僕は君を食べたくない
蟹場たらば
カニバリズムは愛情と言えるのか?
食人というと野蛮で残酷な印象を抱かれがちだけど、愛情を動機として行われるケースも決して珍しくないんだ。
食べるというのは、対象を自分の中に取り込む行為、すなわち対象と同化する行為だと言える。つまり、好きな人を食べたいというのは、趣味を共有したいとかペアルックをしたいとかいうのと、本質的には同じなわけだ。
そのため、エンドカニバリズム――族内食人といって、弔いのために死者の肉体を遺族や同じ共同体の仲間が食べるという風習は、古い時代には世界各地で見られたそうだよ。日本でも骨噛みといって、遺骨を食べる文化があったって言うしね。
それに近代の社会においても、性的嗜好から人を殺して食べたという人間は少なくない。アルバート・フィッシュ、ニコライ・デュマガリエフ、ヴィンチェンツォ・ヴェルゼーニ、イオン・リマル……
なかでもフリッツ・ハールマンは、相手の喉笛を噛みちぎって殺すことを、恋人にする甘噛みのようなものだと認識していたみたいだ。
とはいえ、よくある考え方だというだけで、僕は食人による同化が論理的に正しいものだとはまったく思わないけどね。
どうしてかって? 簡単なことさ。
好きな人を食べたところで、同化していられるのは物理的にはわずかな時間に過ぎないからだよ。
食べたものが排泄されるまでの期間は、せいぜい二日か三日くらいだと言われている。死んでしまった人を食べるならともかく、生きている人間を殺して食べる場合には、むしろ一緒に過ごす時間が短くなるだけだろう。
これに対して、「栄養になって自分の体の一部として残り続ける」っていう反論もあるかもしれない。でも、それも間違っているんだ。
さっきちょうど排泄の話をしたけれど、実は排泄物には消化した食べ物の残りカス以外に、胃や腸の細胞も含まれている。新しい細胞に押し出されて剥がれ落ちた古い細胞がね。
この細胞の入れ替わりというのは、フケや
要するに、人肉を栄養にして生まれ育った細胞があったとしても、ほんの数年の内にきれいさっぱり消えてなくなってしまうってわけだ。
たとえば、遭難して餓死しそうになった時に、先に死んだ人の肉を食べることで命を繋ぐ。こういうのだったら、死ぬまでずっと一緒と言ってもいいかもしれない。
でも、このままなら何十年と一緒にいられるって状況で、わざわざ相手を殺して食べるっていうのはどうなんだろう。食人という衝撃的な行為に魅入られてしまっているだけで、本当に相手を愛している人間がすることだとは僕にはとても思えないね。
だから、君もその包丁を下ろしてくれないかな?
(了)
僕は君を食べたくない 蟹場たらば @kanibataraba
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