13階の住民

わんし

13階の住民

 美咲みさきは、新しい生活を始めるために、賃貸マンションに引っ越してきたばかりだった。


 数日前に荷物をすべて運び入れ、ようやく落ち着いた気持ちで一息ついている。小さな部屋ではあったが、必要最低限のものを揃え、静かな街の中で新たなスタートを切るには十分だった。


 彼女が住むマンションは築年数が少し経っているものの、外観も内装もきれいに保たれていた。


 エレベーターに乗り、部屋へと向かう途中、ふと気づいたのは、エレベーターのボタンパネルに「13階」というボタンがあることだった。


 美咲は不思議に思いながらも、そこまで気にすることはなかった。なぜなら、部屋の間取り図を見た限り、13階の存在は確認できなかったからだ。


「もしかして、13階は存在しないのかな…?」


 美咲は一人ごちる。13という数字に少し不安を感じながらも、他のフロアのボタンを押して自分の部屋のある階へと向かった。


 数日後、買い物から帰ってきた美咲は、いつものようにエレベーターに乗り込んだ。荷物が重かったため、すぐにボタンを押すのを躊躇してしまった。


 そのとき、エレベーターが突然、停まった。小さな衝撃が身体に走り、少し驚きながらも何気なく他のボタンを押してみる。


 しかし、何度押しても、エレベーターは動く気配を見せなかった。


「あれ?」


 美咲がもう一度「1階」のボタンを押してみた。すると、しばらくしてエレベーターは動き出した。


 しかし、目の前に表示された階数に驚いた。なんと、「13階」の表示が点灯しているではないか。


 美咲は、思わず息を呑んだ。彼女はこのマンションには13階のフロアが存在しないことを確認していたのに、今、まさにその階に向かっている。


 恐る恐る扉が開くと、目の前に現れたのは、どこか不気味な静けさを湛えた長い廊下だった。


 その廊下には、ひときわ目立つことなく、無数の部屋が並んでいる。ただし、廊下の静けさと、どこか異常な空気に美咲はぞっとする。


 だが、引き返すことができない。後ろを振り返ると、エレベーターのドアは閉まり、階数の表示も元に戻っていた。13階の存在自体が疑わしく思えてくる。


 美咲は、しばらくその場に立ち尽くしていたが、足が動き出す。それでも、どうしても引き返す勇気が出ないまま、一歩踏み出した。しかし、突如として目に入ったものが彼女の注意を引いた。


 その先に見える部屋の扉には、赤く書かれた文字で「入るな」という文字が書かれていた。


 美咲はその言葉に背筋を凍らせた。明らかに誰かがそこに住んでいるという気配があるが、それでもその扉には無言の警告が伝わってきた。どうしても気になり、近づいてみるが、やはり扉の向こうは静寂に包まれている。


「やっぱり、何かおかしい…」


 美咲は自分の直感に従うように、振り返り、エレベーターのボタンを押そうとした。だが、ボタンを押しても一向に反応しない。焦りと恐怖が彼女を襲う。何度も押し続けるが、エレベーターは動かないままだ。


 その瞬間、彼女の背後で、静かな音が響いた。


 ドアノブが、ゆっくりと回り始めた。


 美咲は、背後の音に反応し、恐怖で体が硬直した。ドアノブが回る音が、彼女の心臓の鼓動をかき消すかのように響く。足がすくみ、動けない。振り返りたくない、しかし、振り返らずにはいられない。


 ゆっくりと振り返った彼女の目に飛び込んできたのは、薄暗い廊下の先にひっそりと開いた扉だった。ドアノブは完全に回りきり、扉がわずかに開いた状態になっている。静まり返った空間が、逆に異常な存在感を放っていた。


 美咲はその扉を凝視したまま、静かに息を呑む。もし誰かがそこから出てきたら、それがどんな人物なのかすら予測できなかった。怖さと不安で体が震え始める。しかし、足を踏み出さないわけにはいかないと感じていた。


「戻らなきゃ…」


 そう心の中で呟いた瞬間、エレベーターのボタンを押しても、反応は依然としてない。何度も何度も押し続けても、まったく無駄だった。


 その時、廊下の向こうから、ひときわ低い声が聞こえてきた。


「……入らないの?」


 その声は、まるで耳元で囁くように感じられた。美咲は驚き、再び背筋が凍りつく。目を凝らして見ると、扉の隙間からわずかな光が漏れ、誰かの顔がちらりと見えた。だが、それは一瞬のことだった。


「入らないの?」


 同じ言葉がもう一度、今度ははっきりと聞こえた。美咲は思わず後ずさり、エレベーターのボタンを再度押すが、依然として反応はない。足元が震え、心臓が激しく打ちつけるのを感じる。


「い、いや、入らない…!」


 その言葉が、美咲の口から出た瞬間、突如として足音が聞こえた。


 ゆっくりと、そして確実に、扉が開いていく。何かが、あるいは誰かが、その扉の向こうにいる。


 そして、音が止んだ。あまりにも静かすぎて、美咲はその静寂に恐れを抱く。何も見えない、何も聞こえない。だが、そこには確かに誰かがいる、そしてその誰かが美咲を待っているような気配を感じる。


 美咲は怖くて、動けなかった。動けば、その誰かが目の前に現れる気がして、恐怖で固まってしまった。


 突然、背後から冷たい風が吹き込んだ。息を呑んで振り返ると、エレベーターのドアが開いていた。美咲は一瞬その隙に駆け込むことを考えたが、振り返ると、またあの異常な静けさが広がっているだけだった。


 もう一度、心を決めてエレベーターに向かおうと足を進めたその瞬間、足元から冷たい感覚が広がっていった。


「入らないの?」


 今度は耳元ではなく、目の前からその声が響いた。美咲がその声を振り向いてみると、驚くべきことに、扉の隙間から一人の女性が顔を覗かせていた。


 彼女は、まるで鏡の中から出てきたかのように美咲とそっくりだった。


 その女性は、薄い笑みを浮かべて、ゆっくりと手を伸ばしてきた。


「あなたの部屋、代わって?」


 美咲の息が止まった。鏡の中にいる自分が、なぜか目の前に立っている。その顔を見つめることができなかった。彼女の目は、どこか冷たく、非現実的だった。


 そして、彼女の手がさらに美咲に近づいてくる。


 美咲は、何かに引き寄せられるような感覚を覚え、恐怖のあまりその場から逃げ出すことができなかった。


 美咲は、目の前の女性の手が自分に伸びてくるのを見て、強烈な恐怖に包まれた。心臓が激しく跳ね、全身が硬直する。あの女性が、自分を取り込もうとしている――その思いが頭を支配する。


「代わって?」


 その言葉が、どこまでも響いていくように感じた。美咲は、恐る恐る後ろに一歩下がり、次の瞬間、駆け出した。足音が乱れ、息が荒くなり、彼女の身体は完全に恐怖に支配されていた。


「やめて! 近づかないで!」


 その声は震えていた。だが、その言葉は、無情にも何の力も持たなかった。美咲が振り返った瞬間、目の前にあの女性が立っていた。微笑んでいるが、その笑みはどこか歪んでいて、まるで自分を誘い込むような危険なものに見えた。


 美咲は、次にどうすべきか分からなかった。頭の中は混乱し、身体は重く感じられた。


 ふと、彼女は階段の存在に気づいた。エレベーターが動かない今、階段しか道はない。だが、その階段がどこに続いているのかも分からない。心の中で必死に考え、恐る恐る振り返り、階段の方へ足を踏み出す。


 駆け上がることはできなかった。美咲はただ、階段を下り続けるしかなかった。怖さが全身を包み込み、足が震えながらも、一歩一歩と降りていく。


そして、何度降りても――


「13階」


 その言葉が、彼女の耳に響いた。目の前には、何度も見た「13階」の扉が現れていた。何度も何度も降りていったはずなのに、どうしてここに戻ってきてしまうのか、美咲には理解できなかった。


 必死に階段を駆け下り、再度振り返る。しかし、扉は変わらず開いていて、その奥にいた女性――いや、美咲とそっくりなその存在が、微笑んで手を伸ばしてきている。


 美咲は足を止めることなく、再び駆け出した。今度こそこの場所を離れたい。エレベーターを探し、もう一度その扉の前に立ちたくない――その一心で足を進める。


 だが、また同じ扉が目の前に現れた。


「13階」


 背後から、かすかな足音が聞こえる。振り向くことはできなかったが、確かに追い詰められている。階段を何度降りても、出口は見つからない。


 美咲は心の中で叫んだ。


 もうこの場所からは出られないのだろうか? 自分が閉じ込められたのは、この部屋なのか、そして――あの女性と同じように、ここに永遠に閉じ込められてしまうのか?


 その時、彼女の目の前に扉が開いた。無理やりではなく、ゆっくりと、まるで引き寄せられるように開かれていく。


 そしてその先に現れたのは、鏡の中から出てきたような、あの女性の姿。


「……あなたの部屋、代わって?」


 その笑顔が美咲を飲み込んでいく。もう逃げられない。美咲は無力感に襲われながら、その手を掴まれ、ゆっくりと引き寄せられていった。


 美咲が引き寄せられた瞬間、世界が暗転した。まるですべての光が消え去り、彼女の周囲が漆黒の闇に包まれていくのを感じた。目を開けても、何も見えない。ただ、音もなく、静寂が広がっていた。


 その感覚は、まるで時間が止まったかのようだった。美咲は無意識のうちにその女性の手を振りほどこうとしたが、力が入らない。体が重く、言葉を発することもできなかった。ただただ、押し寄せる恐怖に耐えているしかなかった。


 そして、どれくらいの時間が経ったのだろうか。突然、目の前に明かりが灯り、その光の中に美咲の部屋が現れた。


 彼女は目をこすり、信じられない光景に呆然とした。その部屋には、見覚えのある家具が並び、普段の生活空間が広がっている。しかし、その空気には何か異質なものが漂っていた。


「おかしい…」


 美咲は小さくつぶやいた。部屋の中に何か不穏なものが感じられる。しかし、すぐに彼女はそれが何かを知ってしまう。


 ドアがゆっくりと開き、外から冷たい風が入ってきた。美咲は心臓が跳ねるような気がして、ドアの先に目を向けた。


 その瞬間、背後から声が響いた。


「おかえりなさい」


 振り返ると、そこにはあの女性が立っていた。笑顔を浮かべ、まるで歓迎するかのように手を差し出している。


 美咲は息を呑んだ。その女性の顔を見つめたとき、彼女が気づいたことがあった。それは、あの女性が自分とそっくりだったということ。しかし、それは鏡のような姿ではなく、あたかも自分が目の前に立っているかのような錯覚を引き起こすものだった。


 その女性は、ゆっくりと近づき、美咲の耳元で囁いた。


「代わってくれる?」


 美咲の心臓が止まるかと思った。その声が、まるで自分の中に直接響いてくるような感覚を覚えた。自分がこの部屋にいることに、どこか違和感を感じると同時に、彼女は自分が何かに取り込まれてしまったことを理解した。


 その後、時間が経ち、美咲の部屋には新しい住人が引っ越してきたことが告げられた。不動産屋からの連絡があったとき、美咲はその言葉に驚きを隠せなかった。


「前の住人は、存在しない。」


 美咲は一瞬、頭の中でその言葉を反芻はんすうした。自分が引っ越してきたとき、部屋は確かに誰も住んでいなかった。しかし、今やその空間には何か不明な存在がある。そして、気づけば、美咲はその存在の一部になっているような感覚にとらわれていた。


 次の瞬間、部屋の隅で音がした。振り向いた美咲の目に映ったのは、部屋の隅に立つ新しい住人の姿だった。その顔は、彼女がかつて見たことのある、あの女性――いや、自分自身だった。


 彼女は微笑みながら、静かに手を振った。


「ようこそ、私の新しい家へ。」


 美咲はその瞬間、すべてを理解した。彼女はもはや、かつての自分ではない。そして、彼女の部屋は、永遠に「13階」の部屋へと変わり果てていたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

13階の住民 わんし @wansi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ