暗澹たる泥中から 〜短編集〜

金萌 朔也

もしもエルが自殺する前に海老原が駆けつけられていたら


 鱓野うつぼの先輩と紗蘭さらが、死んだ。

 それは、僕が20歳になった翌年、世間が他人事よろしく年明けムードで浮ついていた日のことだった。

 年末、都内にある埠頭倉庫で発生した火災。その焼け跡から見つかった鱓野先輩の遺体は、半分くらい消し炭状態になるまで焼けていたものの、明らかな他殺の痕跡が残っていた。

 同時に発見された、鱓野先輩のものと同じくらい酷く焼けていた遺体は、紗蘭のものだと断定された。

 死因は焼死とされた紗蘭は火災で亡くなったのか、それとも紗蘭も殺されたのか。倉庫で起こった火災の原因は何だったのか。そもそも何で2人が死ななきゃならなかったのか……。

 当時の警察は「手を尽くして捜査している」なんて言っていたものだが、そのくせ進展らしい進展もないまま、呆れに苛まれるほどあっさりと未解決扱いされて、そのまま世間の誰もが2人の存在すら忘れ去って。


 ──それからもう、数年が経過しようとしていた。



「ただいま、エル」

海老原えびはらさん、おかえりなさいっ」


 外観も内装も真新しさを感じる、綺麗な3LDKのマンション。自宅であるその一室に続くドアを解錠して、開けきらない内に呼んだのは、ここで僕の帰りを待っている同居人の名前。

 数秒もかからずに部屋の奥から顔を出した同居人……エルは、僕の存在を認めた途端に青紫の目を軽く瞠って、小走りで駆け寄ってきた。

 ペタペタと裸足特有の足音を響かせながら、僕の胸をめがけて飛びついてきた、成人済みとは思えないほど小柄なその身体を受け止める。


(それを本人に言ったら拗ねてしまうから、言えないけれど……。でも、拗ねた顔もまた可愛らしいのだよね、エルは)

 

 エルのことは出会った頃からまるで妹のようだと感じるほどに愛らしく思っていたが、一緒に暮らすようになってからは一層それが増した。今では本当に妹同然の、大切な存在だ。

 僕にしがみつきながら頬をすり寄せてくるエルを抱きしめ返して、今朝僕がポニーテールにゆわいてあげた濡羽色ぬればいろの絹髪を、サラサラとくように撫で回す。

 この一連の流れは、いつからか帰宅直後のルーティーンと化していた。


「今日もいい子にしてたかい?」

「うん、したよ、いい子。あのね、今日の晩ご飯ね、いつもより頑張ったんだ。オムライスだよ。海老原さんが好きな、卵がふわふわの」

「本当? それは楽しみだなぁ」

「作って待ってたの、海老原さんが帰ってきてくれるの。食べる?」

「ああ、冷めてしまう前にいただくよ。さ、ダイニングに行こう」


 そう言いながら、抱きしめていたエルの肩をゆっくり押して離れようとした。あくまでやんわりと、エルを驚かせてしまわないように。

 せっかく作ってくれたオムライスだ、ケチャップで何か描いてみようかな。いつも失敗してしまうから、今回は簡単なやつにしよう。

 ……そんな楽しみを考えながら離そうとしたエルは、僕にしがみついたままびくともしない。離れさせようとすればするほど、僕の胸元に顔を埋めて僕を拘束する。


「……エル? ほら、一緒に行こう? せっかく君が作ってくれたご飯が冷めてしまうから、ね?」

「……いい子にしてたよ、あたし」

「? うん、分かってるよ?」

「いい子だったんだよ、今日も。海老原さんの言うこと、ちゃんと守ったよ。おうちから一歩も出なかったよ。誰か来てもお返事しなかったよ、ドアも開けなかったよ」

「……エル」

「海老原さん、お兄ちゃんみたいで、大好きだから。海老原さんがいい子にしてって言うなら、これからもいい子でいるよ、あたし。だから、だから、お願い」


 胸元から顔を上げたエルと、視線がかち合う。

 血縁も書類上も他人である僕を兄代わりと慕う、愛おしい友人いもうと。そんな彼女が持つ、宝石すら足元に及ばないほど綺麗な、深い青紫の左目。最後にそこが光を宿したのは、いつのことだっただろう。


「海老原さんは、あたしのこと捨てないでね。置いて行ったりしないでね。あたしのお兄ちゃんでいて、ずっと」


 いつからか、くすんだビー玉みたいに昏くなってしまったエルの瞳。

 そこに僅かに映り込む、ミルクティー色の短髪と、緋色の双眸。最早見飽きたとすら感じる、そんな僕の顔は……。

 救いようのないほどに、恍惚こうこつとしている。


「……ああ、エル、もちろんだよ。いい子のエルを、僕が捨てるはずがないだろう? 君がここでいい子にしている限り、僕は君を置いて行ったりしないさ」

「ほんと? あたしとずっと一緒にいてくれる? お兄ちゃんでいてくれる?」

「ああ、本当だ。ずっと一緒にいるし、君のお兄ちゃんでいようとも。だから、明日からもいい子でいてくれるね?」

「うん、する。するよ、いい子。おうちから出ないのも、ドア開けないのも、海老原さんじゃない人とお話しないのも、あたしできるよ。全部、できるもん」

「ふふ……本当にエルはいい子だね。嬉しいなぁ……」

「ねぇ、ぎゅってして。あたしが大丈夫になるまで、あたしのこと、ぎゅーって」

「ああ、お安い御用さ」


 ──倉庫から見つかった焼死体が2人のものだと判明したあの日、僕の手は自然とエルに通話をかけていた。

 何度目かの呼び出しでようやく出てくれたエルの声は明らかに弱々しかったが、それに気づけなかった僕は、気が動転したまま伝えてしまった。

 鱓野先輩と紗蘭が、帰らぬ人となってしまったことを。

 嘘だ、信じられないと、エルはそう叫んで現実を拒んでいた。そんなエルにニュースを確認するよう促してすぐ、僕は後悔した。うわ言みたいな、絶え間ない拒絶の言葉が悲鳴に変わって、電話口から何かの破砕音が鼓膜に刺さって……。その後すぐ、電話は切れてしまった。

 猛烈な嫌な予感に突き動かされて、僕はエルの家へ走った。鍵がかかってない彼女の家に、無礼は承知で土足のまま上がった僕の目に飛び込んできたのは……。

 バスルームの中、お湯が溜まった浴槽の傍らで、へたり込むエル。その手に持っていたのは、カッターナイフ。しかも、それは抜き身で。

 気づいたらそのカッターを取り上げ、バスルームの外へ投げ捨て、そのままエルを抱きしめていた。異様に痩せこけ、お風呂もロクに入ってないんじゃないかと思うほど臭う彼女を、そんなことはお構いなしに。

 お願いだから君まで死なないでくれ。君にまで置いて逝かれたら、僕はこの先どうやって生きていけばいいんだ。もう君しかいないのに。君まで僕を見捨てないでくれ。僕を見捨てて逝くくらいなら、先に僕を殺してくれ。

 茫然として返事すらしないエルに、泣きながらそんなことを叫び散らしていた気がする。


 その後、せめて少しでも冷静になろうと離席しようとした僕のコートの袖を、普段じゃ考えられないくらいの強さで掴んだエル。

 戸惑っていた僕を、光のない目の中に捕らえながら、エルは抑揚も生気もない声で言った。


「どこいくの? あたし、いるよ、ここ。あたしのこと置いてどこ行くの? もうあたししかいないって言ったよね。あたしだって海老原さんしかいないんだよ。やだ、だめ、どこも行かないで? どっか行っちゃやだ。ここにいて。あたしから離れないで。あたしとずっと一緒にいてくれるって言うまで、離さない。ぜったい。いやなら、おねがい、死なせて。殺して、あなたが、えびはらさんが、あたしを。ね?」


 愚かな僕は、その時になってようやく理解した。

 エルの心は壊れてしまっていたこと。そのせいで精神が少しだけ幼くなってしまったこと。

 そして、その引き金を引いたのは恐らく……先輩と紗蘭の死をありのまま伝えてしまった、僕であることを。

 ……僕は二つ返事で約束した。君とずっと一緒にいる、と。それほどエルの目が本気だったから。自分から離れるくらいなら殺してと、そう言ったエルの泥の中みたいに濁りきった、なのに鬼気迫るほどギラリと光っていた目が。


 それから少しして、僕とエルは大学を辞めて、僕は遠く離れた土地へと移り住んだ。もちろん、エルを連れてだ。僕のせいで幼児退行しかけたエルを1人で放り出すなんてこと、僕にはとてもできなかった。

 エルの実家の許可を得ずに連れて行ったから、やってることは誘拐みたいなものだけど、それでも実家に連絡を試みようとすら思わなかった。

 知り合ったばかりの頃、エルが僕のことを「実の兄より優しくて温かい、本物のお兄ちゃんみたい」と言っていたことを思い出したから。エルの実家にエルを任せてはならないと、何となくそんな予感がした。

 そんな状況だったこともあって、僕たちはロクな財産も持たずに暮らすことになったけど、幸いなことに法に触れずに結構な金額を稼ぐ手段を僕は持っていた。おかげでエルを養っていても十分に暮らしていける。

 最初はエルの精神を少しでも元に戻せるよう尽力した。適度に外に連れ出したり、精神科や心理カウンセラーに頼ってみたり……。エルの心を治すことで、少しでもエルの心を壊してしまった償いをしようとした。

 それが徒労だったと気づいたのは、エルが僕を『兄のような友達』ではなく『兄代わり』と呼ぶようになった頃のことだった。

 元に戻るどころか、明らかに僕に依存していくエルの様子に、あの頃は頭を抱えていた。これ以上悪化させまいと躍起になって、手当たり次第に外に連れ回して……。

 でもその内、ふとあることに気づいてしまった。

 このままエルを外に出していたら、エルもいつかはいなくなってしまうんじゃないだろうか?

 鱓野先輩も、紗蘭も、僕の前から消えてしまったように。2人を攫った理不尽はエルにまで牙を剥いて、そうしてまた僕は大切な人を失うのではないか?

 いや、そうでなくとも、心が治ったエルは僕を必要としてくれるだろうか? 元々のエルは実家から逃げるためとはいえ、自分で一人暮らしを選ぶ程度には自立心のある子なんだぞ?

 僕がエルの兄代わりじゃなくなったら、僕に依存しなくなったら、僕を捨ててしまうんじゃないだろうか?

 そんなの嫌だ。大切な人ばっかり散々奪われてきたんだ、僕は。まだ奪われるなんて、僕に依存しておいて僕から離れるなんて、いくらエルでも許せるわけがない。僕にはもう、エルしかいないのに。

 ならばもう、いっそのこと。


 エルの心は、壊れたままの方が好都合なんじゃないか?


 それに気づいた日から、僕はエルを家に軟禁するようになった。僕自身も、僕はエルの兄代わりだと、エルと自分に言い聞かせるようになった。それで安堵できていた時間さえ一瞬にも満たなくて、すぐさま不安が勝ってしまう。

 エルを失う焦燥に駆られる度、僕は彼女への制約を増やした。来客が来てもドアを開けないこと、僕以外の人間の言葉に耳を傾けないこと、僕以外の人間とは何があっても言葉を交わさないこと……。

 それを「君はいい子だからできるよね」と約束させて、できたらいい子だと褒めて可愛がって、より深くエルが僕に依存するよう仕向けた。

 そして単にずっと一緒にいるという約束を、次第に「いい子でいる限りは離れない」という形に変えていった。

 まるで、僕の望む通りのいい子でいられなくなったら君を捨ててしまうよ、と脅すように。


「……そんなこと、できるはずないのにね」

「? 何か言った?」

「ううん、何でもないよ」


 ポロリと溢れた言葉を誤魔化すように、エルの細く頼りない身体をいっそう抱きしめる。

 我ながら卑劣極まりないと思う。例えばエルが明日から言いつけを守らなくなって悪い子になったとしても、僕がエルを捨てることなんてない。また別の方法でエルを繋ぎ止めるだけだ。なのに、自分はエルに「いい子でいないと捨ててやる」と脅してる。

 それだけじゃない。エルの心を壊した挙句、そこにつけ込んでコントロールまでして、癒そうともしなくなって。毎日のようにこんなゼロ距離で触れ合うくせに、エルの心には向き合おうとすらしてない。

 こんなの、どう考えたってエルのためにならない。エルに対する愛すら歪んで、原型を留めていない。


(……でも、それでいいさ。僕らはこれで幸せなんだから。エルのことだって、守っていられるんだから)

 

 かつて実の妹を喪ったように、先輩も友人も喪ったんだ。大切な人は、もうエルしか残っていないんだ、本当に。だから、こんな形でも幸せに縋ることくらい、許されたっていいだろう。

 本当の幸せは、すでに跡形もなく崩れている。半ば誰かに壊され、半ば自分の手で壊してしまった。そんなの自分が誰よりも分かってる。

 けれど、幸せの残骸をぎしただけの、泥に沈みゆく箱舟でも、エルは僕の隣にいてくれる。

 だからもう、エルさえ喪わなければそれでいい。

 エルは、これから先ずっと、僕のものだ。


「……エル、もう大丈夫かい?」

「うん。海老原さんが、いっぱいぎゅーしてくれたから」

「よかった。それじゃあ、一緒にご飯を食べようか」

「うん、食べる。……あ、そうだ海老原さん、聞いて聞いて」

「何だい?」

「あたしね、オムライスにお絵描きしたいな。お星さまとか、ちょうちょとか、いっぱい描けるようになったの」

「へぇ、それはすごいね! 僕にも見せてほしいなぁ」

「任せて。海老原さんのオムライスにも、いーっぱい描いてあげる」

「ふふ、楽しみだ」


 2人並んで、食事が待つリビングへ。この箱庭に入ってしまえば、もう誰も僕らの邪魔はできない。

 これで幸せ。これが、僕らの幸せ。これさえ失わなければ、あとはもう何もいらない。


「……ねぇ、エル」

「なあに?」

「僕らだけは、ずっと一緒だよ」

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