線路迷宮

七草葵

線路迷宮

 時間を無為に消費することほど辛いものはない。僕は足を引きずるようにして歩き、たった今出てきた建物を振り返った。この長方形の箱の中で、僕は二時間も無駄にしてしまった。営業の仕事というものは、こんなことの繰り返しだ。営業職を始めてから、自分がシーシュポスになったような気分がなかなか抜けない。営業先から営業先へと向かう電車の中で、僕はいつもシーシュポスがせっかく山頂へ押し上げた岩が転がり落ちていく様を見送る時の瞳を想像する。その瞳は、一体どんな感情を湛えているのだろう。悲しみ? 怒り? それとも……。

 会社に戻って仕事をしなければならない。新規開拓に失敗したからといって、落ち込んでもいられないのだ。納期の迫っている案件がいくつもある。

 駅に着いた。思えば、初めて降りた駅だった。オフィス街の中にぽつんとある、さほど大きくはない地下鉄駅だ。しかし平日夜ともなると、利用者はそれなりに多いらしい。人々が次々に白々と照らし出された地下へと吸い込まれていく。壁は経年劣化で黒ずみ、階段も汚れている。いつの間に雨が降っていたのか、人々の足音は少し濡れていた。

 駅内にある自動販売機で水を買う。お茶もコーヒーもトイレが近くなるからだめだ。水が一番いい。水で喉を潤しつつ、スマホで会社までの道程を調べる。どうやらここから会社の最寄り駅までは、二回ほど乗り換える必要があるらしい。四十分かかる。取引先から取引先へと移動しながら来たものだから、こんなに遠くまで移動していた実感がなかった。電車網が発達しすぎているというのも、困ったものだ。

 四番ホームで電車を待っていると、間もなく滑るようにして電車が入ってきた。車体がかすかに濡れている。どうやら、地上も地下も走る路線のようだ。

 帰宅ラッシュの時間だというのに、電車内は意外にも空いていた。座ると同時に、電車は低く呻りながら走り出した。次に降りる駅を確認する。

(おや、おかしいな)

 自分の乗っている電車が、乗り換え案内で調べた電車ではないらしいことに気付いた。乗るべき電車は「18:40発」だが、俺が今乗っているのは「18:35発」のようだ。電車がホームに来たから、つい反射的に乗ってしまったのだ。失敗した。扉の上に付いている案内表示へ目をやると、「各駅停車」と表示がある。俺が乗る予定だったのは「急行」らしい。おそらく急行の方が目的地に早く着くために、検索結果では発車が遅い急行の方を優先表示したのだろう。余分に時間がかかるのは不愉快だが、結果的に目的地へ着けば問題ない。乗り換えの駅さえ間違えなければいいのだ。

 ふっと息をついたとたん、異様な臭気に気付いた。スマホから顔を上げれば、原因はすぐに分かった。目の前の座席に、浮浪者が座っているのだ。汚らしいひげは長く伸び、膝の上にとぐろを巻いている。服は元々の色も分からないほど退色し、茶色や赤黒い染みが点々と散っている。ちぢれ、絡まり合った脂っぽい髪の毛が顔全体を覆っている。汚らしい帳の間から、暗い瞳がこちらを見ていた。動物や昆虫の死体を懐深くに沈めた沼のような底知れぬ淀み。そこに目玉があるはずなのに、眼窩が空洞であるかのように不気味だ。

 おぞましい。

 思考よりも先に身体が動いていた。車両を移動する。隣の車両はそれなりに混んでいた。今までいた車両が空いていたのは、あの浮浪者のためだったのだ。鼻の奥に、まだかび臭い匂いがこびりついている気がする。気味が悪い。

 幸いにも空いていた席を見つけ、腰を落ち着けた。

 頭がガクンと落ちて目が覚めた。どうやら眠っていたようだ。気付かなかった。

(俺は今、どこにいる?)

 いつの間にか車内はひどく混んでいた。人いきれに息が詰まる。疲労した会社員ばかりが乗っているのだろう、車内の空気は暗く淀んでいる。

 窓の外を見ても何も分からない。コンクリートの壁がぼんやりと照らし出されているだけだ。扉上のモニターを見るが、いくら待っても天気予報やニュースが表示されるばかりだった。焦れているうちに駅へ着く。人の頭ごし、必死に駅名を確認する。一度も聞いたことがない駅だった。乗り換え駅の手前なのか、通り過ぎてしまったのか判断ができない。迷っているうちに電車が走り出してしまった。

 仕方がないので、先ほど見た駅名で経路検索をし直す。すると、会社最寄り駅までの所要時間は一時間を超えていた。乗換駅はとうに過ぎていたのだ。残っている仕事のことを考えると、今日は会社に泊まりになるだろう。憂鬱になる。

(次の駅で、一度電車を降りなくては……)

 逆方向へ向かう電車に乗り換え、乗換駅を目指さなくてはならない。また無為に時間を使ってしまった。脳裡にシーシュポスの姿が浮かぶ。重たい岩を押し上げ、押し上げ、押し上げて――ああ、山頂まであと少し――苦役が終わる――苦痛と喜びの狭間で頂に至り――しかし岩は手から離れ、山肌を転がり落ちていく――その絶望――。

 ゾンビのような人々を掻き分け、電車を降りる。逆方向へ向かう電車に乗るためには、ホームを移動しなければならないようだ。小さい駅で、エスカレーターはない。長い階段を降り、移動して、また登る。その途中で、息を切らしている老婆を見かけた。歪に膨らんだ革のカバンを引きずっている。

「お持ちしましょうか?」

 僕が声をかけると、老婆はゆっくりと顔をあげた。ぱくぱくと口を開閉する。瞳はこちらを見ているようだが、黒く濁っている。顔の造形も相まって、まるで深海魚のように見えた。

 僕が荷物へ手を伸ばすと、老婆は素直にそれを渡してきた。ずしりと重い。まるでボウリング玉か何かが入っているかのような重みだ。革鞄の中で、質量のある何かがゴトゴトとぶつかり合い、揺れているのが伝わってくる。

「こんなに重くては大変だったでしょう」

 老婆はため息のような息遣いとともに、こっくりと頷いた。どうやら一応、意思の疎通はできているようだ。

 片手で鞄を持ち、片手で老婆を支えながら階段をのぼる。老婆の腰はひどく曲がっていて、俺の身長の半分もないように見えた。真冬でもしないくらい着ぶくれしていて、長袖に手袋スカートは地面を引きずるほどに長い。唯一露出しているのは顔くらいのものだった。全体が紙のようにカサカサとした質感で、深くしわが刻まれている。俺の祖母よりも、ずっと年老いているように見えた。そんな老婆が、年若い俺でも苦労するような重たい荷物を持って歩いていたのはちょっと信じがたいことだった。

「そこのベンチまで運びましょう」

 階段をのぼりきり、ホームに設置されたベンチに老婆の革鞄を置いた。瞬間、ぐちゃりと粘質な水音がしたような気がした。……気のせいだろうか?

「それでは、お気をつけて」

 立ち去ろうとした時だった。歯の隙間から激しく呼吸する耳障りな音と共に、老婆が俺の腕に抱きついたのは。

「ひっ……」

 思わず身を引く俺になおしがみつき、老婆は口を開いた。黄ばんだ乱杭歯が、蛍光灯に照らされてぬらぬらと光る。

「可哀想に……可哀想に……可哀想になあ……ここが三途であったならなあ……」

 しゃがれた声がしきりに言う。老婆の顔にはなんの表情も無い。ただ壊れた機械のように、醜い声を垂れ流しているのだった。

「すみません、おばあさん。俺はそろそろ行かないと」

 ホームがにわかに明るくなる。電車がホームへと入ってきたのだ。

「ああ……ああ……可哀想になあ…………可哀想に…………可哀想に…………」

 掠れた声から逃げるように、近くの扉に転がり込んだ。老婆はまだ俺を見ていた。あの深海魚のような暗い眼で……。

 僕は扉に背を向け、スマホを確認した。六駅先で降りて、電車を乗り換える。いくつか空席はあったが、今度は眠ってしまわないように立っていることにした。

 次の駅で人が乗り込んできた。やけに多い。人波に呑まれ、車両の奥へと押し込まれてしまう。

 次の駅でも、人が大勢乗り込んできた。車内は人いきれでじっとりと暑くなる。不快な感覚だ。首筋にいやな汗が浮かぶ。

 次の駅でも、次の駅でも、その次の駅でも人がどんどん乗り込んでくる。どこにも隙間がないはずなのに、ホームに立つ人々はおかまいなしに車内へと身体を押し込んでくる。前後左右から圧迫され、喉から絞り出すようなうめき声が漏れる。

 そして六駅目。俺が降りるべき駅に着く。

「降ります……降ります……降ります!」

 叫んでも無駄だった。ホームから人が雪崩れてきて、車内はさらにぎゅうぎゅうになる。扉まで移動するどころか、身じろぎすら不可能な状態だった。

「降ります、降ります!」

 諦めきれずに声をあげる俺の視界の端で、無情にも扉が閉まる。電車は何も問題は起きていないとでも言いたげに、ゆっくりと前進を始める。

 視界はいつの間にか、人の頭で埋まっていた。茶髪の頭、黒髪の頭、白髪の頭、禿頭、帽子、ヘッドホン……様々な頭が、電車に合わせて揺れている。窓は締め切られていて、極端に酸素が薄い。意識がもうろうとしてきた。

 次に降りるべき駅を調べようにも、スマホをポケットから出すこともできない。乗客の話し声のせいで、車内アナウンスも聞こえない。

(ああ……)

 電車は何度か駅に停車した。しかし降りることは許されない。終点まで連れて行かれる。ぞろぞろ乗客が降りていく。やっと動ける余裕ができたところで、はまっさきに自分の身体の骨が折れていないことを確認する。……どうやら無事なようだ。

 俺が降りるのを待っていたかのように、電車が走り出す。行き先表示は「回送」となっていた。

 冷たい風が吹いている。頭上には曇った夜空が広がっている。どうやら地上ホームに着いたようだ。

 ベンチに腰を下ろす。全身が痛かった。もう会社に戻る気力は無い。スマホで家までの電車を調べる。現在時刻で検索しているはずなのに、朝五時以降の電車しか表示されない。何度か検索しなおして、やっと気付く。さきほど乗った電車が終電だったのだ。今夜はもう、電車がこない。

 俺はベンチに横たわった。つんとするような錆の匂いがした。疲れ果て、もう駅を出る気も起きなかった。僕はそのまま気を失うようにして、意識を手放した。


 電車がホームに停車する音で目が覚めた。朝の挨拶をするかのように、電車の扉がプシューッと息を吐きながら開く。

 降車した人々は、汚いものを見るように俺を一瞥して足早に去っていく。スーツ姿の男、制服姿の学生、会社員風の女、老人、ベビーカーを押す母親、車掌……。俺だって働いているのだ。行くべき会社も、やるべき仕事もある。それなのに、なぜか、今はひどく心細かった。着ているスーツはしわくちゃで、風呂に入っていない髪は脂っぽく、耳の後ろから汗の匂いが漂っている。

 俺は気力を奮い立たせ、電車に乗り込んだ。手すりに寄りかかり、スマホで会社までの乗り換えを検索する。会社まではどうやら四時間ほどかかるらしい。まったく、今までの人生の中でも一番最悪な、一日の始まり方だ。

 大きく吐き出したため息をかき消すように、電車が鋭い悲鳴を上げた。大きな揺れと共に停車する。足の踏ん張りが効かず、俺は床に転がった。頭をしたたかに打った。思わず舌打ちが出る。

 車内がざわつきだす。床に転がった俺を気にする者は誰もいなかった。みんな扉上にあるモニターか、窓の外を見ている。

「えー……お客様にお知らせいたします……」

 雑音交じりに、車掌のアナウンスが聞こえてくる。かすかに声が震えていた。嫌な予感がする。

 俺はよろよろと身体を起こしながら、緊急停止の理由を聞く。人身事故だ。復旧は未定。車内のざわめきはさらに大きくなる。誰からともなくスマホで通話を始める、俺もそれに倣って会社に電話をかける。事情を説明し、午前休を取ることにした。

 一時間ほどして電車が動き出す。乗り換えのための駅で降りる。しかし人身事故のためにダイヤが狂い、次に乗るべき電車が分からなくなってしまった。仕方がないので、元々乗り換え予定の電車が来るホームへと移動する。ホームが同じなら、行き先が同じ電車が来るはずだ。滑り込んできた電車に乗り込む。いくつかの駅を飛ばして走る急行列車は、俺の目的地をも飛ばして走る。逆方向へ走る電車に乗り換えて、元来た道を戻らなくてはならない。今度は各駅停車に乗ろう。目を皿のようにして駅名表示を見るのだ。間違った駅で降りないように。降りるべきを見逃さないように。ああ、その前に会社に電話しなくては……。

 そんなことを繰り返しているうちに、一週間が経っていた。

 モバイルバッテリーを使ってスマホを永らえながら乗り換えを検索し続け、電車に乗り続ける。それなのに、俺は未だ会社にも家にもたどり着いていない。

 今や自分のいる駅が日本のどこにあるのかかさえ分からない。会社までの距離は五回の乗り換えで十時間、家までは九回の乗り換えで十五時間かかる。家と会社は電車でたったの二十分の距離であるにも関わらず。

 線路が歪んでいるのだ。ただしく繋がるべき場所に繋がっていないのだ。電車は歪んだ線路の上を走り続けている。進めば進むほど歪みは大きくなり、時間も距離も取り返しがつかないほど狂っていく。

 電車が走る道を示す道しるべのはずだった線路は迷宮と化している。もはや俺は得体の知れない化物の腹の中にいるのと同じだった。

 泣き言ばかり言ってもいられない。家に帰るためには、会社へ行くためには、電車に乗らなけれあならないのだ。それによって例え迷宮奥深くに絡めとられていくにしても、他に方法はない。

 乗り換えのためにホームからホームへと移動する。階段を降り、長い通路を進む。一番線から八番線への移動は、一週間まともな場所で寝ていない身体に響く。想定よりも歩みが遅い。このままでは予定している列車に乗り遅れてしまう。無理に足を速めようとして、何かにつまづいた。カラカラと乾いた音を立てて、蹴飛ばした何かが転がっていく。近づいて見てみると、それはところどころ茶色く変色した人骨だった。

「ひっ……」

 喉から悲鳴のような何かが漏れる。しばらく声を出していないから、うまく声帯が機能しないのだ。そのまま悲鳴は引っ込み、俺の内側で悪夢のようにこだました。

 吐き気を堪えながら通路を進む。悪臭がする。よく見れば、通路のあちこちに何かが盛り上がっている。ただのゴミかと思っていたが、そうではなかった。うずくまっている人間だ。かすかに動いている。眠っているだけなのかと近づいて、ぎょっとする。頬の半分がえぐれ、赤黒い肉が露出している。動いて見えたのは、ネズミのせいだ。ネズミが彼らの身体を這いまわり、食べ散らかしているためだ。

 俺は逃げるようにその場を後にする。足をもつれさせながら走って八番線を目指す。早くこの歪んだ線路から逃れなくてはならない。正しい電車乗って、正しい駅へと帰らなくてはならない。そうしなければ――俺もきっと、あんな風に――。


 五十九日目。線路に囚われてから、おそらくそれくらいの日数が経っている。俺は駅構内にあるコンセントを拝借してスマホを充電しながら、どうしてこんなことになってしまったのか考える。何が悪かったのか分からない。どうするべきだったのかも分からない。ただ電車に乗っていただけだ。

「おおい、そろそろ駅員の巡回時間だぞ」

 裸足の男が近づいてくる。ボロボロのビニール袋を大切そうに抱えている。

「教えてくれてありがとうございます」

「何、ここでの生活は持ちつ持たれつだ」

 俺はコンセントから充電ケーブルを引き抜き、ポケットに押し込んだ。スマホの充電は七〇%。まあまあ充電できた方だ。

「ほらよ。今日はなかなか大漁だったぞ」

「さすがですね」

 彼はボロボロのビニール袋から、菓子パンやおにぎりを出して俺に分けてくれる。

「まあな。しかし、近ごろは十六番線の奴らがこっちにまで手を出そうとしてきてやがる。困ったもんだ」

「ここはターミナル駅だから、線路生活者も多いですもんね」

「数が多い場所ほど、はっきりしたルールが必要なんだ。あいつらはそれが分かっちゃいねえ」

 歩きだした男の後ろをついていく。彼は無造作に菓子パンの封を開けて食べ始めた。

 彼の名は宮田。俺よりずっと前に線路迷宮に囚われた、いわば先輩だ。もともとはシステムエンジニアをしていたらしい。残業後に終電で家に帰ろうとしたある日を境に線路から出られなくなり、以来ここで生活しているという。

 長い間線路生活者として暮らす中で、彼は元来の目的地を忘れてしまったらしい。だから同じ駅に何か月も留まったり、気ままに電車に乗って移動したりする。まだ目的地を覚えている俺に感心し、何かと世話を焼いてくれる。

 俺や彼の他にも、線路迷宮の生活者がいる。電車を乗り継ぐうち顔見知りになった宮田にそう聞かされた時は驚いた。しかしよく観察してみると、いつも同じ電車に乗っている者や、疲れた顔でホームのベンチに座っている者、駅のトイレで茫然と突っ立っている者など、それらしき者たちがたくさんいることに気付いた。

 線路生活者は完全に孤立した存在ではない。意外にも、派閥や縄張りがあるのだ。俺は宮田から、線路生活者としてのルールを教えてもらっていた。

「家と会社を往復する生活だけが長いとな、だんだんこう思えてくるんだ。目的地にたどり着いてしまえば役割が生じる。家なら家の、会社なら会社の、期待された役割をこなす責任が生じるんだ。ならば、家と会社の間に永遠にとどまっていた方が楽なんじゃないかってな」

 口の周りを粉砂糖で汚しながら、宮田は無邪気に笑う。

「実際楽だよ。俺と同じような考えで、自ら線路迷宮の深くに潜っていくやつも大勢いる。どうせ家に居場所がないから、目的地に煩わしいものが待っているから……この世には、永遠に目的地に着かない方が楽な人間だっているってこったな」

「そういうものなんでしょうか」

「ああ。お前だって心の奥底ではそう思っていたんじゃないか? だから線路迷宮に魅入られたんだ」

 宮田は俺の鼻先に指を突きつけた。

 正直なところ、宮田の言っていることは的外れに思えた。俺は無駄な時間というものが嫌いだ。営業で空振りした日は一日を無駄にしたように感じて落ちこむし、移動時間も手持無沙汰になるのが嫌でいつもスマホを見たり書類を読んだりしていた。この線路迷宮での生活も、蓄積した疲労によって時間への節約意識が鈍ってはいるものの、たまに我に返って暗い気持ちになることがある。目的地に着かない限り、ただ移動するだけのここでの生活は全て無駄だ。

「俺はこの生活が気に入ってる。まあ、不便も多いがな」

 宮田は菓子パンの抜け殻をゴミ箱に放った。見事に入る。彼は俺の方を振り向き、ニヤリと笑う。

「今日はいいことがありそうだぞ」

 宮田が正気を保っていたのはこのころまでだったと思う。否、線路生活に慣れていた時点で、すでに狂っていたのかもしれない。今となっては分からない。

 菓子パンの粉砂糖で口の周りを汚していた宮田は今、口の周りを人の血で汚していた。とある駅で激しい縄張り争いが行われ、手に入る廃棄食品が極端に減った。その結果、彼らは敵対者を食べるようになったのだ。

 宮田の背中はネズミのように丸くなり、もう足だけでは歩けなくなった。四つん這いになって移動し、ネズミに混ざって線路生活者の死肉を貪る。

「宮田さん」

 俺の呼びかけに、もう彼は答えない。線路迷宮に戸惑う俺を頼もしく導いてくれた宮田はもういないのだ。

 俺は彼に背を向け、乗るべき電車が来るホームへと向かった。俺はまだ目的地を覚えている。まずは家に帰って身なりを整えて、会社へ行く。今まで散々身を粉にして会社に貢献してきたのだ。この恐ろしい旅路を説明すれば、無断欠勤も許されるだろう。

 電車がホームに入ってくる。電車は単なる鉄の塊だ。電車を操っているのは線路なのだ。線路が鉄の塊を操り、人間に牙を剥くのだ。

 電車内は空いている。スマホの時間表示を見て納得した。平日の昼間だ。毎日当然のように会社に通っていたころは、取引先から取引先へと脚を棒にして飛び回っていた時間帯だ。今はただ電車の座席に身を沈めて、時間を浪費している。

 目的地にさえ着けば。目的地にさえたどり着くことができれば、移動時間は無駄ではなくなる。無駄な時間は昇華し、目的地へ至るために必要なものだったのだと己を納得させることができる。

 俺は祈る。今度こそ目的地に近づけるように。スムーズに乗り継ぎを行い、正しいルートをたどれるように。

 動き出した電車は、しかしすぐに止まった。鈍く重い音と、車内に響く悲鳴。嫌な予感に、心臓が軋む。

 俺は座席から立ち上がり、車両を移動した。先頭車両を目指す。憑かれたように歩く俺を、車内の人間が不審げに見つめる。車内アナウンスが流れる。人身事故を告げる、車掌の怯えた声。

 先頭車両に着いた。窓を開け、身を乗り出して前方を見る。錆のような嫌な匂い。血の匂いだ。車内の人間が、困惑したように俺の周りから離れる。気にしてはいられない。俺は血だまりの中に浮かぶ肉塊をじっと観察する。

 それは宮田の腕だった。宮田が着ていた、もう何年ものか分からないトレンチコート。薄汚れたそれは、俺にとってよく見慣れたものだった。

 線路迷宮に囚われた人間が、正気でいられるはずがない。自ら望んで線路生活を送っているなどというのは幻想だ。人間が、理性を持った人間が、目的地の無い生活に耐えられるはずがないではないか。

 腕だけとなった宮田が動く。いや、動いたように見えたのはネズミのせいだ。どこからともなく現れたネズミが、宮田の死肉を喰らっているのだ。

(ああ…………)

 これこそが線路生活者の行く末だ。線路の魔物は人間から目的地を奪い、迷宮で理性を破壊し、人間の魂を貪り食うのだ。


 電車に乗り続けて何日経ったのか分からない。もはやどこへ向かう電車に乗っているのかも分からない。家に帰りたいと思っているのに、家のある駅名を忘れてしまった。

 スマホを充電しなくなってからしばらく経つ。もう充電する必要を感じないのだ。今までスマホを何に使っていたのかも忘れてしまった。

「あの、落としましたよ」

 背中を叩かれ振り返ると、青年が立っていた。手には見覚えのある冊子を持っている。印刷見本。ああ、そうだ。あれは俺の会社のカタログだ。毎日あれを抱えて歩き回ったものだ。遠い昔々の話だ……。

「大丈夫ですか?」

 青年が怪訝そうに首を傾げる。俺は彼からカタログを受け取った。すっかり汚れてしまっている。湿気を吸い、ふやけ、ところどころ破けて、もう商売道具としては使えない。ページ同士がくっついて、中身も読めなくなっている。

 俺は思わず青年の手を取った。青年の手は少し脂っぽくベタベタしている。まるで数日風呂に入っていないかのように、爪と爪の間が黒く汚れている。彼はまだここに来て数日しか経っていないのだ。まだ線路迷宮の恐ろしさを知らない――目的地を失うその狂気を、知らないでいるのだ。

「ああ……ああ……可哀想になあ…………可哀想に…………可哀想に…………」

 俺の声は老人のように掠れていた。しばらく声を出していなかったからだ。宮田が死んでから、俺は誰とも関わらずに生きてきた。線路の魔物からは逃れられない。親しい人間を狂気で失うのはもうまっぴらだった。

 青年は気味悪そうに俺の手を振り払い、走り去っていく。遠くで電車の発車ベルが鳴っていた。あれが彼の目的地に着く電車なのだろう。

「可哀想になあ…………可哀想になあ……」

 青年の背中を見送った後、再び歩き始めた。俺も早く電車に乗らなくてはならない。俺には行くべき場所があるのだ。

 階段を降り続け、地下鉄のホームにたどり着く。しばらく待っていると、鉄の塊がやってきた。昨日と変わらぬ顔をして、平然と人を吐き出し、そして飲み込む。その鼻っ面で何人もの線路生活者を叩きのめしてきた事実を隠して、平然とホームに鎮座している。

 憎らしいが、乗るしかない。憎らしいが、本当に憎むべきは電車ではなく線路なのだ。この鉄の塊は、線路に操られているだけなのだ。

 今が平日なのか休日なのか昼なのか夜なのかも分からないが、車内に人はまばらだった。空席に腰を下ろす。背もたれに体重を預けると、馴染んだ感覚に眠気が沸いてくる。

 目の前に座った女と目が合う。彼女は不快そうに眉を顰め、サッと立ち上がると車両を移動していった。彼女が去った後、正面の車窓には俺がぽつんと写っている。

 薄汚れた姿。脂ぎって縮れた髪と長い髭。深いしわが刻まれた頬。垢の溜まった皮膚。その姿には見覚えがあった。遠い昔に車内で見た浮浪者だ。今の俺は、あの男と全く同じ姿をしていた。

 真っ暗な地下を、鉄の塊が進む。歪に狂った線路の上を、粛々と走っていく。誰かの目的地を奪いながら、線路迷宮は続いていく……。


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