第5話『じゃあね』
夜の波が、規則正しく浜辺を撫でていた。
昼間の熱を失った砂は、しっとりとした冷たさを帯び、裸足で踏むとゆっくりと沈み込んでいく。
月の光が波間に揺れ、銀色のさざ波を無数に生み出している。
耳を澄ますと、波の合間に、どこか遠くで犬が鳴く声が聞こえた。
振り返ると、町の灯りはまばらになり、家々の窓にもいくつかの影が映るだけだった。
港の方から、低く船の汽笛が鳴り、それが潮風に乗って届く。
人の気配はほとんどなくなり、砂浜に残るのは、僕たちの足跡だけだった。
空を見上げると、雲はすっかり消え去り、星が驚くほどはっきりと瞬いていた。
空気は澄み渡り、夏の終わりの静けさが、辺り一面を包んでいる。
ふいに、彼女が立ち止まった。
「そろそろ時間みたい」
僕は歩みを止め、彼女の顔を見た。
「時間?」
「うん」
彼女は微笑む。
「今日が終わる時間」
僕は足元に視線を落とす。
波が寄せて、また引いていく。
「今日が終わるって、何を言ってるんだよ。明日になればまた――」
「――明日は、もう来るんだよ」
彼女はそう言って、夜の海を見つめた。
「君も、もう気づいてるでしょ?」
僕は息を呑む。
夜風が吹き、彼女の髪をふわりと揺らした。
白いワンピースの裾が、まるで潮騒に誘われるように波の方へと流れている。
「……君は、いなくなるのか?」
彼女は少しだけ首を傾げた。
「ううん。ただ、もうここにはいられないだけ」
「どうして?」
「君が前に進もうとしてるから」
彼女は、くすっと笑い、裸足のつま先を砂の中に埋めた。
「今までずっと同じ時間を繰り返してきたでしょ? でも、今日は違う。明日がちゃんと来るんだよ」
潮風が吹き抜ける。
波の音が、わずかに遠ざかる。
「……君は、僕のせいでいたの?」
「んー……そんなふうに思わなくてもいいよ。ただ、君が望んだから、私はここにいた。でも、もうその必要はなくなったんだと思う」
僕は言葉を失った。
彼女は、ずっとこの『終わらない夏』と共にいた。
そして、それが終わるなら――彼女もまた、いなくなる。
「……それでいいの?」
彼女は目を伏せ、ほんの少しの間だけ黙った。
「寂しくないって言ったら嘘になるけど、仕方ないよね」
「そんな簡単に……」
「簡単じゃないよ」
彼女はそう言って、小さく肩をすくめた。
「でも、君が言ってたことだよ」
僕は、夜の海を見た。
月明かりが波間にゆらめき、白い光の筋を描いている。
「夏ってさ、終わるから綺麗なんだよ」
彼女の声は、どこか遠くに響いた。
波が静かに打ち寄せる。
「君は、ちゃんと明日に進める?」
「……進めるのかな」
「進めるよ」
彼女は、ゆっくりと微笑む。
「だって、もう明日を迎える準備はできてるでしょ?」
気づけば、彼女の足跡は、もうほとんど消えていた。
夜の風が吹く。
彼女は、何か言いかけて、それをやめた。
かわりに、少しだけ口の端を上げて、笑う。
「じゃあね」
彼女の声が、波音にかき消された。
次の瞬間、そこにはもう、誰もいなかった。
波音だけが、暗闇の中で続いていた。
*
目を覚ますと、窓の外は薄明るかった。
朝の光がカーテンの隙間から差し込み、室内の空気をゆっくりと暖めている。
時計を見ると、針は7時を指していた。
――今日は、9月1日だ。
何かを思い出そうとする。
けれど、思い出せない。
昨日、何をしていたのか。
何を見て、何を話したのか。
ただ、胸の奥に、何かが残っている気がした。
僕はゆっくりと起き上がる。
制服に着替え、鞄を持ち、玄関のドアを開ける。
空は、どこまでも澄んでいた。
秋の風が吹いていた。
ポケットに手を入れると、指先が何か硬いものに触れた。
取り出してみると、それは小さな貝殻だった。
僕は、それをそっと握りしめる。
――確かに、そこに誰かがいた。
そんな気がした。
終わらない夏の終わりに ●なべちん● @tasi507
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