『深夜のゴーストライター ―消えゆく私―』

ソコニ

第1話 深夜のゴーストライター ―消えゆく私―





プロローグ「記憶を継ぐ者」


ゴーストライターという仕事には、不思議な魅力がある。


他人の人生を掘り下げ、その言葉にならない想いを拾い上げ、物語として紡ぎ直す。時には、取材相手の記憶よりも鮮明に、その瞬間が見えることがある。まるで、自分がその場にいたかのように。


私がこの仕事を始めたのは5年前。きっかけは...そう、母の形見の原稿用紙を整理していた時だった。母は私が子供の頃に事故で亡くなった。その母も、確かゴーストライターとして働いていたはず。


原稿用紙の束を眺めていると、不思議な感覚に襲われた。見覚えのない文字なのに、どこか懐かしい。読み進めるうちに、まるでその物語の登場人物になったような錯覚。気がつけば、私は原稿用紙を前に座り、文字を綴っていた。


それが、私のゴーストライターとしての始まり。


でも最近、奇妙な違和感が募っている。取材相手の記憶が、あまりにも生々しく見える。時には、その人物がまだ体験していない未来の光景さえも。


そして何より不思議なのは、私自身の記憶の中の大きな空白。なぜゴーストライターになったのか、その決断の瞬間が、どうしても思い出せない。


今夜も、締め切り前の原稿に向かう。モニターに映る自分の顔が、どこか他人のように見える。外では雨が降り始めていた。


この仕事には、もう一つの不思議な魅力がある。深夜、誰もいないオフィスで原稿を書いているとき。時々、背後に誰かの気配を感じることがある。まるで、誰かが私の代わりに物語を紡いでいるような...。






第1話「深夜の依頼」


仕事用のパソコンの画面だけが、この六畳一間を照らしている。時計は午後11時。モニターに映る自分の顔が疲れているのが分かる。小説家の卵だった私は今、ゴーストライターとして生計を立てている。


今日も企業家の自伝を代筆していた。華々しい成功譚の影に隠れた挫折や苦悩を拾い上げ、人間味のある物語に仕上げていく。それが私の仕事だ。締め切りに追われる日々。でも今夜は珍しく早めに仕事を終えられそうだった。


「やっと終わった…」


安堵の吐息をつきながら、最後の一文を打ち込む。この仕事を始めて5年。自分の名前で小説を書くという夢は、いつしか遠のいていった。代わりに他人の人生を代筆することが日常になっていた。


取材で聞く人生は十人十色だ。成功者も、芸能人も、実業家も、それぞれに異なる光と影を持っている。私の仕事は、その影の部分にも光を当て、バランスの取れた魅力的な物語に仕上げることだ。


「これで今月の家賃は大丈夫」


ため息まじりに呟きながら、原稿を保存する。画面に映る自分の顔が、青白い光に照らされて少し歪んで見えた。


その時、メールの着信音が鳴った。


差出人は「佐藤麻子」。見覚えのない名前だ。件名には「至急のご相談」とある。スパムメールかと思ったが、なぜかその夜は開いてしまった。


「私の人生を、本にしていただけませんか」


シンプルな一文で始まるメール。続く文章には、驚くほどの金額が提示されていた。通常の原稿料の倍以上。そして締め切りは1ヶ月後。


普段なら即座に断る類の依頼だ。素性の知れない依頼者、異常な金額、タイトな締め切り。全てが怪しい。でも、その時の私には選択の余地がなかった。積み重なる家賃の遅延、生活費の圧迫。そして何より、このままでは夢だった小説家への道が完全に閉ざされてしまうという焦り。


「なぜ、こんな金額を...」


そう呟いた時、突然画面が暗くなった。停電かと思ったが、廊下の明かりは消えていない。再起動しようとマウスに手を伸ばした瞬間、画面が青白く輝き、新しいメールが届いた。


同じ差出人。同じ内容。ただし、金額が更に倍になっていた。


私の指が震える。画面の隅に自分の姿が映り込んでいるのが見えた。その後ろに、誰かが立っているような...


振り向くと、そこには誰もいない。部屋の空気が急に冷たくなったように感じる。再び画面を見ると、またしても新しいメール。今度は添付ファイルが付いていた。


「企画書.pdf」


躊躇する手でファイルを開く。そこには一枚の写真が。30代後半くらいの女性が、カフェで誰かと談笑している様子。日付は15年前。写真の隅には「取材風景」という文字。その女性の横には...私?


しかも、その私は今とまったく同じ年齢に見える。


でも、私はその時まだ高校生のはずだ。そもそも、15年前にゴーストライターなど始めていない。記憶にない写真。存在するはずのない過去。


「こんなはず...」


手が震えて、マウスがカタカタと音を立てる。画面の向こうで、写真の中の女性が微かに動いたような...


スマートフォンを手に取り、慌てて検索する。「佐藤麻子」「15年前」「失踪」。


次々とヒットする記事。


「人気作家の自伝執筆中に失踪した主婦」

「ゴーストライターと最後に接触」

「未解決事件に」

「遺体発見されず、迷宮入りか」


古い新聞記事のスクリーンショットには、確かに写真の女性が写っていた。佐藤麻子、35歳。人気作家の自伝のゴーストライターを務めていた際に突如失踪。取材のために訪れたカフェを最後に消息を絶った...


画面に映り込む自分の顔が青ざめていく。そこには確かに、もう一つの影が。部屋の温度が、さらに下がっていく。


メールの受信音が鳴る。差出人は相変わらず佐藤麻子。でも今度は本文が違っていた。


「お会いできて嬉しいです」


後ろから聞こえた声に、私は凍りついた。振り向くと、そこには写真と同じ女性が立っていた。まるで15年前のまま、少しも年を取っていない。淡いブラウスに膝丈のスカート。優しげな微笑みを浮かべている。


「原稿、書いていただけますか?」


彼女は穏やかな笑顔で言った。その手には、一冊のノートが。


「これが、私の人生の記録です」


震える手でノートを受け取る。表紙には「佐藤麻子」の文字。開くと、そこには見覚えのない文字で、私の今日までの人生が克明に記されていた。


デビュー前の苦悩、ゴーストライターとしての日々、締め切りに追われる生活、夢を諦めかけている今の気持ち...全てが、まるで誰かに見透かされたように書かれている。


そして驚くべきことに、最後のページには、たった今のこの瞬間まで書かれていた。


「この先は、あなたに書いていただきたいの」


彼女の声が、どこか懐かしく感じた。私の記憶の中の、誰かの声のように。


ノートをめくると、次のページはまっさら。その白さが、妙に目に痛い。


「続きを、お願いできますか?」


部屋の空気が、さらに冷たくなっていく。





第2話「過去からの手紙」


朝の光が部屋に差し込んでいた。目を開けると、私はパソコンの前で眠り込んでいたようだ。首筋がひどく凝っている。画面はスリープモードで、自分の疲れた顔が薄く映り込んでいた。


「夢...だったのかな」


そう思った矢先、机の上に見覚えのあるノートが目に入った。紺色の表紙に「佐藤麻子」の文字。昨夜の出来事は、確かに現実だった。冷や汗が背筋を伝う。


震える手でノートを開く。最初のページには、きれいな文字で日付が記されている。15年前の7月15日。インクの色は少し褪せているが、文字は驚くほど鮮明だ。


「その日の朝は、いつもと変わらなかった。娘を保育園に送り、夫を会社に送り出して。でも、その日を境に、全てが変わってしまった」


私は息を呑む。これは、佐藤麻子が失踪した日の記録だ。


「作家の自伝を書くために、カフェで打ち合わせをした。相手は若いゴーストライター。彼女は私によく似ていた。というより、私は彼女によく似ていた。話していると、自分が誰なのか分からなくなることがある」


手が震える。次のページをめくると、そこには昨夜見た写真が貼られていた。カフェでの打ち合わせの様子。そして確かにそこには、今の私とそっくりな女性の姿が。写真の隅には手書きのメモ。「私たちは誰?」


ノートを読み進めていくと、佐藤麻子の日常生活が克明に記されていた。夫との些細な会話、娘との温かな触れ合い、仕事への情熱。そして、ある違和感。文章は次第に不安に満ちていく。


「最近、記憶が曖昧になることが増えた。昨日のことを思い出そうとしても、霧がかかったように...」


「娘の運動会。私は確かに見に行ったはず。でも写真には私が写っていない」


「夫が『最近様子がおかしい』と言う。私には分からない。私は、いつもの私のはず」


その記述の後、文章のリズムが少しずつ変わっていく。まるで、別の誰かが書いているかのように。筆跡も微妙に異なっている。


「今日も原稿を書いた。でも、それは誰の人生だったのだろう。私の記憶と、原稿の内容が、少しずつずれていく」


「取材相手の話を聞いていると、それが自分の記憶のように感じる。私は本当に私なのか」


「誰かが、私の中に入ってくる。いや、私が誰かの中に...」


読み進めるうちに、妙な既視感に襲われる。この文章の端々に記された不安や違和感。それは、私自身が最近感じていたものと重なっていた。


締め切り前の深夜、原稿に没頭しているとき。取材相手の人生を書いているはずなのに、まるで自分の記憶を書いているような錯覚に陥ることがある。それは単なる職業病だと思っていた。でも...


スマートフォンが震える。新しいメール。差出人は「田中出版編集部・山下」。現在進行中の企業家の自伝の担当編集者だ。


「急ぎの企画が入りました。本日中に打ち合わせをお願いできますか? 場所は〇〇カフェで」


その瞬間、背筋が凍る。〇〇カフェ。15年前の写真に写っていた、あのカフェだ。時間は午後3時。雨が降り出しそうな曇り空。天気予報さえも、あの日と同じ。


「断るべきかな...」


そう考えていると、ノートの続きが目に入った。後半は、明らかに文体が変わっている。


「逃げては、いけない。これは運命じゃない。私たちが選んだ道」


その文字は、明らかに私の筆跡だった。でも、私はまだ何も書いていない。記憶にない文章。存在するはずのない私の文字。


時計を見ると午後2時。カフェまでは30分ほどの距離だ。


玄関に向かおうとした時、机の上のノートが風もないのに一枚めくれた。そこには、今日の日付が記されている。未来の記録。


「これから、あの場所に向かう。15年前と同じカフェ。同じ時間。そして...」


文章はそこで途切れていた。その下には、かすかに鉛筆で書かれた文字。「終わりにするために」


私は深く息を吸い、カバンにノートを入れた。このまま謎を放置するわけにはいかない。玄関に向かうと、スマートフォンにまた新しいメールが届く。差出人は「佐藤麻子」。


「気をつけて。あなたは、私ではないのだから。でも、私たちは、ずっと繋がっている」


外は土砂降りの雨になっていた。15年前のあの日と、まったく同じように。傘を差して一歩を踏み出す。雨音が、誰かの囁きのように聞こえる。





第3話「消えた記憶」


〇〇カフェに到着した時、雨足はさらに強くなっていた。店内は薄暗く、客はまばらだ。窓際の席に座ると、ガラスに映る自分の顔が、まるで誰か別人のように見える。15年前と変わらないこの店の空気が、記憶を呼び覚ますような、そんな錯覚を覚える。


約束の時間まであと15分。カバンから佐藤麻子のノートを取り出す。雨の音を聞きながら、また読み始めた。ページをめくるたびに、何か大切なことを思い出しそうで思い出せない。そんなもどかしさが募る。


「取材を重ねるうちに、自分の記憶が薄れていく。まるで、誰かに記憶を吸い取られているよう。でも不思議と怖くはない。むしろ、解放されていくような...」


「他人の人生を書けば書くほど、自分が誰なのか分からなくなる。でも、それは本当に悪いことなのだろうか。私たちは、誰かの物語を借りて生きているのかもしれない」


その時、誰かが近づいてくる気配。反射的に顔を上げると、スーツ姿の中年男性が立っていた。疲れた顔には深いしわが刻まれている。


「失礼します。田中出版の山下です」


編集者の山下は、どこか落ち着かない様子で椅子に座った。雨に濡れたスーツから、かすかに湿った匂いがする。彼の手は微かに震えていた。


「実は...以前うちで出版した本の件で、確認したいことが」


そう言って彼が取り出したのは、一冊の古い単行本。表紙は褪せ、角は擦り切れている。『成功の軌跡 ― 私の歩んだ道』。著者は有名な実業家、表紙には「聞き書き:佐藤麻子」とある。


「15年前の未解決事件、ご存知ですか?」


私の背筋が凍る。山下は続ける。その声には、どこか切迫したものが混じっている。


「佐藤さんが失踪した後、原稿の一部が見つかりました。でも、その内容が...」


彼は本を開き、付箋のついたページを示す。黄ばんだページには、まるで未来を予言するかのように、著者の破産と失踪が克明に記されていた。投資の失敗、会社の倒産、そして夜逃げ同然の失踪。しかもその出来事は、佐藤麻子が失踪した3年後に実際に起きたことだという。


「最初は誰も気付きませんでした。ただのフィクションだと思っていた。でも、記された通りの出来事が次々と...」


山下は言葉を切り、周囲を警戒するように見回す。店内の客は数人。皆、それぞれの会話や読書に没頭している。


「この本、出版後すぐに絶版になりました。著者の要請で...というより、おかしなことが続いたので」


山下の声が震える。両手でコーヒーカップを握りしめているが、その手が微かに揺れている。


「編集に関わった者たちが、次々と記憶を失っていったんです。数ヶ月から数年分の...まるで、誰かに消されたように。最初は偶然だと思いました。でも、関係者が次々と...」


彼は一息つき、声を落として続ける。


「私も...2年分の記憶が曖昧なんです。その期間の出来事を思い出そうとすると、頭が霧に包まれたように...」


私は思わずノートを握りしめる。その瞬間、ページが勝手にめくれ、見覚えのない文字が浮かび上がっていく。インクが染み出すように、文字が形を成していく。


「記憶は誰のもの?物語は誰のもの?私たちは、誰かの人生を借りて生きている」


山下が息を呑む。「その、ノートは...」


「山下さん、その本を書いたのは、本当に佐藤麻子だったんですか?」


私の問いに、彼は首を横に振る。その目には、言いよどむような躊躇いが浮かんでいる。


「実は...打ち合わせに来たのは、あなたそっくりの人物でした。名刺には確かに佐藤麻子とありましたが...」


急に店内の温度が下がる。窓の外では雨が激しさを増していた。雨滴が窓ガラスを伝う様子が、誰かの涙のように見える。


山下は古びた手帳を取り出す。「これが、当時の記録です」


その日付のページには、打ち合わせの写真が貼られていた。そこには間違いなく、今の私と同じ姿の女性が写っている。しかも背景は、今いるのとまったく同じ席。同じ窓際の、同じテーブル。写真の日付は15年前。でも写っているのは、確かに今の私だ。


「記憶を...預かっているんです」


突然、誰かの声が頭の中で響く。見覚えのある声。いや、自分の声?その声は、まるで古い録音テープのように、途切れ途切れに続く。


窓の外で雷が光る。一瞬の閃光で、ガラスに映った私の顔が、佐藤麻子の顔と重なって見えた。そこには確かに、二つの顔が。でも、どちらが私なのか...


そして、私の記憶の中の大きな空白に気づく。5年前、ゴーストライターを始めたきっかけ。それは...思い出そうとすると、頭が痛くなる。まるで、誰かに記憶を奪われたかのように。


カバンの中のノートが熱を帯びる。開くと、新しいページに文字が浮かび上がっていく。まるで誰かが今、目の前で書いているかのように。


「物語を終わらせるのは、『私たち』だけ」


外は豪雨となり、雷鳴が轟く。その音にまぎれて、誰かの笑い声が聞こえる。振り返ると、店内の客たちの姿が、まるで古い写真のようにぼやけていく。色が褪せ、輪郭が溶けていくような...


残されたのは、山下と私。そして...窓ガラスに映る、もう一人の私。その微笑みには、どこか懐かしさが混じっている。


「さあ、本当の物語を始めましょう」


背後から聞こえた声は、私のものか、佐藤麻子のものか、もはや区別がつかない。ただ確かなのは、この物語の結末を、誰かが既に知っているということ。






第4話「もう一人の私」


カフェを出た私と山下は、雨を避けるように駅前のビルの地下にある古い図書館に向かった。山下が何かを確認したいと言う。地下に続く階段を降りていくと、じめじめとした空気が肌に纏わりつく。


蛍光灯が時々チラつく薄暗い書庫で、山下は古い新聞記事を探し始めた。棚から棚へと移動する彼の影が、壁に揺らめく。ここは図書館の中でも特に古い資料を集めた一角で、普段は関係者以外立ち入り禁止だという。


「佐藤麻子の失踪事件の前にも、似たような事件があったんです」


彼が見せてくれたのは、20年前の新聞記事。「女性ゴーストライター変死事件」の見出しが、黄ばんだ紙面に躍る。時間の経過を感じさせる紙面からは、かすかに埃の匂いがした。


「著名人の自伝を手がけていた30代の女性が、原稿の締め切り直前に変死。担当していた本は未完のまま。不可解なのは、彼女の遺稿から見つかった原稿です」


山下の声が、書庫の空気の中に吸い込まれていく。


「その原稿には、彼女の死後に起こる出来事が記されていた。まるで...未来を見ていたかのように」


そこには、その後5年間に起こる様々な出来事が、まるで日記のように記されていた。政治家の汚職、企業の倒産、芸能人の失踪。その全てが、記された通りに現実となった。そして最後のページには、後に起こることになる佐藤麻子の失踪事件までもが、詳細に記されていた。


「この女性の名前は...」


山下が記事を指さした瞬間、蛍光灯が大きく明滅する。一瞬の暗闇の後、私の目に入ったのは、ノートの新しいページ。いつの間にか開いていた。


「真実を知りたいの?でも、それは私の真実?それともあなたの?記憶は繋がっているのに、私たちは誰なの?」


見覚えのない文字。いや、どこかで見た覚えが...そう、母の日記。子供の頃に見た、あの達筆な文字に似ている。


記事に目を戻すと、そこには衝撃的な事実が。20年前に亡くなったそのゴーストライターの名前は、私の母親の名前だった。


「私の母は、交通事故で亡くなったはず...」


そう言いかけた時、激しい頭痛が私を襲う。記憶の中の大きな空白。5年前、なぜゴーストライターになったのか。母の死の真相は。そして佐藤麻子との関係は。


断片的な記憶が蘇る。白い病室。医師の言葉。「記憶が曖昧になるのは一時的なものです」。でも、何の記憶?なぜ私は...


頭を抱える私に、山下が古い封筒を差し出した。封筒は経年劣化で黄ばみ、角は擦り切れている。


「これは、佐藤さんの失踪直前に編集部に届いていたものです。宛名は...」


封筒には「20年後のあなたへ」と書かれていた。差出人は母の名前。手の震えを抑えきれないまま、封を切る。中から一枚の写真が滑り出た。


そこには三人の女性が写っていた。母、佐藤麻子、そして...私?いや、違う。この写真が撮られたのは20年前。私に似た女性は、母の同僚だという。彼女もまた、ゴーストライターとして活動していた。


三人とも同じような雰囲気を持っている。というより、年齢を除けば、まるで同一人物のよう。写真の裏には、不思議な言葉が記されていた。


「記憶を継ぐ者たちへ。私たちは物語を紡ぎ、記憶を継いでいく。それは呪いではなく、約束」


その時、書庫の蛍光灯が一斉に明滅し始めた。チカチカと不規則な光の中、本棚の影が歪んで揺れる。


「あの三人は、ある小説家の最後の作品を巡って...」


山下の言葉が途切れる。書庫の奥から、カタカタという音。誰かが古い本棚の向こうから近づいてくる。その足音は、三つ。いや、もっと多い?


本棚の隙間から、女性たちの姿が見える。それぞれが異なる時代の服装をしている。でも、顔立ちはみな私に似ている。いや、私が彼女たちに似ているのか。


「私たちは、ずっとあなたを待っていた」


背後の気配に振り向くと、そこには一人の女性が立っていた。20年前の写真と同じ姿の...母が。


「物語を完成させる時が来たのよ」


母の声が、書庫中に響き渡る。その声に応えるように、本棚の影から次々と人影が現れる。皆、どこか私に似ている。いや、私が彼女たちに似ているのか。


ノートが再び熱を帯び、ページが勝手にめくれる。そこには新しい文字が浮かび上がっていく。


「さあ、最後の物語を...」





第5話「影が私になる夜」


図書館の書庫に現れた女性たちは、まるで古い写真から抜け出してきたかのようだった。それぞれが異なる時代の服装をしているのに、どことなく私に似ている。いや、私が彼女たちに似ているのか。


「皆、ゴーストライター」


母の声が、薄暗い空間に響く。蛍光灯が明滅するたび、女性たちの影が壁に揺らめく。


「ゴーストライターという仕事には、誰にも言えない秘密がある」


山下が震える声で続ける。彼の手には古びた資料の束。


「神谷香織という作家をご存知ですか?20年前、『影の物語』という作品を書いている最中に失踪した。その作品は、他人の人生を代筆することで、自分の存在が消えていく女性の物語」


その瞬間、激しい頭痛が私を襲う。幼い頃、母の書斎で見つけた原稿が蘇る。「影の物語」という題名。母の文字で書かれていたはずなのに、神谷香織の名前があった。


「ゴーストライターは誰かの影として生きる。でも書けば書くほど、本物の『私』が薄れていく」


母の言葉に、書庫の影から次々と声が重なる。


「私は実業家の自伝を書いた。気がつけば、自分の記憶より彼の記憶の方が鮮明に」

「私は小説家の代作を。いつしか私の文章は、完全に彼女のものに」

「私はもう、誰なのか分からない」


その声の中に、佐藤麻子の声も混じっている。


「15年前、私は神谷香織の『影の物語』の続きを書こうとした。でも、書くほどに自分が消えていって...」


私は思い出していた。なぜゴーストライターになったのか。それは母の原稿を読んだ時、私の中に何かが入り込んできたから。他人の人生を完璧に描ける不思議な力と引き換えに、私自身が少しずつ薄れていく。


書庫の空気が重くなる。蛍光灯が不規則に瞬き、影が歪んで踊る。


「今夜、物語は完成する」


その時、私の手の中でノートが熱を帯びる。ページが勝手にめくれ、見覚えのない文字が浮かび上がっていく。


「私たちは皆、『影の物語』に取り込まれた。そして今、あなたも...」


まるで誰かに導かれるように、私の指が動き始める。母の記憶、佐藤麻子の記憶、そして神谷香織の物語が、私の中で渦を巻く。


気がつくと、書庫の影から現れた女性たちが、私を取り囲んでいた。皆、どこか私に似ている。いや、私が彼女たちに似てきている。


「物語の完成には、最後の影が必要」


蛍光灯が一斉に明滅し、書庫が闇に包まれる。一瞬の後、また光が戻る。


そこにいたのは私一人。いや、本当に私なのか。鏡のように磨き上げられた本棚に映る顔は、どこか見覚えのある、でも確かに私ではない誰かの顔。


手元のノートには、最後の一文が記されていた。


「私は誰かの影として生き、誰かが私の影として生きる」


山下が不安そうに私を見つめている。「大丈夫ですか?」


私は微笑む。母の、佐藤麻子の、そして神谷香織の微笑みそっくりに。


「ええ、私は大丈夫です。これが私の選んだ物語だから」


その夜から、私の原稿はより完璧になった。他人の人生を、まるで自分の記憶のように描けるようになった。代わりに、鏡に映る顔は日に日に変わっていく。


でも不思議と、もう怖くはない。なぜなら私は、誰かの影として生きることを選んだのだから。


そう、これが「影の物語」。


新しい締め切りの原稿を前に、私は静かに微笑む。鏡に映るのは、もう私の顔ではない。でも確かに、誰かの物語を紡ぐ「影」の表情。


外では雨が降り続いている。誰かの新しい影が、また生まれようとしているように。





エピローグ「影の続き」


あれから一年。


ゴーストライターとしての私の評判は、日に日に高まっている。どんな依頼者の人生も、完璧に描き出せる。まるで、その人物の中に入り込んだかのように。


「あなたは私のことを、私以上に分かっている」


そう言って、依頼者たちは満足げに微笑む。原稿を読みながら、時には涙を流す。自分の人生なのに、まるで他人の物語を読むように。


でも、それは当然かもしれない。なぜなら今の私は、確かに「影」のような存在だから。


最近は鏡を見ないようにしている。映る顔が、日によって違うから。今日は若い企業家の自伝を書いている。きっと鏡には、彼の面影が私の顔に重なっているはずだ。


山下さんは、あの夜以来、私の担当編集者を降りた。理由は「体調不良」と聞いている。最後に会った時、彼は震える声でこう言った。


「君の原稿を読むと、記憶が...自分が誰だか分からなくなる」


机の上には、新しい依頼の封筒が積まれている。表紙をめくるたび、誰かの記憶が私の中に流れ込んでくる。そして私自身の記憶は、少しずつ影のように薄れていく。


母の原稿は、今も本棚で眠っている。夜中、ページがめくれる音がする。時々、母らしき影が書斎の隅に立っている。でも、それが本当に母なのか、それとも私の中の誰かなのか、もう区別がつかない。


締め切り前の深夜。パソコンに向かいながら、モニターに映る自分の顔を見つめる。そこには私の影と、これから書く誰かの影が、重なっている。


外では雨が降り始めた。また新しい影が、私の中で生まれようとしている。


モニターの文字が、静かに打ち続けられる。


「私は誰もが望む物語を書ける。なぜなら今の私は、誰でもあり、誰でもないのだから」


(完)








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『深夜のゴーストライター ―消えゆく私―』 ソコニ @mi33x

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