7.タラの酒蒸し

 街がイルミネーションの光で彩られ、恋人たちが幸せそうに笑いながら通りを歩く。

 十二月。クリスマス前のこの時期。ここ最近、毎年楽しみにしていることがある。

 キイ、と木製の扉を開けると、小麦粉の香ばしい匂いが漂ってくる。

 ――あった。

 シュトーレン。クリスマスの準備期間に少しずつスライスして食べるという、ドライフルーツやナッツがたっぷり入った贅沢な菓子パンだ。数年前に初めて食べてやみつきになり、以来毎年欠かさず買っている。クリスマスというイベントに何の楽しみもない私だが、仕事帰りに毎日楽しみがあるのも日常にほんの少し彩りを添えられる気がしていい。

「いつもありがとうございます」

 店員の女性がにっこり笑って紙袋を手渡してくれる。

 たまにしか寄らないのに覚えてくれていたのだろうか。

 私も笑みを返して、お店を出た。


 今日は冬の魚、タラの酒蒸しだ。

 レシピ帖のイラストの下に書いてある『寒い冬にぴったり』という幸さんの言葉を見て、冬になったら作ろうととっておいたのだ。

 まな板にタラを二枚置く。両面に塩こしょうをふって、酒大さじ3、しょうゆ大さじ1/2で下味をつける。そして生姜とねぎを薄切りに。

 レシピは二人分だが、一度に二尾は多いし、明日になると水分が抜けてパサパサになってしまうから、別の日に一品ほしいとき用に下味の段階で冷凍保存しておく。

 フライパンにサラダ油を熱してタラを両面焼いて、生姜とねぎを加える。ねぎがしんなりしてきたら完成だ。それから油揚げとほうれん草のお味噌汁。

「うん、身がふっくらしてておいしい」

 タラのさっぱりした味に酒の風味がよくあう。生姜とねぎの香りも引き立ってご飯が進む。おかわりもいけそうだったが、今日はデザートがあるのでやめておくことにする。

 今日は晩酌の代わりに食後にコーヒーを入れて、パン屋の紙袋からお待ちかねのシュトーレンを取り出した。

 雪のような粉砂糖に、中の洋酒を漬け込んだたっぷりのドライフルーツとナッツ。それにおそらくこれまたたっぷり練り込まれているであろうバターの香り。カロリーを考えるとちょっと恐ろしくなるが、だからこそ、さっぱり低カロリーな和食ご飯だ。それに薄くカットすれば罪悪感も薄くなる。

 一口、サクッと噛んで、うっとりと目を細める。

「これこれ、このガツンとくる甘さ」

 酒蒸しのさっぱりした日本酒に、砂糖と一緒に漬け込んだ甘い洋酒。これはもう、料理とデザートで晩酌をしているようなものだ。

 三日くらいで食べきってしまいたくなるけど、ぐっと堪えてラップに包み、明日の楽しみにとっておいた。


 年末から春先にかけて、怒涛の忙しさがやってくる。

 新規の打ち合わせを終えてトイレの鏡で自分の顔を見ると、心なしかげっそりしているような気がする。

「お前、大丈夫か。クマがひどくなってるぞ」

 事務所に戻ると、草刈さんが背後からのっそりと現れて言った。

「草刈さんこそシワが濃くなってますよ」

 ふふふ、と私は半笑いを浮かべて言った。

「あっ、忘年会のお店ピックアップしたんですけど、どこがいいですか?」

 意気揚々とスマホを見せてくる凪ちゃんには感心せざるを得ない。

「お任せするよ。あ、でも落ち着いて飲みたいから個室のほうがいいかも」

「俺はあったかい日本酒飲みたいから和食希望で」

「個室で和食ですね。了解です。ほかの人たちにも聞いてきますねっ!」

 元気だなあ。若さの塊のような凪ちゃんを憧れの眼差しで見送りつつ、残った資料作りに没頭した。


 年末は仕事の忙しさに加えて、もう一つ欠かせない作業が待っている。

 夕食を簡単に済ませ、きっちり二週間かけて食べ終えたシュトーレンの最後の一口を飲み込み、パソコンにダウンロードしておいた年賀状作製アプリを開いた。

 両親や妹家族、地元の友人たちに加えて、打ち合わせを担当したお客さんの名前を打ち込んでいく。

 年賀状のやりとりは好きだ。送るのも受け取るのも。

 スマホで簡単にやりとりできる時代だからこそ、普段は連絡をしないような人の近況を知れるのは貴重だ。最近じゃ同窓会などをやりたがる人も減ってきて、学生時代の友人たちとも疎遠になっている。

 今年はどんな絵柄にしようと、デザインを見ながら考えるのも楽しい。

 十年ほど前――結婚を焦っていたときは友人たちの子供の成長を年賀状で見るたびに落ち込むこともあったが、いまやその子供たちも大学生や社会人になる年頃だ。受験合格しました、就職しました、という人生の節目ともいえる報告に、立派になったなあ、と近所のおばちゃんのような心境でほっこりできるようになった。

『五十年以上も生きてるとそんな焦りもなくなるんだよな』

 草刈さんが言っていたのを思い出す。

 これも、余裕ができたことの一つだろうか。

 今日中に終わらせるぞと意気込んで、パソコンに向かった。


「あ、雪」

 窓の外を見てつぶやいた。朝からいつにも増して冷え込んでいたが、四時を過ぎた頃、薄曇りの空からちらちらと雪が振り始めた。

「わ、ほんとだ。ホワイトクリスマスですね!」

 うきうきとはしゃぐ疲れ知らずの凪ちゃんの横で、

「電車止まらないといいけど……」

 私はそれだけが心配だった。

 今日は二十四日。クリスマスイブだ。クリスマスだからといって仕事がなくなるわけではなく、むしろ年末にかけて佳境に入っている。年が明けたらさらに忙しくなると考えるとぞっとするが、それは年が明けてから考えることにする。

 と、そのとき。マナーモードにしているスマホがブルル、と震えた。

 母から電話だった。平日の夕方に電話なんて珍しい。この時間はまだ仕事中だと知っているはずだから、めったにかけてくることはないのに。

 何かあったのだろうか。心配しながら通話マークを押す。

「ああ、遥。悪いね、仕事中に」

「それはいいけど、どうしたの」

「お父さんが、お父さんがおらんの」

「え……?」

「庭におると思っとったのに、どこにもおらんの。昼頃から梓と探し回っとるけど全然帰ってこんのよ」

 電話を切って、呆然とした。

 父は昔からたまに何も言わずにふらりと出かけることがあった。めったに遠出することはなく、たいてい近所のホームセンターや喫茶店に行ったり、散歩をして帰ってくることが多かった。認知症と言っても元気だし、薬で進行を遅らせていると聞いてどこか安心していた。

「どうかしたか」

 草刈さんの声でハッとした。

「あの……父が、いなくなったって」

 えっ、草刈さんが目を見開く。事情を説明すると、そういうことなら、と頷く。

「わかった。もう上がっていい。名古屋だと今から行って帰ってくるのも大変だろうし、明日も休んでいいから」

「でも仕事が……先月も風邪で迷惑をかけたばかりなのに」

「仕事より家族のほうが大事だろうが」

 ピシャリと言われて、何も言えなくなった。

 その通りだ。何かあってからでは遅い。

「すみません。お願いします」

 頭を下げて、急いで事務所を後にした。


「お父さんが行きそうな園芸用品店とかホームセンターとか回ってみたけど、いなかった。店員さんにも確認したけど、わからないって」

 電話の向こうから梓の弱々しい声がする。

「とりあえず、今から新幹線乗ってタクシーで向かうから」

「ごめんね、忙しいのに」

 ――ごめんね。

 その言葉に、ズキンと胸が痛んだ。

 家族なんだから、謝らなくてもいいのに、そう言わせてしまった。

 家を出て二十八年。前の会社にいたときは仕事と恋愛でいっぱいいっぱいでろくに帰らなかった。恋人と別れて結婚の予定もなくなり、家庭を持って母親になった妹と顔を合わせるのが億劫で、相変わらず避けていた。

 父の認知症を知って毎月帰るようになったけれど、遠ざけてきたこれまでの時間は、埋めようがないのだ。

 新幹線で一時間半の距離がいつもより何倍も長く感じた。


 実家に行くと、憔悴しきった母がおろおろと歩き回っていた。心配でじっとしていられないのだろう。とはいえ車もなく、梓の帰りを待つしかない。

 ちょっと落ち着いて、と母を座らせる。

「捜索願いは出したの?」

 尋ねると、母が青ざめた顔で頷いた。

「警察は行ったけど、この雪じゃ見つかるかどうか……」

 母が窓の外を見て、いてもたってもいられないというようにまた立ち上がる。

「ああどうしよう。こんなに寒いのに、お父さんどこか倒れてで野垂れ死んじゃってたら……っ!」

「そんな、縁起でもない」

 笑いかけたが、まったく笑いごとではない。外はもう真っ暗で、雪は夕方よりもどんどん勢いを増している。

「ちょっと外探してみる。お父さん帰ってくるかもしれないからお母さんは家で待ってて」

 私は言って、傘を持って家を出た。

 風が強く、斜めに吹きつける雪を傘で防御しながら歩く。

 見慣れた景色なのに、雪で視界が悪く遠くまで見渡せない。

 ――お父さん、どこに行ったんだろう。

 こんな雪の日に散歩しているとも思えないし、まさか本当にどこかで倒れていたりしたら……。

 悪い予感を拭って歩き続けるけれど、あては何もない。

 申し訳ないと思いつつ、近所の家のチャイムを押して一件一件回った。が、手がかりはなし。中にはクリスマスパーティー真っ最中の家もあり、あからさまに迷惑そうな顔で「知りません」と言われてバタンと扉を閉められてしまった。

 やっぱり、家を訪ねるのは迷惑か。警察からの連絡もない。完全に八方塞がりだった。

 ふと、すっかり暗くなった景色の中に、ろうそくの火のようにぼんやりと光る灯りが見えた。

 吸い寄せられるように近づいていき、ようやく気づいた。

 通り沿いにある、クリーム色の壁のこぢんまりとしたケーキ屋。昔、学校帰りによく寄って、イートインスペースでケーキを食べたっけ。

 ――まだここやってたんだ。

 こんなところに父がいるはずがないと思いながら、ほかに行くアテもなく、寒さをしのぐように入口の扉を開けた。

 ふわりと甘い匂いに、疲れた体がほんの少し癒されるようだった。

「申し訳ありません。ケーキはもう売り切れてしまって……」

 緑色の帽子にエプロンをかけた店員の女性が困ったように言った。

「いえ、大丈夫です。あの」

 言いかけて、ん? と首を傾げる。

 この顔、どこかで見たことがあるような……。

 それは彼女のほうも同じだったらしく、私の顔をじっと見ている。

 あっ、と気づいた。

「優子? 中学のとき同じクラスだったよね?」

 そう言うと、彼女はぱっと顔を輝かせた。

「そう! 遥、久しぶりだねえー」

 ニコニコと言う優子に、昔の友人に会った懐かしさで不安が少しだけ和らいだ。優子のお母さんはお店で忙しく、中学の頃はよく家に遊びに来ていたのだった。

 優子は今でも年賀状のやりとりをしている友人の一人だ。毎年家族写真を見ていたが、最後に会ったのは二十年以上前。久しぶりの再会に懐かしさがこみ上げる。

「優子、このお店継いだんだね」

「そうそう。もうお母さんも引退したからね。息子も大学で一人暮らし始めたし、まだまだお金がかかるから頑張らないと」

「さすがだなあ。昔から将来の夢はケーキ屋って言ってたもんね」

 照れくさそうに笑う優子。

 しかし、今はのんびり近況報告をしている場合ではない。

「あ、ねえ、覚えてないかもしれないけど、うちの父、見なかった?」

「お父さんならお昼にケーキ買いに来たけど?」

「ええっ!?」

 まさかこんなところに手がかりが転がっているとは思わず、本気で驚いてしまった。

「け、ケーキ? 家用に?」

「娘に買ってやるんだって言ってたよ。遥は東京だから、妹さんの家にあげるのかと思ってたんだけど。あっ、そうそう、妹さんもよく来てくれてね。この前下のお子さんが」

「ごめん、今急いでるからまた今度来るね! ありがとう!」

 強引に話を打ち切って、急いで家に帰った。

「お姉っ!」

 梓が駆けてくる。

「お父さん、お昼にケーキ屋に行ってたらしいよ。そこからはわからないけど……」

「ケーキ屋?」

 ぽかんとする梓。

「なんでまた。私が甘いもの食べんから、あんたたちが家出てからはクリスマスにケーキなんて買っとらんかったのに」

 後から来た母も首を傾げる。

『娘に買ってやるんだって言ってたよ』

 優子が言っていたことを思い出して、ハッとした。

 娘って――もしかして、私のこと……?

 でも、まさか。名古屋から東京まで、わざわざケーキを持って行くなんて。

 まさか、あり得ない。でも、東京出身の父は土地勘もある。絶対にない、とは言いきれない。

「お父さん、もしかすると私の家に行ったのかも……」

「えっ、東京に?」

 さあっ、と二人の顔が青ざめる。

「あり得る……だってこんなに探しても見つからないなんて……」

「新幹線! 今すぐ新幹線で」

「嘘……」

 梓がスマホを見て青ざめている。

「新幹線、雪で止まってるって」

 三人とも、絶句して立ち尽くしてしまった。

「いやいや、まさかね。きっとそのうち何事もなかったように帰って来るって」

「でももう夜だよ……」

 しかも外は電車が止まるほどの雪だ。

「お姉、誰か知り合いに連絡して見に行ってもらって! 大屋さんとか」

「大屋さんはもうお年だし今からはちょっと……」

 スマホを取り出し、連絡帳を開く。スクロールして、ある人の名前のところで指が止まった。

 迷っている余裕は、なかった。

 その名前をタップして、電話をかける。プルルル、と何度か呼び出し音が聞こえて、止まった。

「もしもし、草刈さん」

『鳥井! お父さん見つかったか』

 せきを切ったようなその第一声から、ずっと心配してくれていたのがわかる。

「いえ……」

 弱気になる気持ちを堪えて、続ける。

「お願いがあるんです。今から私の家を見に行ってもらえませんか。こんな日に申し訳ないけど、草刈さんしか頼れる人がいないんです」

『今から? なんでまた……』

 事情を説明すると、草刈さんは迷わず、わかった、と言ってくれた。

「また連絡するから待っててくれ」


 母と梓と私、三人で机を囲み、祈るように連絡を待った。

 四十分ほどして、電話がかかってきた。飛びつくように通話マークを押した。

「お父さん、いたよ。家の前でウロウロしてたって」

「ええ? ほんとに行っちゃってたの?」

 母と梓があ然とする。

 見つかった安堵と探し回った疲れで、はあー、とため息が出た。

『雪でひと気がないからよかったものの、思いっきり不審者……いや怪しい人だったよ』

 と草刈さん。それどっちも同じ意味だと思う。

 遥、遥か? ちょっと変わってくれ、と電話の向こうから父の声が聞こえる。

『ああ、遥、よかった。何回戸叩いても出ないから心配になってなあ。したらこの変な男が来てな』

「変な男って……その人、私の上司だよ」

『おお、そうか、会社の方だったか。それは失礼』

『そういうわけだ。今からそっち向かうから住所送ってくれ』

「今から!? でも新幹線止まってるしどうやって……」

『高速は今んとこ規制かかってない。朝には凍結してるだろうから、今行ったほうがいいだろうな』

「そんなご迷惑かけれません! 父だけ警察に送り届けて、草刈さんは帰ってください」

『でも、娘にケーキを届けたかったんだろ。だったら今日中に届けるべきだと思うけどな』

 ハッとした。

『まあ、日付は変わっちまうかもだけど。明日はさすがにきついから午前休とるよ』

「草刈さん……」

 どうしてそこまでしてくれるのだろう。

 私はただの部下なのに。

 草刈さんだって一日中仕事に追われて疲れているはずなのに。

 だけど。

 やっぱり、父に会いたかった。

 会って、顔を見て、ちゃんと無事を確認したかった。

「すみません。お願いします。残業でも休日出勤でも何でもしますので」

『その言葉、覚えとくよ』

 電話の向こうから聞こえる草刈さんのからりとした笑い声にほっとして、私はへなへなと床に座りこんだ。


 福永さんには悪いと思ったけれど、みりんが心配で電話をすると、ありがたいことに、息子さんが車で乗せて行ってくれるという。

 今日はいろんな人に助けられてばかりだ。

 梓は家で夫と子供が待っているからと、急いで帰っていった。

 母と二人で、草刈さんと父を待つことに。

「いい上司を持ったね」

 母が微笑んで言った。

「うん」

 私は頷く。

 本当に、草刈さんには何から何まで頼りっぱなしだ。

「そんなら、ちゃっと夕飯作ろうかね」

 よいしょっ、と母が立ち上がる。

「ええ? 今から……?」

 全身クタクタで、今から何か作る気力なんてどこにも残っていない。

「あんた、職場の人を運転させといて自分だけゴロゴロするつもりかねっ!」

 ピシャリと言われて、ぐっと言葉に詰まる。

「何を作るの?」

「クリスマスといったらそりゃあ、グラタンだがね」

 またそんな時間がかかりそうなものを……と思いつつ、母と並んで台所に立つ。

 玉ねぎを千切り、鶏肉とブロッコリーを一口大に切って、フライパンで玉ねぎが飴色になるまで炒める。

 そこにマカロニを入れて、水と牛乳、生クリームとバターを入れて、お玉でゆっくりかきまぜながら煮込む。

「あ、ちょっと、煮立ってきたら火止めてよ」

「まだ固そうだけど、大丈夫なの?」

「こんでいいの。グラタンのマカロニはちょっと固いくらいのほうが焼いたときいい具合になるんだわ」

 母がコンロの火を止めて、グラタン皿におたまでホワイトソースを入れる。バターと生クリームのいい匂いが食欲をそそる。

「あとは二人が帰ってきて来てから温めようかね」

 四つ並んだグラタン皿を見て、はたと気づく。

「え……もしかして、草刈さんもうちで食べてくの?」

「そりゃそうだがね。こんなわやな日にお父さん送り届けてくれた人を夜中にほっぽり出す気かねあんたは」

「いや、そうじゃなくて」

 草刈さんが到着するのは夜中だ。クリスマスイブの夜じゃビジネスホテルも空いていないだろうし、つまり、うちに泊まるということ……。

 すでに寝間着姿を見られてしまっているとはいえ、それは風邪で身動きできなかったときのこと。実家に来るのとはわけが違う。母も似たようなことを考えていたようで。

「この際ちゃっと結婚したらいいがね」

 と、とんでもないことを言い出した。

「あのね、そんな片付けでもするみたいに……お母さん、草刈さんに変なこと言わないでね」

 ああ……まだまだ心配が続きそうだ。


 午前一時を回った頃、玄関を叩く音が聞こえた。

「お父さんっ!」

 ソファで舟を漕いでいた母がガバっと体を起こして、玄関に飛んでいく。

 私も閉じかけていた目が一瞬で覚めた。

「こんばんは。お父さん、無事に見つかってよかったです」

「草刈さん、本当にありがとうございました」

 私と母は一緒に頭を下げた。

 東京から名古屋までは高速でも五時間はかかる。雪でスピードも出せなかっただろう。きっとノンストップで来てくれたに違いない。

「悪いな。日付変わっちまって」

 草刈さんが頭を掻きながら苦笑する。

「いえ、こちらこそ。渋滞してませんでしたか」

「夜中だしそうでもないよ。スピードは出せなかったけどな」

「遥、いい旦那さんじゃねえか。俺は安心したよ」

 と泣きながら言う父。泣きたいのはこっちだ。

「お父さん、草刈さんは会社の上司なの。それなのにわざわざここまで送ってきてくれたんだからね」

「しっかりしてて、日曜大工が趣味らしいじゃねえか。いい父親になるよ」

「いい加減迷惑だからそのアピールやめて……」

「またそんな可愛げのない意地はって。さっきあんた、頼れるのはあなたしかいないんですって大声で叫んどったがね」

 母にまでにやにやと笑いながら言われて、恥ずかしさで顔を覆いたくなった。

「さあさ、寒いし二人とも入って。グラタンできてるから」

「すみません。じゃあ、お邪魔します」

 草刈さんはにこやかに言って玄関に入ろうとして、ふと足を止めた。

「俺は別に迷惑じゃないよ」

 ぽつりと聞こえた一言。

 えっ、と顔を上げる。

「そういうことだから、考えといて」

 そう言って、お邪魔します、と靴を脱いで中へ入っていく草刈さん。

 ――そういうことって……え?

 私は一人、ぽつんと玄関で立ち尽くした。

 雪の降るクリスマスの夜。

 もう今年も終わる頃になって、今年一番の驚きかもしれない。


 チーズをこんがり焼いた熱々のグラタンをふうふう言いながら食べる。どう考えても深夜一時過ぎに食べるものではない。しかも五十代が二人と七十代が二人。その上食後のケーキまで待っている。

 でも――クリスマスくらい、カロリーなんて気にしなくてもいいか。

 それに四人とも昼間から何も食べていないので、正直お腹は空っぽだった。

「ああ、寒い日のグラタンっていいな。エビがぷりぷりしてて、クリームがとろとろで、めちゃくちゃうまいですよこれ」

 草刈さんが本当においしそうに食べるのを見て、私も頷いて言った。

「本当。こんなおいしいグラタン、初めて食べたかも」

 疲れた体に、温かい料理が染みこんでいく。

「そりゃ作ったかいあったねえ」

 母が嬉しそうにニンマリと笑う。

「母さんの作るもんはいつもおいしいよ」

「もう、あんた恥ずかしいこと言わんとって」

 母がばしばしと父の背中を叩き、父がいてえ、と言いながら笑っている。

 ――ああ、いつも通りだ。

 深夜に食べるグラタン。隣には草刈さん。まったくいつも通りじゃないけれど、この食卓はいつもと同じように、笑顔であふれている。

「それにしても、よく私の家までたどり着けたね」

 ふと思い出して尋ねた。

「ああ、年賀状を持ってたからな」

「年賀状?」

 私が引っ越したのは夏だから、今年の年賀状に書いてあるのは前の住所のはずだけど。

「今朝、年賀状を書いてたんだ」

 これから出すはずだった年賀状の住所と昔からの土地勘を頼りに家を探したが、当然昔とは街の様子も変わっている。道に迷って人に尋ねたりしているうちに夜になっていたそうだ。まったく、人騒がせな。

「遥」

 と父が言った。

「父さんと母さんな、老人ホームに入ることにしたんだ」

 突然の発表に、私はお茶が喉に詰まってごほごほとむせた。

「え、なんでまた急に?」

 説明を母が引き継ぐ。

「ホームって言ってもマンションみたいなところでね。部屋にはお風呂もキッチンもついとるし、介護士さんと看護師さんもおって何かあったらすぐ救急車を呼んでもらえるで安心だでね」

 父も母なりに、今後のことを考えていたのだと知った。

「病院通いも今まであんたや梓に頼んどったけど、そこなら近くにいろいろあるから歩いてでも行けるんだわ。それで、お父さんとそこならって、話し合って決めたの」

 ね、お父さん。母は父を見て、にっこりと微笑んだ。

「ああ、もう手続きもしたし、梓も知っとる」

 ――あ、また。

 両親が決めて、梓も知っていたのに、私だけ何も知らなかった。

 しょっちゅう来れるわけじゃないから仕方がないのかもしれない。でもやっぱり、こういうときに実感する。

 私はこの人たちの近くにはいないのだと。

「だからその前に、どうしても遥に会いたくてな。ケーキ屋がやたらチカチカ光ってるから入ってみたら、クリスマスって言うじゃねえか。そういえばここのケーキ遥が好きだったなあ、って思い出してなあ」

「電話してくれればよかったのに……」

 そう言いながらも、わかっていた。父はいつも私の仕事のことを気にかけてくれていた。忙しいならわざわざ帰ってこなくていいと言われたのは一度や二度じゃない。その言葉に甘えて、いつの間にか本当に足が遠のいてしまっていた。

 ケーキは、ショートケーキにいちごとサンタクロースの人形が乗っているシンプルなクリスマスケーキだった。ちょっと形が崩れてしまっているけれど、この寒い中、父が一日がかりで届けてくれたケーキ。

 これは、父から私へのクリスマスプレゼントだ。この先、五十になろうと六十になろうと、親にとって子供は、いつまでも子供なのだと思った。

 フォークでケーキを小さく切り分けて、口に入れる。

「相変わらずここのケーキ、おいしい」

 柔らかいスポンジに、とろけるように甘い生クリーム、そして大きないちご。

 昔から変わらない味。大好きな味。自分の同級生が親の代から受け継いで、この味を守っていくのだと思うと、もっと嬉しくなった。


「あれ、今から帰るの? 泊まってけばいいのに。今から帰ったら着く頃には朝だがね」

 事故にでもあったら大変だと引き止めようとする母に、草刈さんは苦笑を返す。

「そうさせてもらいたいですが、午後から仕事なので帰って家で休むことにします」

「それは本当に申し訳ないです……」

 私は深々と頭を下げた。

「気をつけてなあ」

 と、騒動の張本人である父はのんきに手を振っている。

 外は相変わらずきんと冷えるような寒さだったけれど、雪は少し弱まっていた。

「本当に助かりました。気をつけてください」

 草刈さんを見ると、優しく微笑んでじっと見つめていた。

『俺は別に迷惑じゃないけど』

 思い出して、ドキリとする。

「今日はゆっくり休んで、明日来れそうだったら来ればいいからな」

「ゆっくりなんて、朝一で帰って私も午後から出勤します」

「いいって、せっかくの実家だ。一日ぐらいのんびりしてろ。その代わり休日出勤は覚悟しておくように」

「……はい」

 それで、と草刈さんは照れたように頭を掻きながら、あと、と小さく付け加えた。

「よかったら、また改めて飯でも誘うわ」

 ドキリ、と胸の音が鳴った。

 何かが始まりそうな予感を感じたのは、何年ぶりだろう。

 とっくの昔になくしたと思っていた、どこへ向かうかわからない不安とワクワクが入り混じったこの落ち着かない感じ。

 私は顔を上げて、

「はい」

 と笑って言った。


 翌朝。

 父は案の定、昨日の騒ぎなどけろりと忘れて、大好きな庭いじりに勤しんでいた。

 父が大事に育ててきた庭は、冬の今、花は咲いていないけれど、花になったら色とりどりの花たちで賑やかになるだろう。

 ――この家も、いつか古民家になるのだろうか。

 全然知らない人が住んでいたり、あるいは、跡形もなくなってしまうかもしれない。

 でも今は、私たちがいる。両親が住まなくなっても、庭の手入れはときどきしに来ようと思った。それから家の掃除も。いつでも家族が集まって、またみんなで一緒にご飯を食べられるように。

 梓が仕事前に父の様子を見に来たと顔を出す。

「うそ、お姉、結婚すんの!? えー言ってよ。会いたかったわー」

 またお母さんが余計なことを……。

 いい歳して本人たちより家族のほうが前のめりになるのはやめてほしい。

 また連れてきてよね、と念を押して、梓は慌ただしく車で去っていった。

 父と母と一緒に喫茶店に行き、久々に名古屋モーニングを堪能して近所のスーパーで買い物をしてから、昼前に新幹線に乗った。


 家の鍵を開けて、扉を開ける。

 たった一日空けていただけなのに、なんだか久しぶりに返ってきたようなよそよそしさを感じた。

 みりんがとことこと近寄ってくる。

「ただいま……って、なんかちょっと太ってない?」

 台所に行くと、空っぽの餌皿が二つ並んでいる。

 なるほど。福永さんにたらふくご飯をもらったらしい。

 ふくふくと丸くなってご満悦な様子のみりんに、私は思わずくすっと笑った。

 ――これでちょっとは福永さんにも懐いたかな。

 溜まった洗濯をして、掃除機をかけて、離れでコーヒーを飲んだ。

 母屋から離れたこの部屋は、冬はかなり寒い。

 ーー決めた。年末の休みに入ったらストーブを買いに行こう。

 寒いけれど、窓からは日が差していて、ステンドグラスを通した光が部屋を淡く照らす。

 そのとき、ふいに、隣の椅子に座っている幸子さんの姿が、ふっと目の前に浮かんだ気がした。会ったこともない私の想像の中の彼女は、椅子に座って、絵はがきに色鉛筆をシャッシャッと走らせている。幸せそうに微笑みを浮かべながら。

 単なる私の想像かもしれない。でも、あったかもしれない光景。

 やっぱり私は、この家が好きだと思った。この家が、ここで過ごす時間が、とても好きだった。

 ぐう、とお腹が鳴った。気づけばもうお昼を過ぎていた。

 台所に行き、冷蔵庫を開けて、あっと思い出した。

 ――そういえば、タラの酒蒸しを残しておいたんだった。

 冷凍ご飯とタラを解凍し、フライパンにごま油を加えて、タラとねぎをサッと炒める。ごま油の香りがしてきたら火を止めて、ご飯が炊けたら大きめのボウルに入れて、炒めた具を混ぜたら、タラの混ぜご飯の完成だ。

「そこに卵を落として、ねぎを散らして完成っと」

 二人分のレシピは、一人暮らしには不向きかもしれないけれど、こうしてとっておいて、また別の日に違う料理になることもある。似ているようで、食べてみると全然違って驚くことも。

「いただきます」

 手を合わせて、口に運ぶ。

 おいしい、と自然に笑みがこぼれた。


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古民家のレシピ帖 松原凛 @tomopopn

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