マーメイド

鈴女亜生《スズメアオ》

マーメイド

 都内某所。静かな厨房に佇む男が一人。手には包丁を握り締め、まな板と向き合っている最中だった。


 老舗の料亭で働き始めてから、三十年が経過していた。板前としての仕事にも自信がついてきた中での声掛けだった。何を任されるのかは分からないが、自分が選ばれたからには、最高の仕事を見せようと意気込み、訪れた場所がここだった。


 そこで仕事の内容を聞かされ、調理を任された食材が目の前のまな板の上に乗っているものだ。


 黒みがかった尾鰭、銀色の鱗――から繋がる対照的な白い肌、光の束のような金色の髪。

 確かに尾鰭からしばらくは魚のそれと違いないが、そこから繋がる上半身は全く違うもので、見るからに人間のそれだった。


 所謂、人魚である。


(調理……?)


 包丁を握り締めたまま、まな板の上でこちらを涙目で見つめる人魚を見つめ返し、疑問に思った。人魚は手を縛られ、魚の尾である下半身も固定されているために動けないのだろう。逃げるどころか、抵抗すらできない状況だ。


 調理とはつまり、これから、この人魚を捌くのかと冷静さを保ったままの頭で考える。


 確かに尾の方は魚であり、そちらを捌けと言われたら、捌けなくないかもしれないが、上半身は明らかに人間だ。人魚の身体の構造は知らないが、見た目の印象としては魚の調理ではなく、人間の手術の方が近いだろう。


 これは殺人ではないのかと戸惑い、板前は厨房の外に目を向ける。そこには板前を呼びつけた本人である、一人の女が立っていて、今か今かと料理を待ち構えている客たちに、いろいろと説明をしている最中のようだった。


 あれやこれやと板前の経歴を説明し、これから作られる料理の期待値を上げているようだが、こちらはそれどころではない。


「ちょっと、あんた……!?」


 厨房から小声で女に呼びかけると、女は板前の声に気づいたらしく、会話を中断させてから、厨房の中に足を踏み入れてきた。


「何でしょうか? 早く調理を進めてください」

「いや、調理って……。魚ならともかく、これはどこからどう見ても殺人になるだろう?」

「いえいえ、良くご覧ください。下半身が魚の人間なんていませんよね? 当然、戸籍もないので、存在しているという証明は何もありません。たとえ、貴方がここでその身体をバラバラにしても、何の罪には問われませんよ」

「俺の心に信じられないくらいのトラウマと罪悪感を生むけどな!?」


 仕事で遺体を解剖する必要があるなら話は変わってくるかもしれないが、これはそういう訳でもない。相手は生きている上に、見るからに死を怖がっている。誰がどう見ても、奇特な殺人でしかない。


「第一、どう調理してくれって、あんたは頼んだ?」

「活け造りですが?」

「グロいだろ!? 魚の部分、ここしかないんだよ!? 後のほとんどは人間だから、そんなもの、ほとんど殺人現場になるだろうが!?」

「いえ、でも皆さんのご希望ですので」

「ちゃんと考えてから、希望は出してくれって言えよ!? 言ったとしても作らないけどな!?」


 板前の抗議に女は面倒そうに溜め息をつく。


 板前への紹介が嘘でなければ、女は総理の秘書であるらしかった。板前の料理を待っているのは、総理を始めとする政治家と、一部の海洋学者らしい。


 人魚の肉を食べると不老長寿になれる、という伝説から、発見した人魚の存在を隠したまま、こっそりと食そうと板前に話を持ち込んだらしかった。


「でしたら、第二希望の煮付けでいけますか?」

「いけませんけど!? そもそも、調理からできませんけど!?」

「これだけの調理場を用意して、一体、何が不満だと言うのですか?」

「食材だよ!? 魚は捌けるけど、人間は捌けないの!? あんた、料亭で調理した人間が出てきたことあるのかよ!?」

「はい」

「ないだ……えっ、あるの……?」


 真顔で答える秘書の発言が本当かどうかは分からなかったが、抗議のために開けてはいけない扉を開けてしまっては意味がないので、それ以上の追及の言葉は飲み込むことにした。


 それよりも、今はまな板の上の鯉ならぬ、まな板の上の人魚が問題だ。

 拘束され、まな板の上に乗せられ、包丁を持った男が迫っている、とだけ聞けば、ホラー映画のワンシーンでしかない。


「もっと冷静になって考えてくれ。人魚の肉を食ったらどうたらっていうのは、あくまで伝説なんだろう? それなら、本当にこの人魚を食っても、意味があるかは分からないよな?」

「それはそうですね」

「なら、そんな不確かな理由で殺すべきじゃないだろう?」

「本当か分からないから、食べて確かめてみるという考えもあります。食べて不老長寿が得られれば伝説は本当、何もなければ伝説は嘘。どちらにしても、取り敢えず、食べてみればいいんですよ」

「取り敢えずで殺される、この子の気持ちにもなれよ!」


 板前が何を言ったところで、既に人魚の処遇については、方向性が決まってしまっているようだった。調理を拒んだとしても、他の板前が呼ばれるだけだろう。いつかは調理を受け入れる板前が現れ、この人魚は殺害されるかもしれない。


 ちらりと人魚を見る。こちらを見つめる視線や表情はホラー映画で見覚えのあるものだ。大概、こういう表情をしている人は殺される。言ってしまえば、死相が出ている。


「というか、そもそも検査とかしたのか? 下手に食べると、死ぬとかないか? 毒とか」

「ああ、その心配には及びません」

「調べたのか?」

「いえ、そのために学者の皆さんをお呼びしたので」

「調理してから調べるっていうことか?」

「というよりも、彼らに先に食べてもらえれば、何かあっても、彼らが死ぬだけなので」

「毒見!? 怖っ!?」


 政治家の見たくもない裏の顔を目撃してしまい、板前は眉を顰める。何とかして、人魚を調理しない方向に持っていきたいのだが、秘書はそれを許してくれそうにない。


 そう思っていたら、駄々を捏ねる板前を面倒と思い始めたのか、表情を曇らせた秘書が溜め息を一つ漏らし、さも当然のように語り始めた。


「もしかして、調理できないとこちらが判断すれば、すんなりと帰られるとお思いですか?」

「……どういう意味だ?」

「もし人魚の調理が不可能となれば、その時はそれ相応の対処をさせていただきますよ。あくまで、ここでは何も起きていないんですよ。人魚もいなければ、それを調理した料理人も、それを食べた客もいない。そういうことに決まっているんですよ。お分かりですか?」


 秘書が言わんとするところを板前はすぐに察し、ゆっくりと青褪めていた。


 要するに、人魚の調理ができないと言うなら、その時はお前の方を調理するだけだと、そう脅しているらしい。


 これがはったりであるかどうかは、厨房の外に集まったメンバーやまな板の上の人魚を見ていたら分かる。


「ご自分の立場がお分かりになりましたか?」

「……煮付けでいいのか?」

「活け造りでお願いします」

「グロいのに?」


 ここに呼び出された時点で、板前の運命は決まっていた。そのことを知ってしまい、板前は包丁を握るしかなかった。


 秘書が頭を下げ、お願いしますと言い残し、厨房から出ていく。その姿を見送ってから、板前は力強く包丁を持ち上げながら、まな板の上の人魚を見た。


 怯えた目で見つめてくる人魚。まずは息の根を止めないと調理もできないだろう。

 首か、胸か。どちらに刺しても、刺し方さえ間違えなければ殺せるはずだ。そこまで大きく人間と身体の構造が違っていることはないだろう。


 そう思いながら、包丁を近づける。きめ細やかな白い肌に触れる手前まで持っていき、人魚の震えた視線が板前に突き刺さる。


「……ごめん」


 板前は小さく呟き、ゆっくりと包丁を握る手に力を込めた。



   🐟   🐟   🐟   🐟



 都内某所。静かな厨房に佇む男が一人。手には包丁を握り締め、まな板と向き合っている最中だった。


 老舗の料亭で働き始めてから、五年が経過していた。ようやく板前としての仕事に慣れ始めた矢先の声掛けだった。何を任されるのかは分からないが、自分が選ばれたからには、最高の仕事を見せようと意気込み、訪れた場所がここだった。


 そこで仕事の内容を聞かされ、調理を任された食材が目の前のまな板の上に乗っているものだ。


 白を基調としながら、赤い斑点の散らばったズボン――から繋がる対照的に赤く染まり、白が部分的に残った服。


 まな板の上で拘束され、跳ねる姿はどこからどう見ても、人間のそれであり――


 それはどこからどう見ても、血塗れの板前だった。

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