『23時のゴーストライター』―深夜のオフィスで、私は誰かになる―

ソコニ

第1話

オークファン「アイフォン 13 中古 128GB」こ




第1話「依頼」



霞が関の高層ビル、45階。


有栖川製薬の役員専用フロアに、私は立っていた。23時きっかり。約束の時間だ。


エレベーターを降りると、フロア全体が薄暗い。壁に埋め込まれた間接照明だけが、廊下に青白い光を落としている。正面の重厚な扉に、「副社長室」の文字。


「お待ちしておりました」


扉が開く前に声が聞こえた。そこに立っていたのは、水島真理子副社長。45歳とは思えない凛とした佇まい。深夜なのに完璧なスーツ姿。


「こちらへどうぞ」


応接室に案内される。窓からは東京の夜景が一望できる。でも高層階の窓際に立つと、どこか落ち着かない。まるで、この景色に吸い込まれそうな。


「まずは、これをご覧ください」


水島が差し出したのは、一冊のノート。開くと、びっしりと文字が。


「私の半生を、ここに記しています」


丁寧な文字で記された日記のような記録。でも、最後のページが妙だった。文字が徐々に乱れ、最後は判読できないほど。そして、その後のページは全て白紙。


「ここから先を、あなたに書いていただきたいの」


その言葉に、妙な重みを感じた。単なる自伝の執筆依頼ではない。そんな予感が、背筋を走る。


「御社の広報部から、条件は伺っています」


私が言うと、水島は首を傾げた。


「広報部から...?いいえ、依頼したのは私個人です」


一瞬の沈黙。秘書がコーヒーを運んでくる。


「取材は毎晩、この時間にお願いします」


水島がコーヒーカップを手に取る。その指が、わずかに震えている。


「昼間は...私ではないので」


「すみません?」


問い返すと、水島は表情を引き締めた。


「昼間は多忙なので、という意味です」


録音を始める。取材は順調に進んでいくはずだった。水島の生い立ち、学生時代、製薬会社への入社。普通の成功物語に思えた。


しかし、途中から様子がおかしくなってきた。録音を再生すると、明らかに声のトーンが変わっている箇所がある。まるで別人が話しているように。


「35歳で部長に昇進して...いいえ、違います」


水島が突然、録音を止めた。


「それは私の記憶ではありません」


彼女の表情が歪む。蛍光灯が明滅したかと思うと、部屋の気温が急激に下がった。


「申し訳ありません。今日はここまでにしましょう」


水島は立ち上がる。その姿が一瞬、影のように揺らいで見えた。


「明日も、同じ時間に」


エレベーターに乗り込むと、不思議な重さを感じた。録音データを確認しようとスマートフォンを開く。しかし、データが破損している。最後の方の会話が、ノイズに変わっていた。


45階のボタンを見つめながら、私は気づいていなかった。このエレベーターの中で、私が別人に変えられていくかもしれないということに。





エレベーターのパネルを見つめていると、数字が不規則に点滅し始めた。45、44、43...。普通なら1分もかからない降下が、異常に長く感じる。


ふと鏡を見ると、自分の姿が薄く霞んでいた。その後ろに、誰かが立っているような...。振り返ると、そこには誰もいない。


38階で突然停止。ドアが開くが、そこは真っ暗なフロア。かすかに響く足音。誰かが近づいてくる。急いでドアクローズのボタンを押す。


再び降下を始めたエレベーター。でも、今度は数字が逆に進んでいく。39、40、41...。また45階に戻されるのかと焦った時、突然の急降下。


1階に着いた時には、冷や汗が滲んでいた。携帯を見ると23時45分。たった30分の取材だったはずなのに。


タクシーに乗り込んでから、録音データを確認する。最初は普通の会話。しかし20分を過ぎたあたりから、明らかに声が変わっていく。


「私は常に、誰かの影として生きてきました」


水島の声が、別人のものに聞こえ始める。そして最後の部分。


「あなたにも、分かるでしょう?誰かの影として生きることの...」


そこで録音が途切れ、激しいノイズに変わる。ヘッドホンを外すと、タクシーの運転手が不安そうにバックミラーを覗き込んでいた。


「お客さん、後ろの方と...お一人ですか?」


背筋が凍る。ゆっくりと後部座席を見ると、確かに誰かの影が。街灯が照らす度に、その輪郭が揺らめく。


自宅に着くなり、慌ただしく部屋に駆け込む。カバンから水島のノートを取り出すと、さっきまで白紙だったはずの後半のページに、文字が。歪んだ文字で書かれた私の名前と、今夜の出来事が。


その時、携帯が鳴る。着信画面には「有栖川製薬 水島真理子」の文字。時計は午前0時。


電話に出ると、受話器の向こうから複数の声が重なり合って聞こえてきた。


「明日も、お待ちしています」

「私たちの物語を、書いてください」


部屋の照明が、突然明滅し始める。




第2話「兆候」


朝の通勤電車の中で、私は化粧鏡を凝視していた。顔の輪郭が、わずかに違って見える。昨夜の取材から8時間。目の下のクマは深いのに、肌は妙に艶やかだ。まるで水島副社長のように。


「榊原さん、どうかしましたか?」


声をかけてきたのは、同じフロアで働く佐伯さん。彼女の表情が、一瞬歪んだように見えた。


「いえ、ちょっと寝不足で」


オフィスに着くと、机の上に見覚えのない封筒。中から一枚の写真が滑り出る。有栖川製薬の役員集合写真。最前列中央に水島副社長の姿。その隣に写っている女性が、どこか私に似ている。写真の裏には日付。3年前の創立記念パーティーと書かれているが...。


携帯が震える。昨夜登録された「水島真理子」からのメッセージ。


『写真、届きましたか?あの日のことを、思い出してください』


思い出す?3年前、私はまだゴーストライターになっていないはず。画面を見つめていると、新しいメッセージが。


『今夜は、もっと深い話をしましょう。あなたの物語も、私の物語の一部になるから』




22時30分。タクシーに乗り込む。運転手に「霞が関」と告げると、ルームミラー越しに不審そうな視線。


「お客さん、お一人で?」


後部座席には確かに私だけ。でも、鏡に映る姿は二人分の影になっている。


有栖川製薬のビル到着。ロビーは静まり返り、警備員の姿もない。エレベーターに向かう足音だけが、虚ろに響く。


45階のボタンを押す前に、鏡を見る。私の姿が、水島の姿と重なったように見えた。今度は驚かない。むしろ、どこか懐かしささえ感じる。


副社長室に入ると、水島は窓際に立っていた。


「よく来てくださいました」


振り向いた彼女の顔が、一瞬私の顔と重なる。


「昨日のノート、読んでいただけました?」


デスクの上には、昨夜と同じノートが。でも開くと、中身が違う。


『榊原美咲、28歳の記録』


私の目が、疑問符を浮かべる。


「28歳...?私はもう32歳です」


水島が不気味な笑みを浮かべる。


「本当にそうかしら?あなたの記憶は、本物?それとも...」


その時、部屋の温度が急激に下がる。窓ガラスが振動し始め、外の夜景が歪んで見える。


ノートのページが、風もないのに勝手にめくれていく。そこには私の知らない私の人生が記されている。


「3年前、あなたは確かにここにいました」


水島の声が、私の耳に残響する。


「有栖川製薬の広報部で、ある取材を担当していた。でも、その記憶は消されました。正確には...上書きされました」


彼女がノートの一ページを指差す。そこには衝撃的な写真が貼られていた。


広報部のデスクで仕事をする私。確かにそれは私。でも、日付は3年前。


「私たちは皆、誰かの物語を書き換えられる」


水島の声が、別の声と重なり始める。


「そして今夜、あなたは新しい物語の登場人物になる」


立ち上がろうとした私の体が、突然動かなくなる。手足が重く、意識が遠のいていく。


目の前でノートが開かれ、新しい文字が浮かび上がっていく。私の文字で、私の知らない物語が。


「さあ、本当の仕事を始めましょう」


水島...いや、私の声が響く。


45階の窓の向こうで、東京の夜景が血のように赤く染まっていた。


(第3話へ続く)(前の文章に続いて)


意識が遠のく中、私の手が勝手に動き出す。ペンを握り、ノートに文字を記していく。


『私は誰の人生を生きているのだろう。今、この瞬間書いている文字さえ、本当に私のものなのか』


視界が霞む。天井の蛍光灯が、まるでストロボのように明滅する。その光の中で、水島の姿が変容していく。若返ったり年を取ったり、そして私に似た顔になったり。


「この会社には、たくさんの物語が眠っています」


彼女の声が、部屋中に反響する。


「取材と称して、人々の人生を奪い、書き換えていく。それがゴーストライターという仕事の本質。あなたはその才能に選ばれた」


立ち上がろうとするが、体が言うことを聞かない。椅子に座ったまま、ペンを走らせ続ける。


「明日からは、昼の仕事も手伝っていただきます。有栖川製薬広報部のゴーストライターとして」


その言葉に、記憶が激しくかき乱される。私は本当に32歳なのか。ゴーストライターになったのは、本当に3年前なのか。


すべてが霧の中。ただ確かなのは、今この瞬間、私の人生という物語が、誰かによって書き換えられているということ。


そして私もまた、誰かの人生を書き換えていくということ。



第3話「歪み」


有栖川製薬広報部、35階。


私は新しいデスクに座っていた。窓際の一等席。正面の壁には「Welcome Sakakibara」のプレート。まるで何年も前からここで働いていたかのように、すべてが自然に思える。


でも、これは昨日から始まった現実。いや、本当に昨日から?


「榊原さん、この原稿の確認をお願いします」


後輩という立場の吉岡が資料を持ってきた。新薬の開発秘話に関するプレスリリース。目を通していくと、違和感を覚える。この内容、どこかで。


「これ、確か5年前の...」


言いかけて、私は言葉を飲み込んだ。5年前の記事のはずなのに、日付は来月に設定されている。しかも開発責任者の名前が違う。


「榊原さん?何か問題でも」


吉岡の表情が、一瞬歪む。その姿が、かつての開発責任者と重なって見えた。


「いいえ、何でもありません」


そう答えながら、原稿に赤を入れていく。私の手が、まるで誰かに導かれるように動く。文章が書き換えられ、人物が入れ替わり、歴史が作り変えられていく。


これが、広報部の本当の仕事なのか。


昼休憩、35階の化粧室。手を洗おうとした時、蛍光灯が明滅する。鏡に映る私の姿が、どんどん若返っていく。28歳の私。いや、これは本当の私?




鏡から目を離そうとしても、視線が釘付けになる。若返った私の姿が、にこやかに微笑みかける。その表情は、どこか水島副社長に似ている。


ドアが開く音。振り向くと、そこには部長の中原がいた。


「あら、榊原さん。よくお似合いですわ」


その声は、明らかに水島のもの。中原部長の口から、なぜ。


「部長...?」


「ええ、今はね」


中原の姿が揺らぐ。その向こうに、複数の人影が透けて見える。


「私たちはみんな、誰かの影。誰かの物語を生きる」


部長の声が、水島の声が、そして私の声が重なり合う。


急いで化粧室を出ると、オフィスの様子が変わっていた。デスクの配置が違う。人々の服装が、まるで時代劇のように次々と変化していく。


「榊原さん、今日の経営会議の議事録、準備できましたか?」


声をかけてきたのは吉岡。彼女の手には古ぼけたノート。開かれたページには、来週の会議の内容が克明に記されている。でも日付は、20年前。


「これは...」


「ああ、今書き換えているところです。主役を入れ替えて」


吉岡は当然のように言う。彼女の目が、一瞬黒く濁る。


「私たちの仕事は、人々の記憶を編集すること。歴史は、書き換えられるために存在するのよ」


デスクに戻ると、パソコンの画面が勝手にスクロールを始める。新薬開発の歴史、役員の変遷、企業買収の記録。次々と表示される文書の内容が、目の前で書き換わっていく。


「これが、本当の広報の仕事」


背後から水島の声。振り向くと、そこには誰もいない。代わりにモニターに、彼女の姿が映り込んでいる。


「あなたにも、その才能がある。記憶を書き換える力が」


キーボードに手を置くと、指が勝手に動き出す。


上書きされていく企業の歴史。差し替えられる人物たち。編集される記憶。まるで小説を書くように、現実が作り変えられていく。


そこへ、古びた新聞記事が目に入る。3年前の有栖川製薬に関するスキャンダル。開発中の新薬で複数の死者が。記事の最後に、担当記者の名前。


「榊原美咲」


私は記者だった?ゴーストライターではなく?


画面が暗転する。社内システムのログイン画面に戻る。パスワードの入力欄に、見覚えのない文字が自動的に打ち込まれていく。


「さあ、本当の仕事を始めましょう」




パスワード認証が完了すると、見たことのないフォルダが次々と開いていく。「記事修正」「人事改変」「記憶処理」...。


最後に開いたフォルダには、一つの映像ファイル。3年前のもの。再生ボタンが、勝手に押される。


映像には、若い記者の私が写っている。有栖川製薬の研究所の前で、カメラに向かって話しかける姿。


「有栖川製薬の新薬治験で、複数の死者が出ていたことが判明。企業ぐるみの隠蔽工作の疑いが...」


突然、映像が乱れる。画面の中の私の姿が、水島のものに変わっていく。音声も歪み、内容が変化していく。


「有栖川製薬の新薬が、難病に効果を発揮。複数の患者が回復に向かい...」


現実が、目の前で書き換えられていく。


「思い出しましたか?」


背後から水島の声。今度は本物の彼女が立っていた。


「あなたは優秀な記者でした。私たちの秘密に迫った、初めてのジャーナリスト」


オフィスの光景が歪み始める。壁が溶け、空間が広がっていく。周りの社員たちの姿が、まるで蝋人形のように歪んでいく。


「でも、その才能は別の形で活かせると判断した。記憶を書き換える才能を」


水島が近づいてくる。その足音が、不自然に響く。


「思い出して。あの日、あなたはここに来た。そして選択をした」


フラッシュバックのように、記憶が蘇る。研究所での取材、衝撃の事実、そして...有栖川製薬での面接。


「待って、私は確か...」


言葉が途切れる。喉から出る声が、私のものではない。


「正しい選択でしたわ」


鏡を見ると、そこには28歳の私。いや、違う。水島真理子の若い頃の姿。いや...私たちは、もともと同じ人物だったのか。


パソコンの画面が次々と切り替わる。私が書いたはずの記事が、別の記者の名前に変わっていく。履歴書の内容が書き換わる。SNSの投稿が消えていく。


そして、新しい記憶が上書きされていく。


有栖川製薬の広報部で、何年も働いていた記憶。

水島副社長の影として、数々の歴史を書き換えてきた記憶。

ゴーストライターとして、誰かの人生を奪ってきた記憶。


「さあ、23時までに、新しい歴史を書きましょう」


時計は午後4時を指していた。あと7時間。その間に、私は誰の人生を生きることになるのか。


オフィスの窓に映る夕暮れが、不気味な赤に染まっていく。




夕暮れ時、オフィスの様子が一変し始めた。


照明が不規則に明滅する中、社員たちの動きがぎこちなくなっていく。まるで古い映画のフィルムのように、コマ送りで動く人々。その顔は少しずつ変化し、私の知らない人々の顔に入れ替わっていく。


「これが、私たちの本当の姿」


水島の声が館内放送から流れる。


「みんな誰かの影。誰かの人生を生きている」


パソコンの画面に、次々と社員データが表示される。


入社年月が現実にはありえない古い日付に。

経歴が日々書き換えられている形跡。

そして、全員の写真が、徐々に別人の顔に変化していく。


「この会社は、人生を管理する場所」


目の前のディスプレイに、衝撃的な文書が。「記憶改変プロジェクト」。有栖川製薬の新薬開発の真の目的が記されている。


「人々の記憶を書き換え、現実を変える。それが私たちの仕事」


椅子から立ち上がろうとして、足が震える。体が自分のものではないような感覚。


廊下に響く足音。誰かが近づいてくる。振り向くと、そこには私と同じ顔をした女性たちの列。年齢も服装も違うが、どこか共通する面影。


「私たちは、あなたの可能性」


声が重なり合う。その一人一人が、私の別の人生を生きているような。


「23時までに、選ばなければ」


時計は19時を指していた。外は完全な闇。オフィスの窓に、無数の顔が映り込む。


「記者としての私」

「作家としての私」

「広報としての私」

「そして...」


最後の言葉が、喉に詰まる。水島の姿が、私の後ろに重なる。


「本当のあなたを、見つけましょう」


手元のノートが、勝手にページをめくり始める。そこには私の未来が、いや、私たちの未来が、次々と書き込まれていく。


「23時。45階の副社長室で」


時計の針が、ゆっくりと進んでいく。




手が勝手にページをめくる。ノートの中には、これから起こる出来事が、まるで日記のように記されていた。


『22時45分、彼女は選択を迫られる』

『22時50分、記憶が混ざり始める』

『22時55分、本当の姿が現れ始める』

『そして23時...』


その先は、まだ白紙。これから書かれる運命が待っている。


携帯が震える。画面には複数の未読メッセージ。差出人は全て「私」になっている。開くと、それぞれが違う人生を生きる私からのメッセージ。


『私は記者として真実を追い続けた』

『私は作家として物語を紡いだ』

『私は影として、誰かの人生を生きた』


最後のメッセージは、未来の日付。


『私たちは、ついに一つになる』


22時45分。予言通り、体の感覚が変わり始める。手足が重く、まるで水の中にいるよう。鏡を見ると、私の顔が透明になっていく。その向こうに、無数の顔が見える。


エレベーターが、また不気味な音を立てる。45階から、誰かが降りてくる。


「準備はいい?」


水島の声が、頭の中で響く。その声に、過去の私たちの声が重なる。


いや、これは試練なのかもしれない。記者としての私は、真実を追い求めた。その結果が、この状況を生んだ。ゴーストライターとしての私は、人々の人生を書き換えてきた。その報いが、今私に向けられている。


時計の針が、容赦なく23時に近づいていく。


選択の時が近い。でも、本当に選べるのは「誰になるか」ではない。

「誰を消すか」なのだ。





第4話「真相」


エレベーターは、ゆっくりと45階へと上昇を始めた。


時計は22時57分。後ろ髪を引かれる思いで35階のオフィスを出たものの、これが正しい選択なのかどうか。


壁面の鏡に映る私の姿が、階数表示が変わるたびに少しずつ変化していく。36階で髪型が、37階で服装が、38階で表情が。


「記憶は、上書きされるためにある」


水島の声が、いや、私の声が響く。


40階を過ぎたあたりで、エレベーターが緩やかに減速。ドアが開くと、見知らぬフロアが広がっていた。


「記録保管室」


重厚な扉の向こうに、無数の棚。そこには古びたノートが整然と並んでいる。背表紙には人名と日付。手に取ると、それぞれが誰かの人生。誰かの記憶。


「私たちの本当の仕事場よ」


振り向くと、水島が立っていた。彼女の姿が、蛍光灯の下で揺らめく。


「ここが、記憶を管理する場所。あなたに見せたかったの」


その言葉に、新たな記憶が蘇る。




棚から一冊のノートを取り出す。表紙には「榊原美咲 - 記者時代」の文字。開くと、そこには3年前の調査記録が克明に記されていた。


有栖川製薬の新薬開発における不正。治験データの改ざん。そして、被験者たちの失踪。取材を進めるうちに、もっと恐ろしい事実が見えてきた。


「この会社が作っていたのは、記憶を操作する薬」


水島が静かに告げる。


「でも、副作用があった。服用者の記憶が他者に転写される」


ページをめくると、被験者たちの証言。自分の記憶が失われ、代わりに他人の記憶が入り込んでくる。そして最後には、自分が誰なのかさえ分からなくなる。


「その時のあなたは、真相に近づきすぎた」


別の棚から、水島が一冊のノートを取り出す。「記憶転写実験 - 被験者NO.17」。


開いたページには、私の写真が貼られていた。


「あなたは取材対象ではなく、実験台になった」


耳鳴りがする。目の前が霞む。記憶が大きな渦を巻き始める。


私は被験者だった。記者として調査していた実験の、被験者の一人。


「でも、あなたは特別だった」


水島の声が遠のく。


「普通の被験者は、記憶を失うだけ。でもあなたは、奪った記憶を完璧な物語として再現できた」


部屋の温度が急激に下がる。棚の間から、人影が次々と現れる。皆、どこか私に似ている。


「彼女たちは、あなたが奪った記憶の持ち主」




人影たちが、ゆっくりと近づいてくる。様々な年齢、様々な姿。でも、目の奥に共通する何か。失われた記憶を求めるような、虚ろな眼差し。


「彼女たちの記憶は、あなたの中に」


水島が別のノートを開く。そこには実験の詳細が。


被験者NO.17、榊原美咲。

投薬開始から48時間で他者の記憶を吸収。

72時間で完全な物語として再現。

特記:被験者の意識は保持されたまま。


「通常、記憶転写は一方通行。受け取った側は、自分を失う」


ノートのページが、風もないのに捲れる。


「でもあなたは違った。他人の記憶を奪いながら、自分の意識も保っていた」


記録保管室の奥から、うめき声のような音。棚の間から、新たな人影が現れる。


「私たちの記憶を、返して」


声が重なり合う。その声に、見覚えのある情景が蘇る。

取材で会った被験者たち。

インタビューした関係者たち。

そして...私が記事にしようとした真実。


「あの薬は、完成には程遠かった」


水島の声が、まるで告白するように続く。


「副作用で多くの被験者が廃人に。でも、あなたとの出会いで、全てが変わった」


彼女の瞳が、不気味な光を帯びる。


「完璧な記憶の器。そして、それを物語として再現できる能力」


時計は22時59分。


「23時。それは記憶が最も不安定になる時間」


人影たちの唸り声が大きくなる。私の頭の中で、無数の記憶が渦を巻く。


「そして、記憶を奪うのに最も適した時間」





「ご覧なさい。あなたが奪った記憶の重さを」


水島が壁のスイッチを入れる。記録保管室の奥が、まるで劇場のように明るくなっていく。


そこには人々が座っていた。まるで客席のように整然と並ぶ人々。動かない。表情がない。虚ろな目で前を見つめるだけ。


「記憶を失った被験者たち。あなたが物語として書き上げた人生の、元の持ち主」


私の足が震える。その数、優に100人を超える。


「でも、まだ足りない」


水島が私の肩に手を置く。その手が妙に重い。


「この実験には、最後の仕上げが必要」


時計が23時を指す。


一斉に、虚ろな人々が立ち上がる。まるで操り人形のように、ぎこちない動き。彼らの口から、断片的な言葉が漏れ始める。


「私の結婚式の日...」

「息子の卒業式...」

「母との最後の会話...」


奪われた記憶の欠片。物語として書き換えられた人生。


「あなたは完璧な記憶の器。そして、私は...」


水島の姿が変容し始める。若返ったり年を取ったり。その度に、私の知る誰かの表情が浮かび上がる。


「記憶を操る薬の、完成形」


彼女の声が、私の頭の中で響く。


「23時。記憶が最も不安定になる時間。そして...」


虚ろな人々が、ゆっくりと私たちを取り囲み始める。


「全ての記憶が、一つに溶け合う時間」





23時の鐘が鳴り響く。


記録保管室の空間が歪み始める。棚が溶け、ノートが宙を舞い、無数の文字が闇の中で踊る。


「私たちは、一つになる」


水島の体が、光を放ち始める。その輝きは、まるで人々の記憶を吸い込むよう。虚ろな被験者たちが、一斉に彼女に向かって歩き出す。


「待って!」


私は叫ぶ。その声に、被験者たちの足が止まる。


「これは、間違ってる」


水島が不敵な笑みを浮かべる。


「間違い?あなたこそ、何百もの記憶を奪ってきたのに?」


その言葉が、私の中で反響する。確かに私は、ゴーストライターとして、人々の人生を書き換えてきた。いや、それ以前に、実験の被験者として、無意識に記憶を奪ってきた。


「でも、それは...」


言葉が途切れる。記憶が渦を巻く。取材していた記者としての私。実験台にされた被験者としての私。物語を紡ぐゴーストライターとしての私。


そして、水島の声が重なる。


「23時05分を過ぎれば、全ての記憶が溶け合う。完璧な記憶の持ち主が誕生する」


時計は23時03分。


私の目の前で、被験者たちの体が光の粒子となって、水島の中へと吸い込まれていく。その度に、彼女の姿が変化する。若く、年老い、また若返る。


「さあ、最後はあなた」


彼女の手が、私に伸びる。


その時、閃いた。記者としての直感。ゴーストライターとしての才能。そして、記憶を持つ者としての使命。


「物語は、まだ終わっていない」


私は、おもむろにペンを取り出す。


「本当の結末は、私が書く」


水島の表情が変わる。焦りか、恐れか。


時計は23時04分。


記録保管室の闇が、私たちを包み込んでいく。




第5話「結末の記憶」


23時04分30秒。


記録保管室の闇の中で、私はペンを握りしめていた。周囲では、無数の記憶が光となって渦を巻いている。


「何をするつもり?」


水島の声が揺らぐ。その姿は、もはや人の形を留めていない。様々な人生、様々な記憶が混ざり合い、うねる光の塊となっている。


「私はゴーストライター。物語を書くのが、私の仕事」


ペン先が、宙に文字を描き始める。蛍光のような軌跡を残しながら、言葉が浮かび上がる。


「やめなさい!」


水島の叫び声。しかし、私は書き続ける。


『有栖川製薬、記憶転写実験の全容』


光の渦が、私の書く文字に反応する。まるで物語に吸い込まれるように、記憶の断片が集まり始める。




光の渦から、断片的な声が漏れ出す。


「私の結婚式の日...」

「息子との最後の...」

「あの日の約束...」


失われた記憶が、私の描く文字に引き寄せられていく。物語として紡がれることを求めるように。


「それは無駄よ!」


水島の声が轟く。彼女の姿は、もはや人の形を超えて、巨大な光の塊と化している。


「記憶は、より強い器に吸収される。それが実験の真理」


だが、私のペンは止まらない。


『実験の被験者たちは、誰一人として志願者ではなかった』

『記憶を奪われた人々は、今も生きている』

『そして、これが最後の実験となる』


書かれた文字が、闇の中で青白く輝く。それは、まるで新聞記事のように、真実を照らし出していく。


「私が奪った記憶を、物語として返す」


その言葉と共に、光の粒子が部屋中を舞い始める。水島から引き離された記憶の断片が、元の持ち主たちへと還っていく。


虚ろだった被験者たちの目に、少しずつ光が戻る。


「駄目!私の完成形が...!」


水島の叫び声が、悲鳴に変わる。彼女の体から、次々と記憶が解き放たれていく。


記録保管室の棚が、まるで万華鏡のように回転を始める。無数のノートが宙を舞い、ページが広がる。そこに私は、最後の物語を書き記す。





『これは、記憶を奪われた人々の物語』


私の文字が、暗闇を切り裂いていく。


『そして、記憶を奪った者たちの最期の記録』


水島の体が、激しく歪み始める。光の渦から、彼女の真の姿が現れる。それは若く美しい女性の姿。有栖川製薬の最初の被験者の一人。


「私はただ...完璧になりたかっただけ」


彼女の声が、今度は若い女性のものに変わる。


「誰かの人生を、誰かの記憶を持てば、私も完璧になれると思った」


23時07分。


記録保管室の天井が、まるでガラスが砕けるように割れていく。その破片一つ一つに、奪われた記憶が映し出される。


「でも、それは間違いだった」


水島の周りを取り巻いていた光が、急速に薄れていく。


「記憶は、誰かのものではない」


私はペンを走らせ続ける。


『記憶は、その人のもの。誰にも奪えない。誰にも書き換えられない』


被験者たちの体が、一斉に光を放つ。それぞれの記憶が、本来の持ち主のもとへと還っていく。


「なぜ...なぜあなたには」


水島の声が震える。


「物語を書くことと、記憶を奪うことは違う」


私の言葉に、ペンの光が強まる。


「ゴーストライターは、影として生きる。でも、それは誰かの人生を奪うためではない」


最後の一文を記す。


『これが、記憶を持つ者たちの、本当の物語』


23時10分。


水島の体が、ガラスの様に砕け散る。その破片が、無数の光となって天井から降り注ぐ。


被験者たちの表情が、人の温もりを取り戻していく。





光が収まると、記録保管室は静寂に包まれていた。


床には砕け散ったノートの破片。その一つ一つが、かすかに輝きを放っている。水島の最後の痕跡。


「ありがとう...」


記憶を取り戻した人々の声が、部屋中に響く。彼らの目には、生気が戻っていた。家族との思い出、大切な記念日、懐かしい風景。全てが、本来の場所に還ったのだ。


私は床に散らばった破片を一つ拾う。そこには、水島の最後の記憶が映し出されていた。


若き日の彼女。有栖川製薬の研究員として、人々の記憶を救いたいと願っていた頃の。その純粋な想いが、いつしか歪んでいった記録。


23時15分。


記録保管室の棚が、まるで巨大な本を閉じるように、ゆっくりと閉まっていく。


「これで、実験は終わったのね」


振り向くと、そこには一人の老女が立っていた。有栖川製薬の創業者の娘。記憶実験の発案者。


「あなたは本物のゴーストライター。影として生きながら、人の記憶を守る者」


彼女は微笑む。その表情には、深い安堵の色が浮かんでいる。


「でも、まだ終わりじゃない」


私は立ち上がる。手には、最後のペンを握っている。


「記憶を奪われた人は、まだいる。この建物の中に、この街の中に」


窓の外では、東京の夜景が瞬いている。その一つ一つの明かりの中に、救われるべき記憶が眠っている。


「だから私は、書き続ける」


ペンが、新しい物語を描き始める。


『これは、記憶を取り戻す物語』

『そして、誰かの人生に寄り添う影の記録』


23時30分。


45階の窓から、かすかな夜明けの気配が見え始めていた。




23時45分。


記録保管室の静寂を破り、低いうなり声が響き始める。


「まだ...終わっていない」


砕け散ったはずの水島の破片が、再び光を放ち始める。


「記憶は...永遠に...」


光の粒子が渦を巻き、新たな形を作り出していく。それは巨大な人の形。だが、もはや水島の姿ではない。有栖川製薬の歴代の実験者たち、記憶を奪った者たちの集合体。


「私たちは、永遠に記憶を求める」


その声は、数百の声の重なり。記憶を奪う側の、全ての声。


虚ろな目をした被験者たちが、再び揺らぎ始める。まだ完全には記憶が戻っていないのか、それとも新たな力に引き寄せられているのか。


私は最後のペンを強く握り締める。


「物語は、まだ終わらない」


ペン先が、青白い光を放つ。インクではなく、私自身の記憶が、文字となって紡ぎ出されていく。


記者として真実を追い求めた日々。

被験者として記憶を奪われた痛み。

ゴーストライターとして影に生きる覚悟。


『これは、記憶を持つ全ての者たちの物語』


私の文字が、闇を切り裂いていく。


巨大な人影が、軋むような声を上げる。


「何をする気...!」


『記憶は誰のものでもない。けれど、全ての記憶は、その人だけのもの』


光の渦が、激しく揺れ動く。


「止めなさい!このままでは...!」


深夜0時。


時計の針が重なった瞬間、巨大な人影が砕け散る。その破片は、今度は光ではなく、無数の紙片となって舞い落ちる。


それぞれの紙片には、記憶を奪った者たちの最期の告白が記されている。


「私たちは、間違っていた」


被験者たちの体が、静かに輝きを放つ。今度は恐れることなく、その光を受け入れている。自分たちの記憶が、確かに戻ってきたことを実感するように。


記録保管室の棚が、ゆっくりと溶けていく。残されたのは、一冊のノート。表紙には「記憶実験報告書」の文字。


最後のページを開くと、そこには新しい文字が浮かび上がっていた。


『記憶は、物語となって生き続ける』


窓の外では、夜明けの光が射し始めていた。


でも私には分かっていた。

この街のどこかで、また23時の鐘が鳴る。

誰かの記憶が、また物語を必要とする。


だから私は、これからも書き続ける。

影として、記憶の守り人として。


そう、23時の深い闇の中で。





エピローグ 「23時の影」


あれから一ヶ月。


有栖川製薬のビルは、今も変わらず霞が関の街に影を落としている。記憶実験の痕跡は全て消え、記録保管室も普通のオフィスフロアに戻った。


私は今、新しい原稿に向かっている。


この一ヶ月、記憶を取り戻した人々が、少しずつ日常を取り戻していった。家族との再会、仕事への復帰、そして失われていた時間を埋めていく作業。


でも、時々感じる。街の中で、オフィスビルの中で、誰かの記憶が揺らいでいることを。


そして今夜も、私のパソコンの画面に、見覚えのないメールが届く。


差出人不明。件名は「記憶の依頼」。


ゴーストライターとしての私の仕事は、まだ終わっていない。むしろ、本当の仕事はここから始まるのかもしれない。


時計は22時55分を指している。


外では雨が降り始めた。街灯が、影を長く伸ばしていく。























































































































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『23時のゴーストライター』―深夜のオフィスで、私は誰かになる― ソコニ @mi33x

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