リップクリームを失くしただけじゃなかった

浅野じゅんぺい

第1話

リップクリームを失くしただけじゃなかった


「あれ、ない……?」


あきらはポケットを探りながら、呆然と立ちすくんだ。冬の夜、冷たい風が街灯を揺らす中で、リップクリームを見つけられない。寒さに敏感な季節、あの小さな相棒が見当たらないことが、何だか不安を引き起こした。


最初は、ただの些細なことだと思っていた。でも、探しても探しても見つからないうちに、あきらの中で何かが違うと感じ始める。ポケット、カバン、デスクの引き出し──どこを探しても、あの筒は見当たらない。


その夜、行きつけの居酒屋「はる」で友達と飲んでいると、思わずリップクリームを失くした話をしてしまった。陽一は「それ、人生みたいだな」と言いながら笑った。


「大切なものを知らないうちに失くして、後から気づく。必死に探しても、すぐには見つからない。だけど、見つかったときには、もう別の意味を持ってる。」


その言葉が、あきらの胸に突き刺さった。リップクリームを探しているうちに、自分の心も迷子になっているような気がした。


翌朝、いつもの駅で降りたあきらは、突然、視線を感じた。振り向くと、そこに立っていたのは菜緒だった。4年ぶりの再会。その瞬間、時間が巻き戻ったように感じた。


菜緒は少し驚いた表情を見せた後、笑顔を浮かべた。「あきら、久しぶり。」


言葉が詰まって、あきらはぎこちなく笑った。「元気だった?」


「ちょっと時間ある?」と菜緒が言うと、二人は近くのカフェへ。初めのうちは気まずかったが、菜緒のやわらかな声と仕草に、次第に心がほぐれていく。話が進むうち、リップクリームを失くした話をしたとき、菜緒は大きく笑った。


「相変わらずだね。小さなことで夢中になって、そんなところ、変わってないな。」


その言葉が、あきらの胸に重く響いた。「変わってない」という言葉に、何かを失ったような気持ちがこみ上げてきた。


別れ際、菜緒は軽く手を振って言った。「また会おうね。」


会社へ向かう途中、あきらは心の中で、再会の喜びと過去の懐かしさが交錯していた。ほんの少しの未練も感じながら、ふと思った。何かを取り戻したような気がする一方で、失ったものもあるのだと。


その夜、カバンの奥を手探りしていたあきらは、指先に固い感触を感じた。リップクリームだ。


「あった……」


その小さな筒を手に取った瞬間、あきらは静かに微笑んだ。失くしたのはリップクリームだけじゃなかった。失われたもの、戻らないものがあったことに気づいた。


窓の外、冬の夜空には静かな星が瞬いていた。あきらはリップクリームをひと塗りしながら、心の中で新たな決意を感じていた。


「過去には戻れない。でも、進むことはできる。」


リップクリームのひんやりとした感触が、これからの自分を象徴しているように感じられた。

 

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