淡く、忘れ

久火天十真

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 2016年夏のこと。

 ある日、私の元に手紙が届いた。

 それは死んだはずの幼馴染、恋人からのものだった。

 『夏帆へ』と書かれた封筒。差出人は書いていなかったが、それは紛れもなく彼が書いた字であり、何度も、何度も私が見てきた字だった。

 機械のように間隔も字の形も整えられた精密な字。細く書かれた字。その冷たさの奥に燻る彼の温度を、私は確かに感じ取る。

 封筒をゆっくりと、ゆっくりと開ける。開ける手が震えて仕方がない。

 やがて封筒からは丁寧に折り畳まれた手紙が顔を見せる。紙はたぶん、ノートから切り取ったものだろうと思う。それに加えて、2枚の写真が同封されていた。

 そして、宛名と同じように、手紙には綺麗に文字が並べられている。

 


__________

 夏帆へ

   

 何年振りだろうね。

 この手紙が届けられるまで、一体どれだけ掛かるかわからないし、そもそも届けられるかもわからない。そんな無駄になるかもしれないものを書いている僕がなんだか滑稽に思えて仕方ないけれど、それでも書かなければと思った。

 これを書いているのは、おそらく僕が死ぬ少し前。

 2012年の夏。僕は君と幼少期を過ごした、あの山間の村に来ている。もうこの村には誰も住んでいないから、実家だったあの家に僕1人だけが、今いるんだ。


 すまなかったと思ってる。

 何も言わずにあの部屋を出て行ったこと。

 まぁ僕はよく帰ってこないことがあったから、もしかしたら夏帆はしばらくは気にしてなかったかな。

 なんで出て行ったか、という話はあまりしたくないのだけれど、簡単に言えば、自分探しの旅みたいなもので。

 あの部屋にいた僕は、金のため、暮らしのため、名誉のため、売れるため、生きるため、あらゆるしがらみに囚われていたから。

 今になって思えばとてもくだらない。だけど、あの苦しみは無駄なものじゃなかったとわかってる。

 1ヶ月ほどの旅の果てに、僕は昔住んでいたこの村に辿り着いた。面白いのが、僕はこの村を目指して旅なんてしてなかったんだ。ただ当てのない旅を続けていたら、いつの間にかこの村に着いていたんだ。

 

 僕はまもなく死ぬ。

 別に自ら死のうってわけじゃなくて、そういう予感がするんだ。ほら、猫が死ぬ間際に姿を見せるってやつがあるだろう?それと同じようなものかもしれない。体が死期を察して、記憶の中の故郷に帰りたがっていたのかもしれない。

 君によく『あなたは猫に似ている』なんて言われてたことを思い出したよ。


 ここに来てから、あの部屋にいる頃は気が付かなかったことばかりが、僕の頭の中を蠢いている。

 だから今の僕なら、あの部屋にいたら書けなかったものが書けるかもしれないと思った。

 売れることも、誰かに読まれることも、評価されることも、批評されることも、何も気にせずに小説を書いた。

 幼少期、君に初めて書いた小説を見せた時と同じ心地を僕は今、この夜の中に感じている。

 とても誰かに見せられるようなものじゃないけれど、久しぶりに小説を書いていて、楽しいと思えたんだ。

 あれだけ売れることだけを考えて、考えて、考え尽くしてきて、遂にはこんなところまで帰ってきてしまった僕がそう思えたんだ。

 最後にこんなふうに思えてよかった。なんて、捻くれた僕らしくもないことを思っているよ。

 小説を書くことを嫌いにならなくてよかった。なんて、あの頃の僕が抱きそうな思いだけを、胸にしまい込んでいる。


 今、僕の頭上には曇天の夜空が、黒がかった灰の海が広がっている。

 覆われたあの先に月は見えないけれど、あの月はきっと

__________



 そこで手紙は終わっていた。

 文字と同じように、綺麗に2枚の紙ぴったりに収まっていた。相変わらずだと思った。

 私はただ蹲って、何も言えないでいた。

 彼は名の売れた小説家だった。18歳で小説家としてデビューして、それから10年間で短編中編長編合わせて27作品を残して逝った。

 4年前の夏。いつものように彼は2人で住んでいたこの部屋を出て行って、そのまま帰ってくることはなかった。部屋に残されたのは何も言われぬ私と100枚弱の小説原稿。

 いつも、彼の小説を世界で最初に読むのは私だった。彼は自分の小説を読み返すことはなかったから、書き終われば私に渡して次の小説を書き始めていた。日記だけは時折見返していたけれど。

 ずっと思っていた。

 彼のその飽くなき執筆への熱はどこか生き急いでいるような感じがしていた。彼は小説を書くことで何を得たかったんだろうか。何を残したかったんだろうか。

 金も、名誉も、彼は本当に欲しかったんだろうか。

 私はずっと彼と一緒にいたけれど、彼のことを何もわかっていないんだと思う。彼は何も語らなかった。恥ずかしいから、なんてカッコつけて何も言ってはくれなかった。

 私は彼を愛していたけれど、彼は私を愛していたのだろうか。彼の目に私は映っていたのだろうか。

 

 気がつけば、私はあの山間の村へと向かっていた。彼が最期を過ごしたあの村に行くことで、私は何か一つでも救われたかったんだと思う。何も言われなくて、何も知らないままでは、もう私はいられなかった。


 夏の木漏れ日が満ちる。

 人の手が消えて、およそ10年以上が経つ村は荒れに荒れていたけれど、その姿は昔の面影を残していた。所々、家は取り壊されていたけれど、何軒かは引っ越しの際に放置されている。

 私の家は取り壊されている。もう見る影もない。当時を偲ぶものなんて全て壊れている。


 私は彼が住んでいた家へと向かった。

 彼の家は少し汚れていたけれど、他の家と比べると遥かにマシだった。彼が本当にここにいたんだ、という実感だけが重さをもって私の首からぶら下がる。

 息が苦しい。

 砂が乗ってさらさらとした感触を持つ畳の上を靴のまま上がる。踏む足に砂埃が舞う。誰もいない部屋に足音が響く。

 息が苦しい。

 家具なんかは残ってない。だけれども、私は何度も来たことがあるこの家にどうしようもない懐かしさを覚えていた。当時を偲べるものが、まだ少しは残っていたことに少しの安堵を抱いてしまう。

 

 2階には彼の部屋があった。

 そこには木で出来ている、見目の悪い出来損ないの机があった。その上にはダンボールが敷かれている。

 私は駆け寄った。その時に何かを蹴り飛ばした。壁に何かが当たって音を立てる。

 私は抱きついた。

 出来損ないの机は彼が遺していったものだとすぐわかった。

 彼が最期にこの上で、あの手紙を書いたんだ。誰にも見せない小説を書いたんだ。最期に夜の空を見上げたんだ。

 彼は最期に何を思って、何を想っていたんだろう。私は何も、わかりはしない。

 どうしようもなく涙が溢れてきた。

 

 私はいつの間にか眠ってしまったようだ。

 机に抱きついて、ダンボールは淡い染みを未だ残したままだった。

 霞んだ窓から茜が差し込んでいた。部屋全体が夕暮れに沈んでいく。私の影法師が伸びて、壁に長く張り付いている。

 私はふと先ほど蹴飛ばした何かが目に入る。

 それはペンだった。黒いボールペン。

 きっと彼が最期に使っていたものだろう。

 私は立ち上がってそれを拾い上げる。その時に、襖が少し開いていることに気がついた。それ自体は別に大したことではないのだけれど、なんだかそれが無性に気になって、視界の先の隙間に手を掛ける。少し立て付けの悪くなった襖の戸は鈍い音を立てて、埃を撒き散らす。私は少し力を入れて、無理やりこじ開ける。

 すると扉は襖から外れて私の真横に倒れ落ちてくる。また埃が舞い上がる。

 埃がある程度飛んでいって、その中に見えたのは1冊のノートだった。それは彼が日記として使っていたもので、私は見覚えがあった。

 ノートを開くと、ほとんどのページが破られていて、数ページが残るだけだった。

 そしてその残されたページに書かれていたのは、彼の遺書とも言うべき言葉の羅列だった。



__________

 僕は死ぬ間際、最期の言葉を綴る時ですら、自分のことをうまく書けない。

 これは誰にも見られないと思うから、せめて声に出せなかったものを自分なりに書いていこうと思う。これは遺書であり、告白みたいなものになる。

 ここ数年、僕の病気はやけに加速度的に酷くなってきていて、そろそろ大切なことも忘れていって、僕が僕じゃなくなってしまう気がしている。

 だから覚えてる限りの思いの丈をここに。


 僕には信用できて、愛をくれる家族がいなかったから、幼馴染に依存気味の心境を抱いていたと思う。

 彼女が褒めてくれた小説を書くことを、後生嬉しく抱いて、僕の人生は小説を書き続けるものになった。

 小説家になった頃から、僕は何かと物忘れが多くなった。それは次第に増していく一方で、怖くて仕方がなかった。

 全てを忘れていく僕を、彼女と世界から忘れられないように刻み込んでいくことが、僕の生きる道になっていった。

 忘れる暇がないほどに、執筆に没頭した。

 日記もつけるようになって、しばしば見返すようにして、記憶の定着も図った。

 そうな日々が10年過ぎた。

 ある朝、目を覚ました時に、僕は彼女の名前も顔も、本人を見るまで思い出すことが出来なくなっていた。

 もう、限界だと思った。

 ペンも握れなくなって、小説が書けなくなった。だから、逃げるように部屋を出た。もう、今の僕は彼女の声も顔も名前も、何も思い出せない。思い出せるのは、ただこの胸にある暖かな感じだけ。

 つけていた日記は全て処分した。

 彼女を想って書いた小説は庭に埋めた。

 もう彼女を思い出す手立てはない。

 名前を見ても、多分僕はもう彼女を思い出せない。顔を見ても、声を聞いても、きっと思い出せない。

 虫に食われた穴だらけの想い出から想いは出ていく。でも最期の最期、彼女を愛し続けることが出来ていることだけが、なんて幸福なんだろうと思う。

 ただ、君の幸せだけを願えた。それが僕はただ、嬉しい。

__________



 私はその晩、庭から彼の書いた最期の小説を掘り出した。40枚ほどの原稿用紙が箱に入っていた。

 ボロボロの箱の中で、久しぶりに外気に触れた紙に、私はそっと手を置く。

 原稿用紙を取り上げると、箱の底にもう1枚の紙が入っているのが見えた。

 ノートから切り取ったものだった。

 ただそこには『綺麗だろうね、夏帆』と書いてあった。

 見上げると、夜空には満天の星が広がっていて、淡く月が浮かんでいた。

 輪郭が夜空に溶けるような、薄くたなびいた三日月だった。

 

 彼の書いた小説を読み耽った。

 何度も、何度も、何度も読んだ。

 そして気がつけば、落ちた涙が乾いて、少し紙を固めていた。

 私は小説を手に持って、外に出る。

 庭の空気は、夏の朝、青く澄んでいた。

 慣れない手つきでマッチを擦り、木の燃える匂いを鼻に擦りながら、私は原稿用紙に火をつけた。

 音を立てて、黒く濃く灰になっていく。

 その煙は淡い夏の香りがして、懐かしさを伴っていた。

「不格好でごめんね」

 私は手を合わせて、目を閉じた。涙はもう出なかった。

 どれだけ目を閉じていただろう。

 燃える音が消え始めた頃、猫の鳴き声が聞こえてきた。

 私は目を開いて、声のする方へと目を向ける。黒猫が1匹、ぎこちなさげな足取りで家陰から出てきた。

 そして私の方へと近づいてきた。

 そんな猫をそっと抱き上げる。暖かな感じが胸の中で鼓動を打った。


 東の空に星がひとつ瞬いた。

 煙は薄く、その色を忘れるように世界に溶けていた。

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