9. 旅立ち

内壁の門のそばに立ち、旅人はエンキサルに言った。

「あの老いぼれの巫女から話が広まる。噂はすぐ広まるだろうな。あんなに沢山の銀を、君がどこから手に入れたのだろう、とね」

からかうように、旅人が続ける。

「そこで、私が、君に銀を盗まれたらしい、と言ったらどうなる?」

エンキサルは旅人の顔を見る。

騙されたのだろうか?でも、なぜ?

私と一緒に来ないか。

それに、もう、ここに君の居場所はないよ。そのことは、自分でもわかっているだろう。

ついてこい。私もそろそろ潮時なんだ。段階が次に進んだんだ。

エンキサルは、彼の言葉に後ろから押された気がした。

「ちょっと待っていてください、すぐ戻ります」

エンキサルは、東の町の、家に通じる道に駆け出した。家の前までくると、こっそりと入る。猫を籠に入れた。ニンガルの歌を書き写したパピルスの束を肩掛け袋に入れる。

一日の用意を始めていた父が気づき、顔をあげた。籠を持つ、エンキサルの表情に気がついたようだ。

「行ってしまうのか?」

思いがけない父の言葉にはっとして、その言葉に少年はうなずく。

不意に涙がこぼれてくる。父がその表情に驚く。

「学校はどうする」

首をふる。

「わかった。これも、若いということだな」

父が、旅行用の硬いパンを棚からとりあげ、束を作って、渡してくれる。パンは紐で脇に下げた。旅人と内壁の門で合流し、門を出る。

「大荷物だな」

猫の籠と肩下げ袋、パンを持ったエンキサルを見て、旅人が言う。そして、旅人は籠をあけて最後の鳩を飛ばした。

旅が始まった。荷物を載せたロバを引きながら、街道沿いを歩く。

川を離れ、牧地と耕地が点々とする平野を横切り、東に向かう。雪をかぶった山に向かって歩き続ける。

やがて道が上り坂になり、曲がりくねるようになった。一休みをして、町を振り返る。

旅人は、この町は十年すれば無くなってしまうだろうと言った。確信に満ちた言葉。旅人には、やはり未来が分かるのだろうか。エンキサルは、ロバの背中の籠の中から下おろした猫に、旅人から渡された干し肉の残りを細かくちぎって食べさせた。

時々水を飲みながら、半日ほど街道を歩いた。高度があがり、それほど暑くはないが、日差しを強い。空が近く、空気が冷たい。澄んだ空気。尾根に近い道の、小さな丘の前で立ち止まる。

旅人はロバを置いて、道をはずれて丘の向こうへ歩いてゆく。道がないのに、と思いながらもエンキサルは続いた。丘を巡ると、景色が、北にある山々の麓まで大きく開けていいた。

そこには、葬儀の行列でみた、見知らぬ二人が居た。

女が手をあげ、旅人に声をかける。エンキサルにはわからない言葉で何かを話している。女が振り返り、エンキサルに自信なげに言う。

「若さ、魂、愛。

休息、魂。

健康、安全、旅」

旅人が思わず吹き出した。

学校の書板でしか使われていない古典語の単語の羅列。女が不安そうな顔をする。旅人が、うなずいてみせる。

「お客さんだよ、君のことは良く知っている」

前方を見ると、先の遠い谷間に小さくテントの群れが見えた。兵士たちの甲胄。繋がれた馬たちの嘶きも小さく聞こえる。

でも、その谷へと下ってゆく道はなかった。

「北の連中だ。彼らもお客様なんだけれどね」

さあ、こっちだ、と旅人がエンキサルを促した。

二人は見知らぬ二人に分かれを告げ、尾根伝いに続く山道を、兵士たちを見下ろしながら歩き出した。

「東へ行ゆくぞ、あの山の向こうだ」

旅人が言う。

「あの娘の故郷と、同じ方角だ」


2024年1月

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猫と書板 末座タカ @mzwt

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