公式と非公式
八坂卯野 (旧鈴ノ木 鈴ノ子)
こうしきとひこうしき
日が登って間もないと言うのに、温度計の針が暑さに負けて針を刻んでゆく。でも、浸かる水はまだまだ冷たい。
かけがえのない夏休みの真っ只中、こんな朝早くから来る物好きはおらず、校舎は喧騒とはかけ離れた静けさだ。
朝日に照らされた水面が光の波で輝きなら、私と彼を際立たせる。部活が始まるには早い時間、広い広い25メートルプールを鮎のように機敏に泳ぎ回り、私は彼を、彼は私を、互いに水中で確認しながら競い合う。
息継ぎのタイミング、腕と足の滑らかで力強い動き、飛び跳ねて輝く水飛沫、どれもこれも理想的な彼の所作はいつ見ても綺麗で見惚れてしまう。
そう、惚れ惚れ、とさえしてしまう。
締まりの良い筋肉が正しく身についた体が、朝日に照らされて眩しく、そう、視線を逸らしてしまうほどに、薄い膜のような水の艶がエキゾチックな光を放っていた。飛び込み台の下で壁に背を預けて、水に首元まで浸かった私たちは隠れるように顔を見合わせて、そして互いに手を回して抱き合い、冷えた唇を交わす、ひんやりとした感触が私たちのようでもあり、水に熱を奪われる事は当たり前のことなのかもしれない。
彼の粘りを私はずっと見ていた。彼の強さを私はずっと見ていた、彼の泳ぎを私はずっと見ていた。数多くのことを、ずっと見ていた、ずっと、ずっと、ずっと……。
でも、彼が選んだ女は私じゃなかった。
いつの間にかすっと割り込んでいた。いつの間にかすっと隣にいた。いつの間にかすっと彼女へと成っていた。
彼女の話なんて聞きたくなかった、彼女のことなんて知りたくもなかった。恨みと辛みと情けなさと自己嫌悪に陥りながら、笑顔で話を聞き心で咽び泣いた。
彼が男子水泳部の部長で、私が女子水泳部の部長で、共に国体や大会の競合チームを抱える強豪校のエースでなければ、変わっていたかもしれない。でも、真摯に打ち込み自らの高みを目指そうとする仲間たちの表情を裏切ることはできなかった。
もっと柔らかく生きたらいいのにね、と親友は悲しそうに口にした。無理なことを理解してくれているから。
数日前、ついに私の感情は壊れてしまった。
知りたくもない話を聞きすぎたせいだろう、きっと積もりに積もったものが火山のように一瞬で噴き出して、私は片付け後の日誌を書く手を止め、更衣室の隣にある皆が帰ってしまった教務室で彼に当たり散らした。
冷たく見捨ててもらえたらよかった。冷たくほって置かれたらよかった。諦めもついたのに。
優しく抱きしめられてしまえば、正常な判断なんてできやしない。もう、そうなってしまうしか道はなかった。
それでも縋ってしまう私はなんて愚かなんだろう。なんて最低なんだろう、もちろん苛まれるけれど、苛まれるだけだ。
堕ちるしかない。
公式のままに非公式を過ごしてゆく。
この関係の行き着く先は全く見えない。
でも、失ってしまうくらいならこれでいい。
公式と非公式 八坂卯野 (旧鈴ノ木 鈴ノ子) @suzunokisuzunoki
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