魔王と王女と秘密の夜

宮永レン

魔王と王女と秘密の夜

 しんと静まり返った夜の空気を揺らすかのように、窓が細く開き、月明かりが差し込んだ。


今宵こよいも眠れぬのか、王女よ」

 冷えた風が薄絹うすぎぬのカーテンを揺らし、闇をまとった影が音もなく寝室へと忍び込んでくる。


「こんばんは、魔王様」

 王女は読んでいた本を閉じ、枕もとに置いた。


 銀糸のように輝く長い髪が、繊細な肩に流れる。その肌は白磁のように透き通り、青みがかった瞳はどこか夢見がちで、儚げな印象を与えた。しかし、その柔和な微笑みの奥には芯の強さが隠されている。


 一方の魔王は、人ならざる美しさを備えていた。燭台に照らされた漆黒の髪はゆるく波打ち、夜の闇に溶け込むように揺れる。金色こんじきの瞳は、まるで獲物を見定める猛禽のように鋭い。漆黒の衣に包まれた長身はしなやかで、微笑ひとつで人を惑わす魔性を漂わせている。


「眠れるはずがないわ。だって、あなたが来るのを待っていたもの」

 病に伏せがちな王女は、昼よりも夜に生を感じることが多かった。とりわけ、この魔王との逢瀬が始まってからは、日中の憂いも夜の静寂の中で薄れていくように思えた。


 近頃、王国を震撼させている『魔王復活』の噂だが、よもやその張本人が王女の寝室に出入りしているとは誰も思っていないだろう。


「それは俺のことが『好き』だということか?」


「残念。今夜もあなたのお話が聞きたいだけよ。本に書かれた物語よりも詳しくて、わくわくするもの。ねえ、エルフの森の続きを聞かせて」


「まったく……おかしな女だ」

 魔王は微笑を深めながら、椅子に腰を下ろした。


 彼がここへ通い始めたのは、王女の奇妙な申し出がきっかけだ。千年ぶりに地上に甦った彼は、手始めに王女を襲い、この国が恐怖の坩堝るつぼと化すところを愉しみたかった――のだが。


『先に好きだと言った方が負けというのはどう? 私が負けたら、この王国を差し上げるわ。でも、その逆なら——王国を出て行ってちょうだい』

 王女は魔王を恐れるどころか、話し相手ができて嬉しいくらいにしか思っていなかった。


 魔王は戯れにこの挑戦を受け入れたが、王女は本気だった。彼女にとって、この退屈で虚ろな宮廷で生きるよりも、心を満たすものを得ることこそが生の証だった。


 二人は、互いを惹きつけるためにあの手この手を使う。王女は魔王へ秘蔵のうたを贈り、魔王は彼女に赫焔かくえんの宝石を手渡す。無邪気な言葉遊びの中に、次第に熱が宿っていった。


 しかし、ある夜——王女が高熱に倒れる。細い体を蝕む病は、彼女の命を容易く奪おうとしていた。医者たちの手が及ばぬほどに衰弱した王女の頬に、そっと冷たい手が触れた。


「お前には、先に好きだと言ってもらわねば」

 そう呟きながら、魔王は彼女の唇にそっと口づける。淡く、けれど確かに交わされたその魔力の息吹が込められた口づけは、王女の胸に新たな熱を生んだ。


「てっきり……私のことが好きだから助けたのかと……」


「お前こそ、これで俺のことが好きになっただろう?」

 魔王は目を逸らしながら、鼻で笑った。


「あら、残念。それじゃ、また明日ね」

 それからも逢瀬は続き、王女はいつしか魔王の隣にいる時間を誰よりも愛するようになる。


 そして別の夜――。


「私……婚約が決まったの」

 王女は苦しげに微笑みながら言った。


 魔王の金の瞳が細められる。静寂が凍りついたような感覚の中、彼は王女を押し倒し、その唇を塞いだ。


「他の男のものになど、させるものか」

 彼の熱が彼女のすべてを奪い尽くす。王女は悦びを感じながらも好きだとは口にしなかった。


 そして黎明の時に——魔王は彼女の頬を撫で、低く囁く。


「愛している。俺の負けだ」

 その言葉と共に、彼は姿を消した。


「……大好き」

 王女はぽろりと涙を零す。けれど、もう二度と愛すべき夜は訪れない、たった一夜限りの恋。そう決めたのは自分だ。


 それなのに翌日――。


 城はてんやわんやの大騒ぎに見舞われた。礼装の魔王が現れたからである。彼の堂々たる姿に、廷臣たちは息を呑み、国王は顔面蒼白になっていた。


「王女の婚約を解消しろ」


 魔王の意外な言葉に、国王はきょとんとして眼を瞬く。


「……む、娘に婚約者など、おりませんが?」


 それを聞いた瞬間、魔王の表情が凍りついた。驚愕の眼差しで王女を見やると、彼女は小さく肩をすくめ、申し訳なさそうに微笑む。


「ごめんなさい。あれは嘘だったの。あなたの気持ちを知りたくて……!」

 王女は壇上から駆け降り、魔王の胸に飛び込んだ。


「世間知らずな箱入り娘だと思っていたのに、この俺がしてやられるとは」

 魔王はしばし呆然とした後、破顔し、声を上げて笑う。


「……無論、そうでなければ俺の妃は務まらないがな」


「え、あの……でも、国から出ていくって……」


「出ていくが、お前を連れて行かないとは言っていない」

 魔王はそう言って王女を抱きしめた。


「ありがとう! 魔王様、大好き!」

 弾けるように笑った王女の頬が薔薇色に染まる。


 それから人間と魔族の間には平和協定が結ばれ、二人はいつまでも幸せに暮らしたのだった。



 ―了―

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