ランナーとマーメイド

隠れ豆粒

ランナーとマーメイド

 駅伝部のスポーツ推薦で大学に進学した齋藤ソウは、高校と大学の練習量のギャップに着いていけず、入学1ヶ月で早くも怪我をしてしまった。

 初めはシンスプリントという、ランナーならよくあるスネの怪我だった。しかし、我慢して走っていたせいで、遂に疲労骨折をしてしまったのだった。

 そもそも彼の高校が強豪だった訳でも無く、ただ新人戦で関東大会に繰り上げ進出したというだけで推薦を貰ったのだから、無理もない。公立高校の陸上部は強化部でないことが殆どで、彼のいた高校もそうだった。

 そんな、大学の競技においては素人とほぼ変わらないソウの走力は、チーム内でダントツのビリだった。同期がポイント練習でトラックを駆け抜けていくのを横目に、彼は競技場の隅で独り筋トレをしている。ただただやるせない、惨め、悔しい……。そんな負の感情ばかりが彼の周囲を取り囲む。

 早く走れるようになりたいという気持ちと辞めてしまいたいという気持ちが交差して、彼は次第に暗くなっていった。


 そんなある日、大学の近くの砂浜で練習が行われた。砂浜では蹴って反発を貰うことが出来ないため、脚を前に出して走る技術を身につけられるという。砂浜では筋力的なダメージが強く、逆にソウの怪我しているスネへのダメージは少なかった。

 彼は砂浜でなら走れると思い、ゆっくりとジョグをした。皆とは練習内容が違えど、久しぶりに走れることが嬉しかった。

 練習が終わり、その場で解散した後も、彼は少しだけ走ることにした。

 砂浜のふかふかとした感触、波の音、快晴ではなくどんよりとした空。それらが、なんだかとても心地良かった。このまま怪我のことなんて忘れて走っていたいと、彼はそう思った。


 気が付くと、電車の駅で1つ分の辺りまで来てしまっていた。折り返して戻りたいところだが、ソウの脚はジワジワと痛みを感じ始めていた。負荷が少ないとは言えど、長く走れば負荷が蓄積される。彼は走るのをやめて、ゆっくりと歩いて元の場所まで戻ることにした。

 次第に、ぽつりぽつりと雨が降り出した。一歩進むごとに雨足は強まり、それと同時に人気ひとけも去ってゆく。砂浜には彼一人だけが残っていた。

 しばらく歩いていると、少し先の波打ち際に大きな物体が打ち上げられているのが見えた。強めの雨に加え、彼の視力は悪く、それがなんなのかよく分からない。彼は目を凝らしつつ、ゆっくりとその物体に近づいた。

 たまにサメや大きな魚が打ち上げられていることがあるので、最初はそれだと思った。しかし違うようだ。近づくにつれ、そのシルエットが明確になる。ヒトの頭、ヒトの腕、そして、魚の下半身。

「……人魚?」

 彼は思わずそう呟く。

 おそるおそる近づくと、それは本当に人魚の姿をしていた。

 架空の存在であると思っていたものが目の前に現れたのに、彼は心底びっくりしたというよりも、本当にいたんだ、というような冷静な感想を抱いた。

 うつ伏せになっていて、顔を右側に向けている。彼の方からだと顔がよく見えない。

「……あのぉ」

 声をかけても返事はない。どうやら意識を失っているようだ。

 彼は意を決して人魚に触れる。体温はあるようだが、人間よりも冷たかった。両肩を持ってゆっくりと仰向けにする。豊満な胸とともに、美しい顔が露になる。彼はその両方に少し目を奪われて、それから改めて人魚の下半身に目をやる。青や銀が混ざったような色をした鱗が綺麗に配置されており、先端にはヒレが付いている。

 いったいどのように交尾をするのだろう。下心ではなく単純な疑問として、彼はそう思う。

 そして、この美しい生き物をどうするべきか悩む。幸い周囲に人はおらず、誰かの目に触れて大スクープになることはなさそうだ。ひとまず彼女を抱き上げて、大学の方へ向かって歩き出す。思ったほど重くはない。しかし、彼の脚にはさらに負荷がかかり、痛みを強くした。

 雨脚はさらに強くなり、いよいよ嵐へと変わった。波も大きくなり、今にも飲み込まれそうな気がした。

 ふいに、手の中の彼女が声を漏らした。彼は立ち止まり、ゆっくりと砂の上におろす。ジンジンと痛むスネを無視して、彼女の顔を凝視する。

 ついに目を開いた彼女は、眠りから覚めたように穏やかな表情だった。

「大丈夫ですか?」

 彼が声をかけると、彼女が彼の目を見た。果たして言葉が通じるのだろうかと心配したが、彼女は「あなたは……」と話したので安心した。

「僕、斎藤ソウっていいます。人間の……」

 一応別の種族であることも述べておく。すると彼女は目を見開いて、口を大きく開けた。叫ぶのかと思い構えたが、彼女は叫ばずに口を閉じた。どうやら感情のコントロールが上手いようだ。

「えっと、私、あなたとは違う生き物なんだけど……」

 困ったような諦めたような表情でそう話す彼女に、ソウはコクリと頷く。

「はい、人魚……ですよね?」

「人間にはそう呼ばれているわね」

 ゆっくりと起き上がろうとする彼女の背中を、ソウは支える。

「あの、あなたの名前は?」

 彼女はソウの腕に掴まって、彼を見つめて言う。

「私はサラ。あなたは?」

「僕はソウといいます」

 彼が名前を教えるとサラは、ソウ、と復唱した。

「あの、どうしてサラは浜に倒れていたんですか?」

 今まで人魚を目撃したという話は聞いたことがないから、きっと浜にたどり着いてしまったのは初めてのことだろう。

「……わからないの。気がついたら、あなたに抱きかかえられていたわ」

 彼はサラをどうすればいいのかわからず、背中を支えたまま動けないでいる。

「もしかして、どこか打ったりしました? 痛いところはないですか?」

 記憶が無いのは頭を打ってしまったのかと思い、彼はそう聞いた。

「痛いところはないわ。でも、記憶が曖昧で何があったのかわからないの」

 彼女自身が分からないのなら仕方がない。彼はこれからどうするかを考えた。

「サラは、もう海へ戻れそうですか?」

 いつまでもこのままでいる訳にはいかない。雨風が強くて体が冷えてきたし、もしかしたら誰かに見つかってしまうかもしれない。

「……動けないの」

「え?」

「体に上手く力が入らなくて、動けないの」

 彼は彼女をどうすべきか悩む。このまま置いて立ち去ってもいいものだろうか。

「……あの、陸地でも呼吸はできるんですね?」

 今更だが一応確認しておく。こくりと頷き、スーハーと呼吸をして見せた。

「できるみたいね」

 ソウは覚悟を決めて、もう一度抱きかかえる。そして、また歩き出した。

「とりあえず、僕の大学がある方に行きますね」

「ダイガクって、聞いたことあるわ。勉強をするところなのよね」

 サラはそう言ってソウの顔を見上げる。

「はい、やりたい勉強や研究をするところですね」

 ソウもサラをの顔を見て、そう答えた。それにしてもサラは美しい顔をしていると、彼は思う。 頭は片手で掴めてしまえそうな大きさなのに、そこにくっきりとした目や鼻、口が綺麗に配置されている。彼はそれに見とれていたが、数秒目が合っていることに気づき、気まずくなって目を逸らした。

「ソウは、大学で何をやっているの?」

 サラにそう聞かれて、彼は大学で学んでいることを思い浮かべる。……しかしあまりパッとしなくて、部活のことを話す。

「僕は学びたいことなんか無いので、部活をやっているんです」

「ブカツ?」

 人魚には聞き馴染みのない言葉なのか、サラは変なイントネーションでブカツと発音した。

「簡単に言えば、いろんなスポーツや芸術を極めるんです」

 サラはよく理解できないのか、ふぅん、と声を漏らす。

「それで、ソウはどんなブカツをしているの?」

「僕は駅伝っていうスポーツをしているんです。長い距離を何人かで走って、仲間の人に襷というものを繋いで、ゴールを目指すのを競うんです」

 彼はできるだけ分かりやすく説明したつもりだったが、襷は分からなかったかもしれない、と思った。

「走るの!?」

 しかし彼女が食いついたのは「走る」というワードだった。

「はい、走るんです」

「……私、脚というものがないから、走るってどんなものか分からないのよ。ねえ、脚ってどんな感じなの?」

 ヒレの方がどんな感じなんだよ、とソウは思う。

「……脚なんて、いいもんじゃないよ」

 彼はそう言ってみると、ジンジンと痛む脚に、上手く走れない自分に、フツフツと怒りが込み上げてきた。

「どうして?」

「だって、みんなよりも全然走ってないのにすぐ脚が痛くなって、怪我して、治ったと思ったらまた痛くなって、全然走れるようにならないんだ」

 一息でそう言うと、サラは驚いた顔をした。

「ソウ、怪我をしているの? 脚が痛いの? ごめんなさい、私なんか抱えてたら余計痛かったよね。もう下ろしてくれる?」

 驚いた顔が申し訳なさそうな顔になっていて、ソウは少し戸惑う。

「いや、ごめん、大丈夫だから」

 何に対するごめんなんだろう、と思いながら、とりあえずそう口にする。

 そのまま会話も無くしばらく歩いていたが、ついに沈黙が気まずくなったのか、サラが口を開いた。

「ねぇ、脚、痛いの、大丈夫?」

 申し訳なさそうな表情のままのサラに、ソウもなんだか申し訳ないな、と思った。

「……大丈夫、それより、ヒレはどんな感じなの? 僕は上手く泳げないから、そのヒレが羨ましいよ。でも、泳ぎ続けたら脚みたいに痛くなるの?」

 話題が逸れたことでサラの表情も少し晴れた。

「いいえ、痛くなったことは無いわ。海の中だったら自由に泳げるわ」

「そっか、いいね。陸よりも海の方が広いから、いろんな所へ自由に行けるね」

「ええ、でも、あんまり遠くへは行ったことがないの。私、体が弱いから……」

 そう言った後、サラはハッとしたように目を見開いた。

「どうしたの?」

「思い出したの! 私、親に内緒で抜け出して陸が見える所まで泳いできてしまったんだわ……。今まで体が弱いせいで全然遠くへ行かせて貰えなかったから」

 ソウはそれを聞いて立ち止まった。

「親のところへ戻らなくていいの? 体が弱いなら無理しちゃだめだよ。親も心配してるよ」

 彼がそう言うとサラは少しむくれた顔をした。

「いいのよ。そろそろ自律しなきゃ行けないんだから。それに、もっと陸の世界を見てみたいの」

「でも、サラは歩けないから移動ができないよ」

 彼がそう言うと、サラは不思議な顔をした。

「どうして、ソウは連れて行ってくれないの?」

「僕だってずっと一緒になんて無理だし、そもそもこの脚じゃ痛くてどこへも行けないよ」

 そう言うと、サラはとても悲しそうな表情をして、俯いた。

「私も、人間だったら良かったのに」

 彼は、僕だってこんな辛くて痛い思いをするなら人魚にでもなりたかった、と思ったが、サラの表情を見ると、そんな事は言えなかった。

「……じゃあ、3年後にもう一度会おう」

 俯いていたサラは、「え?」と言って彼を見る。

「僕が、この脚でちゃんと走れるようにするから。サラを抱いて歩いても大丈夫なくらい強くなるから。3年後、もう一度同じ場所で会おう」

サラが脚で歩きたいと思うように、ソウもヒレで痛みなく自由に泳ぎ回りたいと、そう思った。しかし、どちらも叶わない。

 人間は色んな方法で海の世界を知ることができる。酸素ボンベをつければ深く潜ることもできる。でも、人魚サラは陸で歩くことができない。それは、サラが可哀想な気がした。だから、自分がちゃんと走れるようになればいい。サラを抱いて歩いても疲れない脚になって、陸の世界を見せてあげよう。彼はそう思った。







 3年後、ソウは部活のキャプテンをしていた。

 そして今日、彼は砂浜を走って行く。

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