第19話 榊の恋(花火大会⑤)

「榊ッ」

川を避けるのを忘れてスニーカーがやや濡れた。榊は弾かれたように視線を合わせ、すぐに逸らした。

「どうした、頭痛い?」

「別に、大したことない」

 榊は時間を確認した。

「もうこんな時間か」

「でも、出発まではまだあるでしょ?俺ここにいていい?東井が女の子と話してて、置いてかれちった」

 榊が気だるげに頷く。雪本は榊が座っているベンチの、向かいのベンチに座った。

 しばらくすると、榊が読んでいた文庫本を閉じ、雪本に自分の座っているベンチを方を指し示した。

「そこだと日が当たる」

「あ、いいの」

 雪本が榊の隣に座るものだと思って自分のベンチから立ち上がると、榊も雪本と同時に立ち上がり、自分は厳しい日に晒される川岸の方に移動して、器用に浴衣の裾を捌いてかがんだ。

「榊は、そっちで暑くないの」

「さっきまでそこにいたし」

 雪本が榊の座っていた位置に腰を下ろすと、心做し、体温が残っていた。

気取られないよう榊の方を伺うと、屈んだまま膝の中に顔を埋めていたが、それもわずか数秒のことで、すぐに顔を上げる。雪本も直ぐに、榊が置いていった文庫本を眺めている振りをし、数秒経過するのを待って、その本を持って榊の元に歩き始めた。

「お前なんか、いつもこれ読んでるよね」

榊は横目で一瞥して、首をひねった。

「いつもってほどか?」

「夏からずっとじゃない?」

「ああ。……まあ、あまり集中しては読まないから。もう何度も読み終わってるし」

 夏目漱石の『行人』だった。雪本は読んだことこそなかったが、国語で二三度名前を聞いたことがあったので、作品の存在自体は知っていた。

「結構分厚いんだ」

「読みたければ貸すけど」

「読み切れるかな」

「読まないなら」

榊は温度のない声で言って、手を差し出した。

「悪いけど、濡らしたくないから」

「あ、うん。ごめん。勢いで持ってきちゃった」

 雪本は言われるまま文庫本を手渡したが、受け取った榊の手を、腕を見た瞬間、考えるより先に掴んでいた。

「見せて」

 振り払おうとした榊も、雪本が両手で掴むと、諦めるように力を抜いた。

 榊の左腕は赤かった。

 正確に言うと、細かな内出血による斑点が無数に現れていた。バレーボールの授業でレシーブをしすぎた時の跡にも似ていたが、そうした自然な付き方をしたものでないことは明らかだった。

 浴衣の袖で隠れる肘裏辺りから二の腕にかけてが特に酷く、所々、爪を深く押し当てたような跡が残っていた。

「元からよくやる。今日に始まったことじゃない」

榊は半ばムキになったような激しい口調で言った。

「元から?」

「単に、癖なんだ」

 雪本は、自分がその言葉を信じているのか疑っているのか、よく分からなかった。榊の声は変な場所でせき止められたように固く、触れる腕はこの夏日の中、なお温かかった。

 榊は立ち上がった。雪本は抵抗せずに手を離して、榊の目を見ようとした。榊の方は雪本の目を見ずに、戻してくる、とだけ言ってベンチの方日本を戻しにいった。

 雪本は周囲を見回した。雪本と榊の他は、川辺には、誰もいなかった。もしかしたら榊はそのまま川辺を出ていくかもしれないと思ったが、不思議なくらいあっさりと、再び雪本の隣にかがんだ。

 目立たない二重まぶたが、今日ばかりは前髪に隠されることも無く晒されている。彫りが浅く幅もそれほどない二重の線は、むしろ、三白眼の鋭さと目の切れ長さに、どこかしら冷たさを足すような形で、淡々とした雰囲気を纏わせる原因にもなっていた。和服は榊のそうした鋭利な雰囲気をさらりと包んで、角をとり、静かにまとめあげていた。

「榊さ」

「何」

 榊が、やや油断したように、何時間かぶりに雪本の目を正視した。

「浜上さん以外に好きな人いるでしょ」

 その時榊は、目に浮かんでいた一切の感情を消して、ただ沈黙した。しかしすぐに、バツが悪そうに小さく笑った。黙ってしまった以上、隠しようもないと、すぐ判断したようだった。

「浜上さん、いい人そうなのに、それでも付き合わないって断言してるからさ。そうかなって」

「それだけ?」

「それ以外に身に覚えでもあんの?」

榊はその問いには答えずに笑って、手元をみながら呟いた。

「何様なんだろう」

小さな声だったが、奇妙なほどはっきりと聞こえた。

「好きな相手がいて、他の人間から告白されて、断って。そういうことをしている自分が心底気持ち悪い」

「なんで、気持ち悪いの?」

そう聞くと、榊はせせら笑った。

「いや、なんでって」

「分からないから聞いてるんだけど」

榊はそれでも可笑しそうに笑って首をひねる。

「そんな大層な話じゃない。単純に、生理的に、恋愛沙汰の土俵にあがること自体が冗談みたいにしかならない奴だっているだろ」

「何それ……。何、意味わかんないんだけど、榊がそんな奴だってこと?」

「それ以外どんな解釈があるんだよ」

「そんなこと、誰かに言われたの、好きな人とかに言われた?」

「いや……」 

榊は噛み締めるように続けた。

「もし相手からそんなことを言われたら。少なくとも、いつも通りの生活はできていないと思う」 

 榊はそこで、一旦時計を見た。まだ集合時間まで余裕があることを確認すると、川の流れを見るともなく続けた。

「簡単に言えば、ヒステリー持ちなんだよ」

「榊が?」

「自分でも知らなかったくらいだけど……感情がエスカレートしやすいって言った方が近いか。元々考え込みやすいのを、適当に流して切り上げてやってきたのが、急に上手くいかなくなった」

「好きな人が出来てから?」

「あまり言わないで欲しい」

「え?」

「『好きな人』みたいな、そういうことを」

言わないで欲しい、と、榊は笑った。その笑みには照れや恥じらいの類が一切なかった。

「その人には、気持ちは、言わなくていいの?」

「言わない方が絶対にいいと思ってる」

「どうして?嫌われてるわけじゃないでしょ?」 

「知らないし、知りたくない。ただまあ、どの道、言ったらまず嫌われるよ。その人にも好きな人がいるし」

「だからって嫌われるってなんでわかるの、そんなに脈ナシなの?」

「脈とかいう次元じゃない。相性とかいう話でもない。普通に、自分自身の魅力不足というか、人間力不足みたいな、そういう類のいちばん酷いものだと思う」

雪本が言葉を挟もうとするのを、榊は遮った。

「自分でそう思ってる。客観的にも、そう判断できる要素は沢山あるし、実際、比較さえしたら取り立てて誇れる要素なんてほとんどないし、自分でだって別にもともと、特別自分を好いてはないから」

 榊はそこまで一気に喋って、また新しい笑顔を作り直した。

「だから正直もう、どうでもいいと思ってる。何かしら期待してた時期も無くは無かったけど、今はもう、何を期待してたか思い出せないし、思い出しても嫌になるだけだから」

「そりゃ……」

声が震えた。榊知理という人間を面と向かって貶められることの息苦しさは、想像を軽く上回っていた。貶めているのが本人であると知っていても、その言葉から榊をできるだけ遠ざけてやりたかった。

「そりゃ、誰だって、恋愛したら、見ようによったらバカバカしいくらいの期待をするもんなんじゃないの。見ようによっちゃそれがすっごい大事なことかもしれないだけで」

「バカバカしいって自分で思う以上、相手からだってそう思われることを考えるだろ」

「でも浜上さんは、榊に、そういうふうに思って欲しくて、声をかけてきたんじゃないの」

「だから分からないんだよ。浜上さんの気持ちが。自分が、恋愛どうこうで嫌な思いをしたから、だからできるだけのことをしたいとは思う。でもどれだけ考えたところで自分が浜上さんの立場なら絶対自分を選ばないし。……それでも浜上さんは、割とはっきり具体的にものを言ってくれるから、私もそれにだいぶ助けられたところがあって」

「リクエストをしてくれるから?」

「そう。だから私もそれにこたえられた」

「何をリクエストされたの?」

 榊は不意に黙り込んだ。

 雪本は一瞬ゾッとしながら、咄嗟に笑った。

「なに、聞いちゃまずかったの」

榊はしばらく、考えて、今度は笑みもつくらず、

「別に。どうでもいいし」

と言った。

「浜上さんさえいいって言ったら、聞かれたら、何でも話すよ」

「怖いよ。いいよもう。さすがに最後まではないでしょ」

「最後?」

榊はふと、目を丸くして尋ねた。そして意味を理解して、慌てて首を横に振った。

「いや、それは」

「ああ、ないのね。良かった」

「そこまで趣味のねじ曲がった人じゃない」


 榊は変に糸が切れたように笑った。


「これはまだ考えているだけだけど」

「うん」

「転校しようと思ってる」

「転校?」

榊は頷いた。今までで一番いい笑顔だった。

「今のまま学校にいても、ろくなことにならない気がするし、どうにもならないし、浜上さんにも申し訳ないから」

「榊はその方が楽なの?」

「すごく楽になると思う。――逆の可能性もあるか」

 雪本はもう一度だけ、周囲を確認した。川辺にはやはり、雪本と榊しかいなかった。

「榊」

「何」

「告白しなよ」

榊が目を合わせた。雪本は自分でも驚くほど落ち着きながら、同じ言葉を繰り返した。

「告白しちゃいなって。転校するなら、いいじゃん。告白してから転校しちゃえばいいよ」

「――まだ、考え中だって言ったろ」

「じゃあ、転校しなくても、告白しよう。大丈夫だからさ。絶対大丈夫だから、言っちゃおう。結果が着いてくるかどうかはそりゃ、別問題だけど、お前が怖がってるようなことは絶対起こんない。お前を貶めるようなやつは、ここにはいないんだよ」

 榊の目は、瞬きを忘れたようにはたと雪本を見ていた。

 切り落としていた感情の断面がチラつくような眼差しで、雪本と自分自身をいっぺんに見つめているようだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

蜥蜴の殺し方 3【折り返す】 昼八伊璃瑛 @chuBachi_irie

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ