墓場より、抜け出でる。

八坂卯野 (旧鈴ノ木 鈴ノ子)

はかばより、ぬけいでる。

 藤堂紀子の頭の血管が漫画のようにブチっと切れたのは、3月の初めのことだった。結婚して10年が過ぎ、しばらくは幸せな日々だった、どこの家庭でも囁かれる謳い文句。夫は証券会社の上級職で、真面目な堅物で物腰も柔らかい、絵に描いたように理想的な男だった。

 けれど、それが仇となった。

 証券会社の海外支社に転勤となり、こまめに取っていた連絡は細々と、やがてポツポツとなった。一緒に行かないかという誘い文句に即答できずにいると、夫はそれ以降、その話をすることはなく、旅立っていった。

 海外勤務の友人がこっそりと夫の写真を送ってくれたが、褐色の美女を伴ってオーナーズパーティーに参加していた。最初は疑ったけれどすぐに諦めた。ちょっと調べれば、夫と褐色の美女はどのような場にも揃って参列しており、仲睦まじいと有名で「彼の妻じゃないのかい? 」と真面目に尋ねる人もいるほどらしい。

 終わらせることができれば楽なことはない、けれど、それも難しいのが現状だ。藤堂の家は平安中期より現代に至るまで続く名家、離婚が及ぼす影響は計り知れない。家柄ゆえの悩み、誠に古い話だが今も有効なのだ。

『付き合う相手は選ぶべきだ。君は姫君なんだからね』

 家風が大っ嫌いで跳ねっ返りとなっていた私が、その年の夏に出会った不思議な男、夏の間だけ付き合ったから元カレとでもいうべきなのか、遊び人の男はそう言い残して去って行った。

 隅々まで体を弄り回されて、これからという時に。

 堅苦しい生活の中で唯一の自由な日々だったと思う。自分が自分でいられた時間は、その家から逃げ出した夏休みだけだ。斬新で新鮮な日常であったから、記憶は今でも鮮やかだ。初めて行ったクラブで何も知らないことをいい事に好き勝手され、車に連れ込またところで誰かが手を差し伸べてくれたことまでは記憶している。

 目を覚ますとマンションの一室だった。彼は名乗らなかったし、私も名乗らなかった。ホテルのような清潔な室内とベッドで傷だらけの心身を癒して、そして正しい悦びを教えて、いや、仕込まれた。

 その後は何事もなかったかのように暮らす、唯一、体の疼きだけは難儀したけれど。

 大学を卒業し父親の経営する会社で働き始めると夫に出会った。大手証券会社勤務、高身長の細面、少しミステリアスで柔和な顔つきと真面目な人柄、絵に描いたような理想の男性。父のお気に入りで我が家にも何度か遊びに来たこともある。

 当初は妙な距離感があったのだけれど、すぐに私に馴染んでくれたことは嬉しかった。

 京都へと遊びに出かけた折、偶然に京都駅の構内で夫に出会った。ラフな私服姿もなかなかで、よろしければご一緒に、と誘われたので連れ立って歩けば、文化財への造詣は深く、見慣れた寺社でも真新しい発見の連続、裏通りは玄人向きでありながら庶民的で素敵な店ばかりだった。

「僕は神林家の養子なんですよ」

「あの公家の神林さん?」

「ええ、お互い家柄で苦労しますよね」

「ふふ、本当に」

 それが付き合いの始まりで結婚生活へと続いているけれど、今の私はなんなのだろうかと考えているうちにブチっと頭の中で何かが切れ、愛用のハンドバッグに財布だけを突っ込んで、夜の街へと繰り出していた。

 もちろん、2度と失敗はしないと誓いながら。

「久しぶり、姫様」

 流石にあの頃とは違い、上質なラウンジバーでカクテルを飲みながら、どうしようかと考えている矢先、耳障りのよくあの日に聞いた懐かしい声が……した。

「お久しぶりね、ちょっと時間あるかしら?」

「ああ、いくらでも」

 カクテルを何杯か嗜み、流れるようにホテルへと入ると教え込まれたように貪りあう、ただ、求めるだけの爛れた刻は朝方に途切れて深い眠りへと落ちた。

 やがて目が覚めると人生最大の戸惑いに狼狽する。男は笑いながら力任せに私を抱き寄せて、優しさなどない荒々しさに思わず身を固くした。

「褐色の美女とお楽しみじゃなかったの?」

「やめてくれ、あれは雇った女だよ、外のパーティーじゃ盾も必要だったんだ。ああ、それから来月に東京に戻ることになった」

 カミソリのように鋭い眼差しと厳しかった表情は、見慣れた優しい目と緩んだ口元の夫に戻っていた。

「どう、元カレを味わった気持ちは?」

「素敵だった、夫とは満足できないんだもの」

 ワザとプライドを傷つけるようなことを口にする、けれど、夫は気にせずに私をしっかりと腕の中に抱いている。

「互いに本性を曝け出せませんね」

「覆い隠すのが上手いのよ」

「なら、こういうのはどうです?」

「なに?」

「月の1日だけ、互いにこうして会うのは?」

「ふふ、面白いかも、じゃぁ、楽しみましょう」

 私は腕を解いて夫、いや、元カレを押し倒す、危険なほどに鋭くなった眼差しと厳しい顔つきが激しく唇を奪った。

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墓場より、抜け出でる。 八坂卯野 (旧鈴ノ木 鈴ノ子) @suzunokisuzunoki

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