6.しょうが粥
「あー、仕事終わりのビール最高っ!」
凪ちゃんがビールを一気に飲み干して、気持ちよさそうにぷはっと息を吐いた。
「ここ最近、アカマツ建築の件で残業続きだったからなあ。みんな、お疲れ様」
草刈さんがほっとひと息つくように言った。
前々からクレームが多かった建設会社だったが、突然連絡が取れなくなり、しびれを切らして出向いてみると会社はもぬけの殻。建設予定の家はまだしも、建設中のところもいくつかあって、引き継ぎの対応に追われているうちに気づけば十一月も終わりがけになっていた。
「ほんと、いきなり従業員の誰とも連絡取れなくなっちゃうんだもんなあ。たしかにクレームも多かったけど、親方さんとはたまに飲みに行ったりしてたし、よくしてもらってたのにショックですよ……」
営業の波多野くんが枝豆をつまみながらぼやく。
波多野くんは三十代の営業さんだ。日中はほとんど外回りで、三人の子持ちなので、こういう会に参加するのは珍しい。
「ま、ひとまずかたはついたし、今日はパーッと飲もうや」
「ですね」
「お、この土手煮うまいな」
煮込み料理が売りなだけあって、牛すじの土手煮や、白味噌をベースにした豚モツ煮込み、どれも身がぷりぷりしていて弾力があり、よく味が染み込んでいて絶品だった。
なんかあったかいものが食べたいと言う草刈さんに、すかさず「それならここがいいですよ」と提案してくれた波多野くん。さすがやり手営業マンだ。
「あたし、子供がほしいんですよ」
酔いが回ってきた凪ちゃんが唐突に言った。
「ああ、子供はいいよ。仕事で疲れてても、帰って子供の顔見ると疲れ吹き飛ぶもん」
波多野くんが穏やかな顔で言う。
「ですよねえ、いいなあ。なんか、守るべき存在ができてはじめて一人前になれる気がするんですよ。でも旦那はまだ二十代だしいいんじゃないとか言っててのんきで。言っても二十八ってそんな若くないですしね。アラサーですよアラサー。もっと焦れって言いたいんですよこっちは」
だあん、とジョッキをテーブルに叩きつける凪ちゃん。
「な、凪ちゃん、ちょっと落ち着いて」
「落ち着けません!」
なだめるも、完全に酔いが回っていて止まる気配はない。
「ちょっとトイレ」
草刈さんがおもむろに立ち上がってそそくさと姿を消した。
――逃げたな……。
と、凪ちゃんがキラリと目を光らせた。嫌な予感しかしない。
「ねー鳥井さん。最近草刈さんといい感じじゃないですか?」
うん、やっぱり来ると思った。
「え、そうなんですか」
波多野くんが興味津々に顔を向ける。
「なんとなく距離が近いっていうか、何かありましたよね?」
「何もないよ」
私は苦笑して言った。
一度家に来てご飯を食べただけで、それ以上のことは何もない。
もう少し早く出会っていたら、違っていたかもしれない。そう思うことはあるけれど。
「そうかなあ……」
そうつぶやいて、ガクッと机に突っ伏したかと思うと、次の瞬間にはすうすうと眠っていた。
普段言えないことも、お酒が入ると言えてしまう。
同年代の独身の男女が近くにいて、特別仲が悪いわけでもなければ、自然と『いい感じ』に見えるのはわかる。
でも、これから恋愛をしようなんていう気には、もうなれないのだ。
経験を積めば恋愛は簡単になるかというとそうではなく、若い頃よりもずっとハードルが上がったように感じる。
それは、一人でも充分やっていけることを知っているから。
一人でいる気楽さに慣れてしまったから。
今さら一人から二人になることは、けっこう難しい。
「鳥井さん。恋愛に年齢なんて関係ないと思いますよ」
と何かを悟ったように言う波多野くん。もう放っといてほしい。
「よく喋ってたな」
草刈さんが戻ってきて向かいの席に座った。
「いろいろ溜まってたんでしょうね」
気持ちよさそうに寝息を立てる凪ちゃんを見て、波多野くんが苦笑する。
「でも、さっきの言葉は正直ちょっと刺さったなあ」
――守るべき存在ができてはじめて一人前になれる。
私には、そういう存在はいない。そしてこれからできることも、もうないのだ。
「若者も若者なりに焦ってるんだろうな。いろいろと」
草刈さんは残っていたビールを飲み干した。
「まあでも、五十年以上も生きてるとそんな焦りもなくなるんだよな」
「わかります。余裕ができたというか、開き直ったというか」
私は深く頷いた。若い頃は結婚や出産に対する焦りもあった。しかしだんだんとその焦りも徐々になくなっていった。一人でも問題なく生活できるし、今さら誰かと関係を築いて一緒に暮らすことを考えると、一人のほうがずっと楽だと思ってしまう。
「なんか、カッコいいですね」
波多野くんが親指を立てて言った。なんだか労われているような気もするが。
家族がいて、守るべき存在がいる。
一人で生きていくと決めたのに、当たり前のように一人じゃない人生を歩んでいる人を羨ましく思うのは、ないものねだりなのだろうか。
「38.5度……」
朝、布団の中でつぶやいた。
昨日の夜から頭痛がしていて薬は飲んだのだが、やっぱり風邪だったか。
もうすぐ十二月。ここ数日、気温がぐっと低くなったのは感じていた。年々免疫力が下がっている気がするうえに、この家、めちゃくちゃ寒いのだ。夏は風通しがよく朝晩は心地よかったが、その分冬は冷蔵庫みたいにキンキンに冷える。一応居間にエアコンはあるものの、仕事から帰ってきてしばらくの間は凍えながら過ごしていた。
頭が割れるように痛い。喉も体の節々も、痛いところだらけだ。
会社に電話をかけると、まだ誰も来ていないのか、草刈さんが出た。
「すみません……今日中に送らなきゃいけない見積もりもあるのに」
喉が痛いので、小声でそう言うと、
『何言ってるんだ。そんなもんほかのやつらに任せて寝てろ』
と叱られた。
『体調悪いときはしっかり休んで、いいときは適度に休むんだよ』
「それ、どっちも休んでるじゃないですか」
電話を切って、また横になる。病院に行くべきか。でも体が動かないんじゃ仕方がない。
寝て、ときどき起きて水分補給をして、また寝て、と繰り返していたら、夕方になっていた。熱は下がるどころか、余計に上がっている。
カーテンがないから、窓から直接入ってくる西日が眩しい。
携帯を見ると、メッセージが一件。
凪ちゃんからだ。
『鳥井さん! 大丈夫ですか!? ゆっくり休んでくださいね。お見舞いに笑える動画送ります』
お大事に、とかわいらしいスタンプとともに、よく知らないマイナーな芸人の動画が送られてきていた。
凪ちゃんはまだ世に知られていないマイナーな芸人を推すことに精を出している。相変わらず頭が痛いけれど、せっかく送ってくれたのだから推し活に貢献しようと、動画を開いた。
「ぷっ、何これ」
爆笑とまではいかないけれど、意外にもしっかりストーリーがあっておもしろい。
『ありがとう、おもしろかった』
返信してふたたび横になろうとしたとき、もう一件、メッセージが届いた。
『大丈夫か?』
と一言。
いつもなら余計な心配をかけないよう、大丈夫ですと応えるはずなのに。
『大丈夫じゃないです』
頭がうまく働かなくて、つい、そう返してしまった。
すぐに電話がかかってきた。
『今すぐ行くから待ってろ』
「えっ」
急ぐように、返事も待たずに電話が切れた。
――え? 今から?
部屋着で頭ボサボサのこの状態で……?
草刈さんはたぶん、そんなことは気にしないだろう。
私が大丈夫じゃないと言ったから、心配して来てくれるだけだ。
『大丈夫じゃないです』
どうしてそんなことを言ったのだろう。
ふらふらで、頭も体も痛くて、動けなくて、近くに頼れる人もいなくて、不安になった。ただの風邪とわかっていても、一人でいると、これ以上悪化したら、このまま二度と起き上がれなくなったらと、悪い想像ばかりしてしまう。
――大丈夫か?
そのシンプルな言葉に、つい、頼りたくなってしまった。
いや、だからってこの状態で上司に会うのはやっぱりまずいような……。
着替えようにも、体中が痛くて、起き上がるのがやっとだ。
そうこうしているうちに、扉を叩く音が聞こえた。ちなみにこの家には、ドアチャイムやインターホンという近代的なものはない。
のろのろと立ち上がり、玄関の扉を開けた。
「おう、大丈夫――じゃなさそうだな」
草刈さんが私を見下ろして、哀れみの目で言った。
「すみません。こんな格好で……」
「格好なんていいよ、どうでも。風邪に効きそうなもん買ってきたから。上がるぞ」
と言って、靴を脱いでずかずかと上がっていく草刈さん。
「いえ、風邪が移ると悪いので」
「大丈夫だ。俺はめったに風邪引かないから」
そう言って、コンビニの袋をテーブルに置く。
布団が敷きっぱなしになっているのを思い出して、慌てて居間の襖を閉めた。
台所に戻ると、草刈さんがコンビニの袋を探っている。
「これ買ってきたぞ」
「あ、それって……」
猫ちゅ〜ぶだ。草刈さんが袋を開けてペースト状の餌を皿に出すと、吸い寄せられるようにみりんがトコトコと近寄ってきた。
「お、腹減ってるか」
嬉しそうにみりんの頭を撫でる草刈さん。
すごい。もう手なづけている。
「で、お前は飯は食ったのか」
「いえ……食欲なくて」
「何か食べないと薬も飲めないだろう。お粥なら食べれそうか」
「お粥なら……って、え? 草刈さんが作るんですか?」
「台所借りてもよければ。材料は一応、買ってきた」
「じゃあ……お願いします」
「了解」
草刈さんはにっと笑って言うと、さっそく手を洗い始めた。
なんだか申し訳ない。そう思いつつ、草刈さんがうちの台所に立っているのが新鮮で、椅子に座ってぼうっと後ろ姿を眺める。
そのうちにうとうとしてきて、いつの間にか腕に顔を伏せてねむっていた。
できたぞ、と、草刈さんの声で目を覚ました。
目の前に、白い湯気の立つお粥が二つ置かれている。
「このお粥って……」
「ああ、このレシピ勝手に見せてもらった」
たまご粥に刻みねぎ、上にちょこんと乗ったおろししょうが。レシピ帖のイラストがそのまま出てきたみたいだ。
「この前ちらっと見たとき、お粥をわざわざレシピに書くなんて珍しいなと思って覚えてたんだ」
たしかに、そうだ。お粥を作るとき、わざわざレシピを見て作ったことはなかった。
「たぶん、家族のためなんだろうな。誰かが病気のとき、この味だって思い出せるように」
「ああ、だから『ザ・お粥』なんだ」
イラストの下に、そう書いてあったのを思い出す。
お粥の味はその家によって様々で、一つの味が定番だったりする。私の実家では、お粥は塩だけの味つけで、上に細かく刻んだ焼き鮭が乗っていた。鮭は父の大好物だからだ。この卵・ねぎ・しょうがのお粥が、福永家の定番なのだろう。
あつあつのお粥をスプーンですくって、ふうふう冷ましながら口に運ぶ。
「おいしい……」
「そうか。よかった」
草刈さんは食べながら目を細めて微笑む。
とろとろの卵とご飯が空っぽの胃に吸い込まれるようにするすると入っていく。風邪で味がよくわからないのに、しょうがの体の中から温まるようなピリリとした辛さはわかった。
「あんまり無理はするなよ」
「え?」
私は驚いて草刈さんを見る。
「俺は昔、仕事を優先するあまり大切なものを失ったことがある。忙しさを理由に、いちばん大事なことを忘れていたんだ。そういう思いをしてほしくない」
大切なもの――それは、家族のことだろうか。
家族と離れ離れになってしまったことを、今でも悔やんでいるのかもしれない。
「すまん、つまらないことを語って。歳だな」
と草刈さんが苦笑する。
「いえ……」
それ以上、踏み込んでいいのかわからなかった。
私にとって、草刈さんは、どういう存在なのだろう。
ただの上司。私にとってそれ以上の存在になっていることは、とっくに気づいていた。
困ったときに頼れる人。
弱っているとき、頼りたいと思った人。
でもだからといって、この歳で新しく関係を築くには、勢いや感情だけでは飛び越えられない壁があるのだ。
温かいスープを飲んだからか、全身が火照ってきた。なんだか、また熱が上がってきたような気もする。
ぐらり、と体が揺れて、椅子から落ちそうになった。
「おい」
草刈さんの手がとっさに私の腰を支えた。
顔が近づいて、ドキリとする。
あと少しで触れそうな距離ーー
「大丈夫か」
「……すみません」
慌てて言った。
頭も視界もぼうっとして、わけも分からず涙がこみ上げそうになった。
草刈さんが帰ってから、お腹を空かせたみりんがようやく姿を現した。皿にかぶりつく勢いでキャットフードを食べる。
まだ、体が溶けそうに火照っている。熱のせいだけではないのはわかっていた。
――でも、この歳で恋愛なんて。
もう誰かを好きになることはないと思っていた。
好きになったとして、受け入れられなかったら、虚しいだけだから。
コンビニの袋に牛乳プリンが入っていた。
子供の頃、風邪をひいたときに母がよく買ってきてくれた昔ながらのパッケージの白いプリン。そんなこと草刈さんが知っているはずがないけれど、懐かしくて、少し笑ってしまった。
ふたを開けて、プラスチックのスプーンですくう。
「おいしい」
冷たくてほんのりと優しい牛乳の甘みが、火照った体にゆっくりと溶けていった。
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