5.ふろふき大根

 言うべきか迷ったけれど、一応伝えておくべきだろうと福永さんに電話で雨漏りのことを報告した。

『そう、古い家だからねえ』

 と福永さんは困ったように言った。

「天井のほうはなんとか修復できたので今のところは大丈夫そうなんですけど」

 それもあくまで応急処置だから、いつまで持つかはわからない。しっかりと補強するためには、やはり出費は免れないだろう。

「修理はこちらで頼みますので、報告をと思いまして」

『まだ住み始めたばかりなのに、ご迷惑かけて申し訳ないわね』

 福永さんはこちらが申し訳なくなるほど何度も謝ってくれた。

 何かが壊れるたびに直して、また壊れたら直して、その繰り返し。

 住宅会社で働いているので知っているつもりだったが、いざ住んでみて初めて、古い家に住む大変さを思い知った。


 ショールームには、いろんな悩みを抱えた人が相談にやってくる。離婚問題、嫁姑問題、そして隣人トラブル。

「隣人がずっと監視してくるんです。もう、朝から晩までずっと」

 三十代の女性がやつれた顔で訴える。

「それは気になりますよね」

「気になるなんてもんじゃないですよっ!」

 バンッ、と彼女は机を叩いて、私はビクッと肩を震わせた。

「朝何時に家を出て何時に帰ってきたのかストーカーみたいに把握してるし、今日はお客さんが来てたとか、マンション前の公園で子供と遊んでて楽しそうだったとか。こっちはただ普通に暮らしてるだけなのに、勝手に異常なくらい執着してきて。顔も合わせたくないのに、ゴミ捨てとか町内会とかでどうしても会うじゃないですか。もうノイローゼになりそう」

 早口でまくし立てると、わっと泣き出した。相当参っているらしい。

「それで、今のお宅を売りに出して新しく家を建てたいということですね」

「はい。もう無理。一日でも早く離れたい。不動産屋さんが何件かアテがあると言っていたので、売れたらすぐに頼みたいんです」

 彼女はぐすぐすとハンカチを目に当てて言った。

 家族で幸せに暮らしていた大切な場所を、厄介な隣人を理由に手放す。一人暮らしの私でも、それがどれほど辛いことなのかはわかる。

 私もここに引っ越す前、マンションを購入しようと考えたことはあった。安いところを探せば、今ならまだローンを組めるし、頭金も少しは出せる。

 でも、家を買って、もし隣人が変な人だったら。何か予想もできないようなトラブルが降ってきたら。

 こういう話を聞くたび不安ばかりがよぎって、どうしても踏みとどまってしまうのだ。


 その数日後。

 珍しく、福永さんから電話があった。何か言い忘れていたことでもあったのかと軽く考えていると。

『あのね、家の土地を売りに出そうと思うの』

「え……?」

『じつは少し前に不動産屋からお話があってね。この前のこともあるし、ちょっと考えちゃったのよ。ほら、またどこか壊れたりしたら大変でしょう。鳥井さんにもご迷惑がかかるしねえ』

「そんな、迷惑なんて」

『あっ、今すぐってわけじゃないのよ。来年の春頃くらいにね。いただいたお金はお返しするので、本当に申し訳ないんだけど……』

 口調は優しいが、要するに、さっさと新しい物件を見つけて出ていけとことなのだろう。

 安い物件なら、探せばいくらでもある。

 どこもかしこも古いし、雨漏りするし、住みやすい家ではないのかもしれない。

 でも、すぐに、はいわかりました、なんて物わかりのいいことは言えなかった。

 土地を売ったら、この家はどうなるのだろう。もしかして、なくなってしまうのだろうか。

「みりんはどうなるんでしょうか」

 そう言うと、電話口がしん、と静かになった。

「そうねえ……うちはマンションだから飼えないし、もうそれなりの歳だから飼ってくれるところも簡単には見つからないでしょうし……」

 福永さんはしどろもどろに言う。

 それは――見捨てる、ということだろうか。

 福永さんは猫が好きなわけじゃない。ただ、母親が世話をしていた猫だから、心配でたまに様子を見に来ていただけだった。

 休日の朝、コーヒーカップを持って、離れの扉を開ける。最近は昼でも肌寒くなってきて、ちょっとひと息つきたいときはここで過ごすことが増えてきた。

 昔ながらの日本風の家の中で、この離れだけはほかの部屋と雰囲気が違っていた。天井からぶら下がる丸みを帯びたすずらんのような電球に、横に広いアンティーク調の本棚。ステンドグラスの窓に、窓際に備えつけられた長テーブル、猫足の椅子が二脚並んでいる。どの家具も目を見張るほど細かな装飾が施されていて、住んでいた人のこだわりが感じられた。

 この部屋は、早朝、朝日が射し込む時間に眩しいほど美しく輝く。

 でも、今日はあいにく空が曇り覆われていて、ステンドグラスも光をなくして陰りを帯びていた。

 ――この部屋で、誰が、どんなふうに過ごしていたのだろう。

 温かいコーヒーを飲みながら、そんなことを考える。

 福永さんや、幸子さんや、旦那さんや、そしてきっと、彼らの親の代から大切に守られてきた家。

 やっぱり、この家がなくなってしまうのは、嫌だった。

 住み始めた頃より、私はずっとこの家が好きになっていたから。


「えっ、鳥井さん、この前引っ越したばっかりですよね? 春なんてすぐじゃないですか」

 凪ちゃんが目を見開いて言う。

「でも、もう売りに出す話も来てるみたいなの。それなのにいつまでも居座ってるのも申し訳ない気がして」

 はあ、と私はため息をこぼした。

 三ヶ月前、私は百万円であの家を買った。そのお金は丸ごと返ってくる。引っ越す前に戻るのだ。私が出ていくのが、いちばん穏便に事が済むのはわかっていた。

「でも、鳥井さんはその家に住みたいんですよね?」

 そうなの、と私は頷く。

 あの家にいたいと思っているのは、私だけじゃない。何日か家を空けても必ず戻ってくるみりんだって、いたいはずだ。

「じゃあやっぱり、ねばりましょうよ。泣き落とし作戦で同情を買うとか。あっ、高級お菓子で口説くとかもありですね」

 凪ちゃんはお客さんの悩みを聞くときと同じように、親身になってくれる。ちょっと方向性がズレている気もするけれど。

「手料理を振る舞う」

 いつの間にか話に参加していた草刈さんが言った。

「手料理って、大屋さんに? えーでも、そもそも大屋さんと食事って、あんまりしなくないですか」

「だからこそだよ。旦那さんと二人暮らしなら人に料理を作ってもらう機会もそうないだろうし、滅多にないことをされると、ぐっと来るもんなんだよ」

 まるで、経験談のような説得力がある。

『人に料理を作ってもらうなんてそうないだろうし』

 この間の雨の日のことを思い出して、思わずドキリとした。

 いやいや、どうせ深い意味なんてないに違いない。そう思い直して、そうですね、とだけ言った。


 大雨の後はからりとした秋晴れが続き、新幹線から遠くの山が紅葉しているのが見えた。

 ――あ、富士山。

 東京から名古屋までは何度も行き来しているが、晴れた日に富士山がよく見えるとやっぱり嬉しくなる。

 今日は朝から父の付き添いで病院に行き、昼からは買い物に行くことになっている。あちこち出かけるので、気持ちのいい陽気になってくれたのはありがたかった。

 今までは半年に一度帰るか帰らないかだったのに、これから毎月、この距離を往復することになる。

 新幹線代を考えると頭が痛くなったが、梓ばかりに任せきりというわけにもいかない。

 静岡を超えた辺りからうとうとし始め、名古屋、とアナウンスが聞こえて目を覚まし、慌てて荷物を膝に乗せた。


 駅までは梓が迎えに来てくれた。車が鎖のように連なって並ぶロータリーに、真っ赤な軽自動車を見つけて手を振る。

「ありがとう。土日は忙しいでしょ。バスで帰ったのに」

「いいって。病院早めに行かないと混むからさ」

 混雑している駅前通りを抜けてからは、とくに渋滞もなく実家に着いた。

 チャイムを押そうとしたとき、横開きの扉がガラリと向こう側から開いた。

「あっ、やっと来たわ。待ちくたびれたがね」

「これでもけっこう急いだんだけど」

 私は苦笑して言った。

 母の今どき珍しいほどコテコテの名古屋弁を聞くと、地元に帰ってきたという実感が湧く。

「これ、東京駅で買ってきた漬物」

 渡した袋の中身を見て、母が目を輝かせる。白菜とかぶ、柚子大根、茄子漬にキャベツの浅漬け。漬物は母の大好物で、昔から家でもよくぬか漬けを作っていたけれど、最近は混ぜるのが疲れるからあまりやらなくなったと正月に帰ったときに言っていたのだ。

「あら、こんなにたくさん。ありがとね。冷蔵庫入れとくわ」

 母はそう言って、袋を片手に台所へ向かった。

 正月に会ったときより腰が曲がっていて、後ろ姿がずいぶん小さくなったように見えた。

 冷蔵庫の中には、調味料や豆腐、ジャムやバター、そして作り置きのおかずを入れたタッパーがずらりと並んでいる。こんなにたくさん詰め込んであってもごちゃっとして見えないのは、相変わらず整頓上手な母のなせる技だ。

 父の姿が見えないと思ったら、家の横でせっせと草むしりをしていた。でも、どう見てもむしるほどの草は生えておらず、土が飛び散っているだけだった。

『一日に何度も草むしりしたり、突然ホームセンターから大量の土が届いたり……』

 東京に来たとき、梓がぼやいていたのを思い出す。

 大丈夫だろうかと心配になりつつ、声をかける。

「お父さんただいま」

「おう遥、おかえり」

 父が土まみれの顔を上げて言った。

 一見、いつも通りに見えるけれど……やっぱり、父は認知症なのだ、と思った。


「お変わりはないみたいなので、また一カ月分のお薬を出しておきますね」

 問診を終えて、丸メガネをかけた医者が言った。

 お願いします、と私は頷く。

「失礼ですが、娘さんでしょうか」

「はい。そうです」

「そうですか。お父さんはアルツハイマー型認知症なので、進行は比較的ゆっくりですが、進行速度は人それぞれです。突然思いもよらないことをすることがあるので、なるべく気をつけて見守ってあげてください」

 進行を遅らせるためには、とにかく考える時間を増やすことがいいそうだ。本を読んだり、パズルをしたり。家族との会話も大切なことらしい。

 もっと頻繁に帰って来ればよかった――でも、今さら後悔しても時間は巻き戻せない。

「お父さん、本屋寄ってこうか」

「おお、行こう行こう。ちょうど新しい園芸雑誌を買いたかったんだ」

 これから、たくさん話をすればいいのだ。

 私にできるやり方で、少しずつ。


 トトトトト、とまな板の上で母がねぎを粗めのみじん切りにする。

「あ、遥、ちょっと砂肝の下処理しといてくれん?」

「下処理? どうやるんだっけ」

 前に母に教わったのをぼんやり覚えていたが、詳細はすっかり抜け落ちていた。

 母がこれ見よがしに呆れ顔を見せる。

「あんた、五十にもなってそんなもんもできんのかね。まあいいわ、よう見といて」

 母は砂肝を一つ手に取ると、こりこりと指で回して広げ始めた。真ん中に包丁を入れて半分に切って、表面の薄い皮と肉の間に竹串を差し込み、手前に引くようにしてはがす。

「先に銀皮を取っとくと食べやすくなるんだわ」

 裏面も同じように皮を取って、縦に切り込みを入れる。

「でも、一個一個こんなことやってると手間かかりすぎない?」

 思わずぼやくと、何言っとるの、とピシャリと叱られた。

「砂肝も牛すじもエビも野菜も、みんな面倒な下処理をするからおいしくなるんだがね」

 母は砂肝の皮を器用にぺりぺりとはがしていく。

「たしかに面倒だけど、手間をかけた分だけ料理には力がこもるんだよ」

「力?」

 よく意味がわからずに首を傾げると、ふふん、と母は得意げに笑った。

 砂肝を3mm幅に切って、5分程中火で茹でる。水を切った砂肝をボウルに入れて、塩麹、レモン汁、すりおろしたニンニクと混ぜ合わせる。フライパンにごま油をひいて、斜めに切った長ねぎを炒める。

「先にねぎに火を通すと香ばしくなるからね」

 長ねぎがフライパンの上でジャッと音を立て、ふわりと香ばしい匂いが広がった。そこへ塩麹をもみ込んだ砂肝を入れて、胡椒をふって3分ほど炒めたら、砂肝と長ねぎの塩炒めの出来上がりだ。

 付け合わせの揚げだし豆腐と味噌汁も用意して、皿に盛り付ける。

「おいしい!」

 こりこりしていて、でもその中にちゃんと柔らさもある。下処理をしていなかったらきっと、もっと筋張って噛みにくくなるのだろう。隠し味程度にほんの少し入れたレモン汁とニンニクも効いている。

「揚げだし豆腐も外はカリカリ、中はふわふわでおいしいね」

 それからさつまいもとほうれん草の入った味噌汁も。よく火が通った鮮やかな黄色のさつまいもが味噌汁に入っていると、なんだか懐かしいような、幸せな気分になる。

「ふふっ、子供みたいな顔して」

 母がおかしそうに笑った。

「この漬物もいけるな」

 父も日本酒で晩酌をしながら、私が買ってきた漬物をおいしそうにつまんでいる。

「お父さん、どうぞ」

 おちょこにお酒を注ぐと、父が「おお、ありがとな」と照れくさそうに言った。

 麹に豆腐に漬物に、毎日健康的なご飯を食べていても、病気は避けられないのだ。そう思うと、なんだかいたたまれないような気がした。

「ねえお母さん、さっき、手間をかけた分だけ料理に力がこもるって言ってたよね」

 テーブルに並んだ料理を眺めながら、言った。

「心を込めて作れば、人の心を動かすこともできるのかな」

 昔、私は恋人の心を繋ぎ止めるために、毎日一生懸命料理を作った。彼の好きなものや二人の思い出の料理、たくさん作った。でもだめだった。とっくに離れてしまった心を繋ぎ止めることはできなかった。

 でも、福永さんは違う。まだ、離れてはいないはずだ。あの家のことも――

 話をじっと聞いていた母が、口を開いた。

「料理にはたしかに力がある。そう思っとるよ。でもね、それで人の心をどうこうなんていうのはおこがましいんじゃないかねえ」

「いや。俺はできると思う」

 父が日本酒をくいっと飲み干して言った。

「お父さん?」

「あれはまだ母ちゃんと結婚する前……」

 父は遠い目をして語りだした。

 父の家は東京で医薬品商社を経営していて、その頃父は、名古屋にある子会社で働いていたという。仕事の昼休憩にたまたま入った小さな食堂で働いていた母に一目ぼれし、毎日通いつめて二人の交際が始まったが、貧しかった母との結婚に父の両親が猛反対し、なかなか結婚を認めてもらえなかった。

 そんなとき、母が父の両親を店に招待した。ぜひうちの料理を食べに来てください。きっと気に入ってもらえると思います、と言って。

 父の両親は安い食堂の料理なんかと見下していたが、こき下ろして諦めさせようと名古屋まで出向いていった。

 母が出したのは、しょうが焼きだった。いつも通りの、メニューにある定食だ。父の両親は、馬鹿にして笑いながらそれを食べて、目を見張った。こんな安っぽいどこにでもある料理が、こんなにおいしいとは。

「え、それでオッケーしたの?」

 私は愕然として言った。

 父はうむ、と頷く。

「親子そろって母ちゃんに胃袋掴まれちまったわけだな」

 そんな単純な……。

 でもその単純さのおかげで父と母は無事に結婚し、私がいるのだから感謝するべきなのかもしれない。

 その後、父の両親が経営していた会社は倒産し、父は愛知県の自動車メーカーに就職して普通のサラリーマンになり、母はずっと同じ食堂で、父が定年退職するまで働いていたそうだ。

 父と母の馴れ初めなんて初めて聞いた。

「誰かと一緒にご飯を食べるって、当たり前のようで、特別なことだからね」

 母が懐かしそうに微笑む。

「それにしても、よう覚えとるねえそんなこと。まったく、昔のことばっか覚えとるんだから」

 照れ隠しなのか、母がばしばしと父の肩を叩く。

 父は、いてえよ、と言いながらも、赤ら顔で嬉しそうだった。


「気いつけて帰りなねえ」

 玄関先まで父と母が送ってくれる。

 父は着古したTシャツにズボンに長靴という庭仕事スタイルで、母は前掛けのエプロン。元気そうな姿に安心する。

「うん、ありがと。また来月来るから」

「ああ、そうだわ」

 母が手をぽんと叩いて、台所に何かを取りに行った。

「はい、これ持って帰り」

 中くらいの大きさのタッパーだった。受け取ると、ずしりとした重みがある。

「白味噌の漬け床。米麹が入って甘いで西京焼きとかによう合うわ。野菜の味噌和えとか、おにぎりに塗って焼きおにぎりにしてもいいしね」

「へえ、おいしそう」

「あ、そうそう。西京焼きにするなら一日か二日漬けとくと柔らかくなるでね。それ以上漬けると身が固くなるで気をつけるように」

「わかった、作ってみる」

 いつもながら帰りがけになって思い出したようにあれこれ言う母に、私は笑いながら手を振った。


 今日のレシピはふろふき大根だ。

『柚子でさっぱりと』と書いてあるからには柚子はなくてはならないと、スーパーで大根と柚子を買ってきた。

 大根は3cm幅の輪切りにして、少し厚めに皮をむいて、煮崩れしないように角をとって、片面に十字の切り込みを1/3程の深さまで入れる。

 切り込みを入れた面を下にして鍋に入れて、大根が被るくらいたっぷり米のとぎ汁を入れる。強火で熱して、煮立ったらふたをして中火で30〜40分程ゆでる。竹串がすっと通るくらいの柔らかさになったら火からおろす。

 鍋をさっと洗ったら、大根とだし汁500cc、酒大さじ3、塩小さじ1/4を加える。ふたをし、大根がやわらかくなるまで弱めの中火で20〜30分煮る。

 次は鮭の西京焼きだ。冷蔵庫から味噌床に漬けておいた鮭を取り出して、味噌床をスプーンで取り除いたらフライパンにサラダ油大さじ2を入れて、少し熱する。弱火で十分ほど焼く。

「よしよし。大根も柔らかくなってきた」

 程なくして、玄関の扉を叩く音がした。

「こんにちは、福永さん。わざわざ来てもらってありがとうございます」

 私はにっこり、笑顔で言った。

「いえいえ。でも改まって話って?」

「それはまず上がってから」

 居間から様子を伺っていたみりんが、福永さんの姿を見つけるなりサッと逃げた。

「やっぱりあまり好かれてないみたいねえ。私、何かしたかしら」

 福永さんは頬に手を当てて言う。

「それは、この家が好きだから、じゃないでしょうか」

「家?」

「この家が好きだから、きっとここに住んでいる私のことも受け入れくれたんじゃないかなって」

「それなら私は、部外者だと思われてるのね」

 福永さんが苦笑して言った。

 そうじゃないのに。でも、どう言えば伝わるのだろう。

 台所のほうから、ふわりと味噌のいい匂いが漂ってくる。

「福永さん。お腹空いてませんか?」

「え? ええ、空いてるといえば空いてるわねえ。主人は出かけてるし、帰って軽く済ませようかと思ってたんだけど」

 私は福永さんを見て、にっこりと笑って言った。

「もしよかったら、一緒にどうですか?」


「あら。この西京焼き、味が染みてて身も柔らかくておいしい」

 福永さんが鮭を一口食べて目を丸くした。

「よかった。昨日、母に味噌床をもらったので作ってみたんです」

「ふろふき大根はお味噌じゃなくて、かつおだしなのね」

「はい。西京焼きが味噌なので、こっちはあっさりめにしてみました」

 じつを言うと西京焼きじゃなく、ふろふき大根のほうに合わせたのだ。

 私もふろふき大根といえば、味噌を乗せて食べるイメージだった。でもこのレシピでは、おでんのようにかつおだしで味つけしていた。

 丸い大根に箸を割り入れて、さくっと半分に切って熱々のうちに、ふうふうと息を吹きかける。

「甘い……大根ってこんなに甘かったのね」

 そうつぶやいた福永さんの瞳から、一筋、涙がこぼれた。

「母が子供の頃によく作ってくれたのよ、ふろふき大根。母は大根が大好きでね、本当にしょっちゅう食卓に並ぶの。でもね、私、大根の苦みがどうしても苦手で、いつも嫌々食べてたのよ。そうしたら、ある日ね……」

 涙が落ちて、福永さんの手の甲を濡らす。

「突然、母が作らなくなったの。母はそういうのに敏感な人だったから、私が嫌々食べてるのわかってたのね。今ならわかるけれど、当時は私も子供で、言い出せなかったのよね。それで、大人になって結婚して、私は料理があまり上手くなくてね。いつも手軽にできるものばかり作ってたの。子供には好き嫌いはだめって口すっぱく言ってきたのに、だめな母親よね」

 私は母親ではないけれど、なんだか、わかるような気がした。

 昔の人は料理に手間をかけるのが上手だ。それに限られた食材で料理を作るのも。電子レンジも炊飯器もない時代に、丁寧にあく抜きをして、丁寧に煮込んで。でも今は、時間をかける必要もないほど、便利な家電やサービスであふれている。

 でも、時間をかけることで初めて出る味もあるのだと、この歳になって、私は母に教わった。

「このふろふき大根、あのレシピ帖に書いてあった通りに作ったんです」

「そう」

「私の勝手な想像ですけど、お母さん、福永さんがいつか好きになってくれるって、わかってたんじゃないでしょうか」

「そうかしら……」

 福永さんはふろふき大根を口に入れて、ゆっくり、噛みしめるように食べた。

 そして、困ったように笑みを浮かべた。

「こんなにおいしかったのねえ。柚子のすっぱさが大根の甘みを引き立ててくれるのね。もう少し、早く気づけばよかったわ」

 私は箸を置いて、頭を下げた。

「私、やっぱりこのお家が好きです。大人気ないのはわかっています。でも、この家を売るの、もう少し待ってもらえませんか」

 しん、と沈黙が下りる。

 私には泣き落としもわいろもできない。できるのは、お願いすることだけ。

「ずるいわね」

 福永さんがぽつりと言った。

「この家で、母の味の料理を食べて、頭まで下げられて、私が断れるわけないって、わかってやってるでしょう。鳥井さん一人暮らしなのに、きっちり二人分用意してあるし、最初からそういう作戦だったんでしょう?」

「それは……」

 痛いところを突かれて言葉に詰まった。まったくその通りですけど――、

「少しでも思い出してほしかったんです。福永さんが、この家で過ごした時間を」

「そうね。思い出したわ。いい思い出も、嫌な思い出も、いろいろとね」

 福永さんは苦笑する。

 これで断られたら、もう食い下がるのはやめようと思っていた。

「私ももう歳だし、子供たちも家を出てるしね。下手に土地を残すより、売ってお金にしてしまったほうがいいと思ったの。でも、それで母の気持ちを蔑ろにするのは、やっぱり違うわよね」

『母がね、施設に入ってからずっと心配してたのよ。あの家は誰が住むのって』

 幸子さんは、家を離れることになっても、ずっと気にしていたのだ。この家と、ここが大好きなみりんのことを。

「それに、まだまだ私もお父さんもくたばりそうにないし。せめて私たちとあの子が元気なうちは、ね」

 福永さんがくすりと笑って、廊下のほうをちらりと見た。

 みりんが隠れるようにしてこちらを伺っている。まったく隠れられていないのはご愛嬌だ。

「はいはい、お腹空いたのね」

 言いながら、味噌に漬けていない鮭を細かく千切ってお皿に乗せる。

 床に置くと、みりんは待ってましたとばかりに飛びついた。

「まあ、ゲンキンな猫ねえ」

 福永さんが呆れたように言って、二人で笑った。


「ごちそうさま。おいしかったわ」

 福永さんが玄関先で微笑む。

「あの」

 福永さんが来たときから、言いたかったことがあった。

「今は私が住んでますけど、この家はこれからもずっと、福永さんの家ですから」

 そんなこと、わざわざ言わなくてもわかっているかもしれないけれど。

 でも、わかっていることでも、ちゃんと伝えておきたかった。

 福永さんはさっき、入るときに『お邪魔します』と言ったから。

「だから遠慮なく、これからも来てください。そしてまた一緒にご飯食べましょう」

 福永さんは目をぱちぱちと瞬かせる。

「それは悪いわ……と言いたいところだけど、そうね。たまには懐かしい味が恋しくなるものね」

 そう言って、手を振って帰っていった。

 扉が閉まった途端、緊張していた糸がふつりと緩んで、居間の畳に倒れ込んだ。

 仰向けになって天井を見つめる。古い木目と、直した部分の新しい木目。

 ――よかった。これからもここで暮らせるんだ。

 安心して目を閉じる。

 そして、気づけば夕方になっていた。

「寒っ」

 体を起こし、少しだけ開けていた窓を閉める。

 もう秋なのだ、と身震いをしながら思った。

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