恋に憂う乙姫様は、海溝よりも深い愛を希う
弥生 知枝
愛に生きる乙姫の終わりのない物語
「この度の婚約は、無かったことに」
凛とした女の声が、青畳の真新しい香りに包まれた部屋に響く。
賓客をもてなす贅を凝らした部屋には、一組の男女が向き合って座していた。
寝殿造りの屋敷には、婚約した半年前には無かった、洗練された調度が揃っている。廊下と部屋とを隔てる御簾の外側では、男に遣える侍従らが突然の予期せぬ出来事に息を飲んでいた。
「は? 聞き間違えであろうか。角川国が嫡男である、この私との婚約を破棄すると聞こえたが」
「二度は申しません」
言うや、女は嫋やかな身のこなしで、フワリと立ち上がる。
女の纏う天竺様の薄衣が動きを追って優美に揺れ、両肩から背中に流した細長い
ぼうっと頬を染め見惚れていた男だったが、女が部屋を出ようと背中を向けた途端、ようやく我に返って声を張り上げる。
「者共! 乙姫様を、お引き留めしろ!
命令を聞くや直衣姿の男らが、ばらりと御簾を引き上げて室内に踏み込んでくる。
「力に魅入られた愚か者め。だからこその破棄だと言うのに」
微かに柳眉を曇らせた乙姫は、周囲を取り囲みつつある者たちに視線を走らせて唸る様に呟く。
(どれだけ愛を語っても、我が海の覇権に目の色を変え、更なる欲が頭をもたげるのよ。私に相応しいとはいえ、陸の権力者にはうんざりね……。いっそ、家格を無視すれば真実の愛は見付かるのかしら)
欲を滲ませてじりじりと迫る貴公子に、うんざりと溜息を吐いた乙姫だ。それを観念と捉えた者たちが一息に距離を縮めたところで、突如その場に大波が押し寄せる。
この日、海沿いの小国を治める貴族の家がひとつ、天変地異により消え去った。
◇◇◇
蒼い海に囲まれた、朱の柱も鮮やかな
細やかな螺鈿細工を施した執務机に、乙姫が肘をついて項垂れる。
「おひいさまぁー、また今度も破棄なさったんですかぁ」
「そろそろ妥協してはどうですー? もう海沿いの国主に、年の頃の釣り合うオスはいないんじゃないっすかぁー」
海水を通して柔らかく降り注ぐ陽光の中、鯛やヒラメが好き勝手を言いながら舞い踊る。
「そんなことないわ!」
彼女が声を荒げれば、瞬く間に室内に潮流が巻き起こる。
「あー、おひいさま散らかしたぁ」
「また亀爺に怒られるぅ」
的を射た言葉に乙姫が頬を膨らませれば、噂の亀爺が「やれやれ」と姿を現した。この亀爺、見た目は若々しいが、実は先代より使える老練な執事である。
「きっと見つかるはずなのよ」
「では、このじいやが一肌脱ぎましょう」
彼の宣言から3日後、竜宮城へ粗末な身形の若者がやって来た。
彼は、悪戯に亀を傷付けようとする若衆や、ご禁制の亀の甲羅を高く売り飛ばそうと目論む荒くれ者を諫める人格者だった。
出会ったどの貴公子よりも野暮ったい身形だったが、その瞳だけは彼女の愛する海よりも澄んでいて一目で恋に堕ちた。
次の婚約者は彼が良いと気持ちは急いたが、何度も裏切られた彼女は慎重を期した。彼の本性をさらけ出させるために、豪奢なもてなしを行い、妖艶な人魚たちによる過剰な接待も差し向けた。だが彼は、そのどれもに驚きを見せることはあっても、欲を見せることは無かった。
「合格ね!」
弾む声を抑えきれない乙姫に、だが亀爺は渋い表情で告げた。
「帰りたいと申しております」
足ることを知る彼は、帰郷を望むようになったのだ。故郷の両親や、妹のように面倒を見ている近所の少女、同じ里の許嫁――。
「運命の相手を逃すわけにはいかないわ! 更なるもてなしを! 上気香も、魔術も使って構わないから、彼を引き留めるのよ」
それでも、彼は望郷の念を捨て去ることはなかった。
だから乙姫は、特別な餞別を手渡した。
憂い続きの永い年月のうち数百年を、純粋な笑みを向けてくれる彼のお陰で、充実して過ごすことが出来たのだ。
海を統べる海神として生まれ付いた彼女は、陸を統べる「人」に嫌気がさしていた。欲にまみれた彼らは、海をも食い物にしようとする。海と陸が対立すれば世界は滅びる。それは神である彼女の本望ではない。
そんな葛藤を抱えていた時に出会った彼は救いとなった。
だからこそ、彼の望みを叶えてあげる気になった。
「またね、大好き」
別れ際そう言えば、彼は意味が分からないのか目を丸くした。
◇◇◇
玉手箱は、ほどなく開けられた。
あの中には、開けた者の命と引き換えに、望みを叶える魔法が込められていたのだ。
真実の愛を信じた乙姫の思惑通りなら、浦島太郎は全てを捨てて彼女の元へと還るはずだったのに――。
どこまでも純粋で足ることを知る彼は、慟哭しつつ人らしく陸で終わることを望んだのだ。
「偽物の末路は悲惨なものね」
乙姫の呟きが竜宮城に静かに響く。
次こそは、心を捧げてくれる運命の恋人を如何にして囲い込もうかと策を練る。
恋に憂う乙姫様は、海溝よりも深い愛を希う 弥生 知枝 @YayoiChie
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