ロンドンの猫はルビーを恋い慕う

古池ケロ太

ロンドンの猫はルビーを恋い慕う

 一人の老人が死んだ。

 孤独な死だった。さびれた駅の片隅で、誰にも看取られることなく、誰にも悲しまれることなく、捨て猫のように死んだ。

 ロンドンの冬は寒い。風をさえぎる物も少ないこの駅では、毎年何人かの浮浪者が凍え死ぬ。それ自体はもう、何も珍しいことではなかった。

 ただ、老人はその死に様という点で人目を引いた。

 ダンボールの家の壁に寄りかかったその遺体は、つぎはぎだらけの衣服を着て、ぼろぼろの毛布をまとって、そして――ぴかぴかに磨きぬかれた百以上の靴に囲まれていたのである。



 老人は靴みがきだった。

 ロンドンの下町にあるこのボロ駅に住み込みながら人々の靴をみがくのが、彼の仕事。

 段ボールの家から通り過ぎる人々をぼんやりと見上げるのが、彼の日常だった。

 そんな老人がある日、恋をした。

 その日、彼がいつものように流れる人々の足元を見つめていると、目の前を二つのルビーが転がっていった。

 いや、ルビーに見えたのは、靴だった。真紅に輝く美しいハイヒールが音を立てて彼の前を通り過ぎたのである。

 はっと顔を上げた老人の視界に、天使と見まごう美しい横顔が映った。長い睫毛、高く通った鼻。吸い込まれるように深い、深い、瞳の青。

 ハイヒールと同じ赤いドレスに身を包んだその女性は、肥えだめのような駅舎の中でさんざめく、光の薔薇のように見えた。

 女性は優雅な歩みで駅のホームに消え、その後ろから何人かのスーツ姿の男たちが付き従っていった。

 顔を見たのは、ほんの一瞬である。だがその一瞬で、老人の心は天に昇った。

 初恋だった。

 齢七十を過ぎた老人が初恋をしたと言えば、誰もが笑うだろう。あるいは眉をひそめるだろう。

 だが、皆が小学校や中学校のクラスメートに初めての恋心を抱くわけではない。早い初恋もあれば、遅い初恋もある。そして、愛されなかったゆえに、生まれることのなかった恋も。

 ただ、老人のそれはあまりにはかなかった。

 夢心地の彼の隣に、駅の浮浪者仲間がやって来て言った。

「おい、見たかよ。さっき通ってったのァ、最近売り出し中の舞台女優だぜ。車で劇場に向かう途中に道が混んで、電車に乗り換えたらしい。いい女だったよなぁ、ピカデリーの姫君、たまんねえなぁ」

 老人はつとめて表情を変えないようにしたが、上手くいったかどうかは分からない。

 ただ、仲間の呟いた一言が、強く胸を穿った。

「ま、俺らとは住む世界が違うけどよ」



 その日から、老人は靴を集めだした。

 駅の隅っこから、近くの公園から、ゴミ捨て場から。

 男物も女物もスニーカーもパンプスもブーツもなく、捨てられた靴ならば全て拾い集めて持ち帰った。

 そして、寝ぐらに戻ると、それらを丁寧にみがき始めたのである。

 布でから拭きし、ワックスをかけ、汚れを一片も残さずみがき取る。

 一足に何時間も費やし、新品同然にみがき上げる。

 不思議がったのは、駅の浮浪者仲間たちだ。

 みがくだけなら、変わった暇つぶしだ、くらいで済む。

 だが、老人は靴底や踵がすり減った靴の修理までしていた。

 靴みがきの仕事には修理も含まれるから、道具は持っているし直すこと自体造作もない。

 しかし、ソールや中敷きなどのパーツは自費で仕入れるものだ。頼まれもしない修理をすれば、貴重な手持ちのパーツは減っていくばかりである。

 やがて彼らは、老人が拾った靴を売りに出すつもりなのだという結論に達した。

 仲間の一人が、老人のもとに近づき、

「よう旦那。いい稼ぎダネを見つけたじゃねえか。どうだい、良けりゃあ俺もおこぼれにあずからせてくんねえか。いやいや、タダでとはいわねえよ。こいつと交換でどうだ」

 言って、手にした見るからに安いバーボンと、高そうなブーツを交互に指差す。

 だが老人は、これは売り物じゃないんだと首を横に振った。

「じゃ、何に使うってんだい。まさか自分で履くつもりじゃねえだろうな」

 何もしない、ただ並べるだけだと老人は微笑んだ。

 仲間たちはもうけを独り占めする気だと疑った。

 だが、老人が片方だけの靴まで拾って修理するのを見るにいたっては、彼の言葉を信じるしかなくなった。そんなものが売り物になるわけがないからである。

 来る日も来る日も、老人は靴を拾い、みがき、直し続けた。

 布がすり切れれば、己の衣服をちぎって拭き続けた。

 町中の靴を拾いつくしてしまえば、ロンドンの外まで探しに出た。

 留守の間に仲間が値の張りそうな靴のいくつかを盗み出したことがあった。

 それでも彼は何も言わず、黙々と靴をみがき続けた。

 ただ一つ、時おり駅の中を見回し、あの女優の姿がないことを認めたときだけ、老人はため息をついた。

 やがて、靴の数は百を超える。

 なけなしの金は全てがパーツ代に消え、そのパーツもとうに使い尽くした。

 客を取らず、残飯をあさる時間も靴みがきにつぎ込んだ彼は、見る間にやせ細っていった。

 白髪は抜け落ち、あご髭は寒さに凍り、手足は枯れ枝のように朽ち、靴の汚れが染み付いた服をまとう姿は、とうていこの世のものとは思えなかった。

 ただ、彼の周りには新品同然に手入れされた靴が並んでいるばかりだった。



 ひどく寒い夜である。

 客も駅員もなく、静まり返った真夜中の駅で、老人はやはり靴をみがいていた。

 枯葉のような手から、靴が転がり落ちる。

 寒さと飢餓で、彼の手はもう彼の意志から離れてしまっていた。

 ただ、それしか知らない肉体が、主の意志を超えて靴を拾い上げ、またそれしか知らない作業を始めた。

 どこかの子供が落としたのだろうか。手の中の靴は小さく、そして赤い色をしていた。

 くすんだ赤。だけど、一心にみがけば、綺麗に輝いてくれるかもしれない。

 そう、あの日見たルビーのハイヒールのように。

 老人は靴をみがき続けた。

 その赤い靴が、あの日の思い出に近づくまで。

 その体が、全ての動きを止めるまで。



 ――女優さん。

 私があなたの名前も知らないと言ったら、あなたは笑いますか。

 駅暮らしの仲間が、前に教えてくれたような気がします。

 道行く人が、立ち話に名を出したような気もします。

 だけど、私の記憶はそんなこともすぐ忘れてしまうくらい、衰えてしまっているのです。

 ただ不思議なことに、そんな穴だらけの記憶の器にも、あなたの姿だけはずっと居残っています。

 あの日、駅を行くあなたを見た時、私は生まれて初めて神に感謝しました。

 父もなく母もなく兄弟もなく、金も家も職も失ってこの駅に流れ着いた私が、あの時、運命の導きを感じたのです。辛かった人生のこれまでが、あなたに会うためにあったのだと――あなたの顔を見た瞬間に、全ての苦労が報われた気がしたのです。

 でも、私の想いがあなたに届くことはないでしょう。

 分かっています。

 あなたは若く、私は年老いています。

 あなたは女優で、私は靴みがきです。

 あなたは輝いていて、私は落ちぶれています。

 私があなたに恋をしていると聞いて、笑わない人はこの世に一人もいないでしょう。もちろん、あなたも含めて。

 女優さん。

 あなたの心を頂くことは、あきらめます。

 その代わり、あなたの靴を貸してください。

 私は靴みがきです。靴をみがくことしか知らない男です。

 そんな男が愛する人にしてあげられることと言えば、ただ一つしかありません。

 あの日見たルビーのような赤いハイヒール、あの靴をみがくことができれば思い残すことはありません。

 たった一拭きだけでいいのです。

 あなたの白い足によく似合う靴を、たった一拭きするだけで、私の恋は終わります。

 こんな事を言っても、あなたは気味悪がってきっと足を差し出してはくれないでしょう。

 だから、私は靴を集めます。

 捨てられた古い靴を集めて、みがいて、綺麗にします。

 底の外れた靴だって、踵のすり減った靴だって、元通りにしてみせます。

 そうすれば、あなたも少しは私の腕を信じてくれるでしょうから。

 一足でたりなければ、二足の靴をみがきます。

 二足でたりなければ、三足みがきます。

 あなたに信じてもらえる日まで、何足だって私は靴をみがいてみせます。

 女優さん。

 愛しています。あなたを心から愛しています。

 あなたが私を見てくれなくても、もう一度出会うことすらなくても、私はあなたを想いながら、ずっとずっと靴をみがき続けます――。 



 やじ馬の人垣の前で、女優は立ち止まった。

「あら……何かしら」

 傍らのマネージャーの男が、背伸びして様子をうかがう。

 警官が二人、袋に入れられた老人の遺体を運び出しているところだった。

「どうやら浮浪者が死んだようですね。ま、寒い時期ですから」

「まあ、かわいそう」

 女優はガラス細工のような端正な顔を悲しげに曇らせた。

「そんなことより急ぎましょう。リハーサルまで時間が無い。まったくあの道、しょっちゅう渋滞して仕方がない」

「ええ……あら?」

 女優の足元に、一匹の仔猫が歩み寄ってきた。

 猫は彼女のハイヒールをぺろりと一舐めすると、人波の足をすりぬけて、どこかへと消えた。

「どうしました?」

「いえ……なんでもないわ。さあ、行きましょう」

 ルビーのような靴を鳴らしながら、女優は駅のホームへと歩いていった。

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