となる。ドロザカナ、二匹まとめて喰らってしまえ。

 泥を波打たせて筋を引いてこちらへ向かって突進してくるドロザカナ。大きさは1メートルあるかないか。少し大きめだ。人間一人、あたしみたいな小柄な身体なら容赦なく噛み付いてバラバラにしてしまう大きさだ。でもあいにくとあたしの相棒も、獰猛なのだ。

 泥間に三角形が現れた。音もなく泥を切り裂く青い背鰭。一筋の線を描いて泥を掻き分ける魚影。その名は、ドロザメ。

 揺れる泥色が盛り上がり、青く濡れる紡錘形が空を舞い、その鋭く尖る歯列で一匹のドロザカナに喰らい付き、ざぶんと泥ごと丸呑みした。

 あたしはこいつをミカヅキと名付けて使役している。あたしは泥の海のサメ使い。


「ナルコ! もう一匹いるぞ!」


 ガタイがデカいだけで役立たずの班長がキセルを振り回して叫ぶ。言われなくともわかっている。あんたが振り回しているそれは何だ。あんたも一端のサメ使いならキセルで煙を吐いてサメを踊らせろ。

 そんな言えるはずもない独り言を煙と一緒にぐいと飲み込んで、細く指差すように吐き戻す。ドロザメは特殊なタバコの匂いに敏感だ。興奮状態になって盲目的にこちらの命令に従ってくれる。

 サメは泥を跳ね散らかしながらくるりと反転してもう一匹のドロザカナにがぶり噛み付いた。1メートルのサカナと3メートルのサメだ。勝負になるはずもない。決着は一瞬である。

 もうすでに満腹のようで、ドロザカナの亡骸をぷいと無視してあたしの太ももに擦り寄ってくるサメ。ミカヅキ、いい子だ。ご褒美に甘い香りのタバコを嗅がせてやろう。

 キセルの火皿に新しい刻み煙草を詰めてトーチで燻す。少し苦味を含んだ甘ったるい香りが暗渠に広がっていく。サメは嬉しそうに目を細めた。

 そこであたしは暗渠内が明るいことに改めて気が付いた。キセルの明かりなんてものではない。くっきりと影を作るもっと強い光だ。頭上からゆっくり降下しているように、あたしとミカヅキの背鰭の影がゆるりと伸びる。


「おいおい、なんだありゃあ」


 図体がデカいだけが取り柄の班長が間の抜けた声を漏らした。見れば、ぽかんと口を開け放って暗渠の天蓋部を見上げている。


「どうやら、オレたちにもツキが回ってきたようだな」


 暗渠の天蓋部には一定間隔にスリット状の空気穴があり、昼間なら懐中電灯も要らないくらいの陽の光がこぼれてくる。スリットは大きく穿たれて、人間一人ならするりとすり抜けて落っこちるほどの隙間だ。その隙間から強い光が漏れて、細い曲線のシルエットがゆっくりと落下していた。

 人だ。


「女の子が、落ちてきてる」


「ナルコよ。おめえ、見たことあるか? こいつはトリだぜ」


 スリットから青空が見える。青空の向こうには天空都市。いわゆる天空階級の人間様が暮らす機械都市が浮かんでいる。そこで暮らす高級な人々を、地層での貧相な生活を余儀なくされるあたしたちは『トリ』と呼んでいる。空を飛ぶトリが落ちてきた。


「トリの降臨だ。ついてるぜ。これでこんなクソみたいな仕事ともおさらばだ!」


 班長がドブに落ちた犬みたいに泥に濡れそぼって吠えた。

 あたしは優雅に落下するトリの姿を見ながら思った。

 きっとこの子は毎年ひなまつりを優しい家族みんなで楽しんだり、学校に通って友達と遠い外国の言葉を学んだり、温かくて栄養のある毎日違う食事を楽しんだり、あたしの知らない世界に生きてきたんだ。彼女のそんな幸せな世界ももうおしまいだ。天空都市からこぼれ落ちてしまったから。

 あたしはあたしと同い歳くらいの少女が空から泥へ落ちていくのを見ながら心の中でつぶやいた。

 ざまあみろ、って。

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