あるがままに
ガーベラ
前編
よもや一種の呪いではなかろうか。浮かぶ言葉をいくつか並べてみれば誰かが答えてくれるだろうか、いや、私の心を他人に見定めさせるなど、出来る訳が無い。嫌だ。絶対に見せない。あの人以外。
陶芸家として生計を立てられるようになった私は、古い山荘を購入した。紹介によれば明治の頃、ありふれた農村であったこの地に、栗を特産品として根付かせて財を築いた一族が建てたらしい。その背景を持ってか山の中腹にどっしりと構える数寄屋造りの母屋は独り身の手に余るものであった。不動産屋の者も近所にもっと手頃な大きさの家があるだの手入れが大変であるだのと要らぬ心配をしていたが、私はこれが良いのだ。自然。街中の騒音が掻き消す内なる煩わしさを否応無く叩きつけられる。だが私とて、世を捨てた訳では無い。古い物語に登場する老人達のように生きたいと思ったことは無い。俗人の欲だってはっきりと持っているのだ。金持ちになって、誰もが振り向くような高級車に乗り、全身を特上のブランドで着飾り、極上の食事だけを舌に味わう。こういった下卑た欲だってしっかりと持ち合わせている。だからこそであろう、欲深い私はそれ故に今、苦しんでいるのだ。だから、思案する時間が欲しいのだ。私自身と話をつけねば、私はこのまま霧中で残りの命を削っていく事になってしまうのだ。
それは予期せぬ不意打ちであった。いや、可能性は十分にあった。親友。この話の中では唯、「A」と呼称することにしよう。彼の名前を綴る度に私の胸を銀の光が撫でる為に、このようにしたい。彼は私の、親友と呼べる仲の人であった。そんな彼から、もう引っ越しも落ち着いただろう。今度の休みに泊まりに行ってもよいか、という連絡が来た。勿論これには彼の家族、妻も含まれていた。「嵯那」、彼女もまた、友人の仲である。彼らとの付き合いは高校生の頃まで遡る。
入学時のクラスで偶々席が隣同士であったのがAとの出会いであった。初めは互いにクラスメイトとして差し障りのない言葉を交わす程度であったが、音楽や映画、小説等、共通の趣味がある事が分かってからは、仲が深まるまでに時間を要さなかった。彼はとりわけゲームが好きで、ゲームはプレイする映画だというのが口癖であった。将来はゲームの制作会社に勤め、シナリオライターをしたいと、夢も無く趣味に没頭するだけの私の遥か延長線上に居た。当時の私は愚かであった。若さ故のそれをそれと知らず、穿った目で物事を見つめる恥知らずであった。そんな私でも、彼には友情と共に一種の憧れも抱いていた。心の中では今の自分を変える必要があるのだと気付いていたのだ。だが今に至っても、私はとうとう、変わるという事をしなかった。
二学年に上がり、ここで嵯那と同じクラスになった。一学年の時より、クラスこそ違ったが廊下ですれ違ったり、何かの折に見かける事は稀にあった。私の初恋の人である。当時は初めて感じる類の刺激に浮き足立っていたが、それをただ感じるだけであった。行動は起こせなかった。溌溂と歯を見せて笑う姿が記憶に眩しい。
さて、連絡を返さねばならない。どうしたものか、だが、断る理由は無かった。「ぜひ来い。」と簡単に返し、念の為に住所も送っておいた。「迷わないように」誰への言葉であろう。
来いとは言ったが、改めて家を見ると、なるほど、不動産屋の言っていた事は正しかったと認めざるを得ない。普段使っているいくつかの部屋と工房である離れ以外は、床を撫でると指が白くなる程であった。
「このままではいかん」このような部屋に泊まらせる訳にはいかない。片付けをせねば。
廊下を行き来し、来たる客人を思う。Aが彼女を好きになったのはいつ頃なのであろう。
三学年。いつになく真面目な顔を寄せ、相談だと言うので一体何事かと、すると彼は「同じクラスの嵯那、分かるよな」彼女の事が好きで、告白はどのようにすればよいかという話である。停止する思考の下で適当に返事をしたが、私の心中は穏やかではない。机の下の手は汗をかいている。視界が白く狭まる。Aは私が嵯那に好意を寄せている事を知らない。教えていない。どうする。Aが嵯那に告白し、嵯那がそれを承諾したらどうする。いや、どうするとは一体なんだ。嵯那の事は好きだ。ただし向こうからすれば私は同じクラスの人だという認識しかないであろう。用があればその都度言葉を交わす程度の、なんでもない一人間だ。この非対称。それは分かっている。ならばこの頭の靄は一体なんなのだ。
目の前の机を投げ飛ばしてやりたい衝動に駆られた。
客人を迎える準備には一週間かかった。家自体はそれほど時間をかけずに片付いたのだが、窓を開けた際に見下ろした庭が目に余る有様であった為、草木の手入れまで始めてしまったのだ。草を刈る時、枝の剪定をする時、彼女の顔が頭に焼きついて離れなかった。ここ数ヶ月はこれほどでは無かった。もう少し抑えられていたのだ。あいつが急に来るというからまたこうなってしまったのだ。「めんどくさいなぁ、どうにも、めんどうがくさい」。
なんとか庭の端から端までを整え終わって振り向いてみるとそこには、不自然を是とした男を嘲るかのように新しい芽が並んでいた。この日がちょうど二週間目であった。私は自然のままに庭を育ててみようと思い立った。
「庭園」。草木の手入れをする際、どのようにすればよいかと少し調べていた。だが、実際に手入れをし、自然の再生力に敗北した後では違って見える。表示される画像はどれもこれも、余りにも人の手が入り過ぎており、人工物かのように見えてきたのだ。「自然との調和」という見出しにどうにも合点がいかない。侵略ではないのか、改めて自らの手で開拓した土地を見回してみる。どうにも、不気味に見えた。子供のような無邪気さで私は虐殺をやってのけたのだ。恐怖すら覚えた。故に、これ以上は自然に任せようと思い立ったのだ。この言い訳も半分は本心であるが、その元となったのは、慣れぬ作業に疲れた飽きた。という心である。いやしかし、こう見てみるとそのままというのもどうして中々、良いものだ。私のなんと、調子の良い男であることか。
そのように過ごしているうち、二人の訪れる日となった。心の準備は出来ていない。いつだってそうだ。正午を過ぎた頃、そろそろ着くとの連絡があった。そしてすぐにタイヤの砂利を踏みしめる音が聞こえてきた。当然であるが、運転席の座るAの隣には彼女がいた。その顔は当時からひとつも変わらない。私は湿る手の平をポケットに隠して出迎えに行った。
「だいぶわかりにくい道やったやろ」暫く使うことの無かった訛りが自然と出る。
「どこ走ってもおんなじ風景やけん迷っとんのかどうかも分からんかった」彼はその体躯には不釣り合いな小型車から降りて言った。
「よく見たら違うとよ」つま先で草を撫で、教えてやった。私は知っているのだ。
「本当はもうちょい早く着く予定やったっちゃけど」彼女も降車して、目一杯の背伸びをしながら「私が隣で道案内してるのに、こっちの方が早そうだなんて言って、変に遠回りしてきたんよ」。Aは聞こえないふりで大袈裟に体を振りながら荷台に回り込んでいった。「ひさしぶり!」と肩を小突かれる。私は反射的に久しぶり、と返したつもりだが、しっかりと発音出来ていたか定かでは無い。その事に気付いた私はすぐさま踵を正し、彼女へ正対した。「久しぶり」今度ははっきりと言えた。Aが両肩に運んできたボストンバッグの片方を受け取り、二人を玄関へと促す。
これから三日間、私の胸にゆっくりじっくりと杭が打ち込まれていく。
長い仲の者達が再会して話す事の相場は決まっている。最近はどうか、昔はあんな事をしたな、このようにたわいの無い話で過ごす時間がもたらす充足感は他に無い。Aと居る時の私は、自身でも驚くほどによく笑う。この友情は間違いない。本物なのだ。
過去、一度だけ彼を憎んだ事があった。嵯那と付き合い始めたと嬉しそうに伝えてきた時である。憎んで妬んで、考えた。するとその刃は、こちらを向いた。自己嫌悪である。彼の恋愛に私は何の関係も無い。何一つ表に出せず、勝手に好きになって勝手に苦しんでいるだけだと気付いたのだ。それでいてAを恨むなどと、今に至るまで私は、私という人間を決して許す事が出来ない。
だが私も相当に単純な人間のようで、二人との会話の楽しみの前ではそのような憂鬱も忘れられた。
「あれ、何か最近、また発見でもあったん?」土産の菓子をつまみながら彼女が訊くので、なぜそう思うのかと、「そこにほら、懐かしいノートが出してあるけん」今度は縁側に出している小さな台を指して言う。
私は以前より、何か思いついたり興味深いと思った事柄をノートに書いて集めておく趣味があった。庭の手入れの際、自然に対する発見をした時に出したままであった。「何日か前、庭を手入れしてる時に気付いた。というか思いついた事があっとよ」折角なので一つ話をしようと、ノートを手に取るついでに庭がよく見えるようにガラス戸を開いた。「枯山水ってのがあるやろ」私は身につけたばかりの、自然観と言おうか、それを発表した。新しい考えを二人に披露して、再確認と意見を貰い補完するという行為は珍しい事では無かった。
嵯那と友人の仲になった時、私は彼女にとって「彼氏の親友」であった。先述の如く私は対外的な悪意、それを内側へ向けるようになっていたので、彼女と会話が出来るならば良いではないかと、その立場を受け入れた。交際しているといっても学校内では側から見ればあの男女は仲が良いのだな、と思わせる程度で、幸い校内で馴れ合う事はしなかった。一般的な道理は弁えた二人である。Aとの普段の会話に彼女が参加するという事は少なく、特段、私の日常は変わらなかった。
だがある日、琴線に触れたのか、美術についての我々の話題に彼女が参加した事があった。これが彼女と初めて、会話と言える会話をした時であった。
彼女の、古今東西の絵画、彫刻に対する造詣は深く、あれが好きだこれが好きだという程度のAと私の会話を、美術史の授業にまで次元を引き上げてくれた。授業の中で私が強く記憶しているものがある。ルネサンス期、ミケランジェロの紹介である。私は彼女が見せてくれた本のピエタという彫刻の写真に釘付けになった。冷たく濡れたような大理石の肌は、その一枚下で脈を打っているかのようにさえ思えた。美しかった。私は忘れてはいけないと、あのノートを取り出して「ミケランジェロ・ピエタ」と書き込んだ。その使い込んでいるノートは何に使っているのかと彼女に聞かれ、人に見せるようなものでは無いが、変に隠して曲解されるのは嫌だったので、差し出した。
「本とか読んで考えた事とか、興味持った事を忘れんようにメモっとっとよ」
「へぇ、研摩ってまめな性格なんね。読んでみていい?」興味津々の様子であったので、どうぞと「これは、哲学?政治?私の明るい分野やないけど、この部分は面白いね」
「面白いというと」彼女が目を止めたのは、「人間の条件」という私の稚拙な論説であった。
「Interestingの方よ。ええっと、崇高なる倫理観と鋼鉄の自制心によって」
「音読しない!」咄嗟に止めに入る。
彼女はふふっと、からかうように笑ってみせた。私は顔に血が巡り熱くなるのを感じた。
「あ、私の話にも興味もってくれたん?」最新のページ、先程のメモに気付いた。
「嬉しい。ねえ、折角それぞれの得意分野があるっちゃけん、共有せん?」そっちの方が一人では気付けない発見もある。三人よれば、との美術の先生から提案である。
私にはその提案がとても魅力的に思えた。知的好奇心だけでは無い。嵯那と会話する機会を自然と得られた興奮を、若い私は無邪気に、それでいて静かに了承した。Aも討論を好む人間であった為、自分もノートをつけてみようかと言っていたが、三日坊主で終わるであろう事は私も嵯那も知っていた。
この時から私達は同じ話題に卓を囲む仲となった。
自然と不自然に関する発表が終わり、乾いた喉を潤しながら二人の思考を待つ。急拵えの、理論とも言えぬ発見であるが、我ながら気に入っているのだ。どのような考えを持ってくれるだろうか。
A曰く、植物の生育には多くの生物が関わっており、自然界に於いて孤立した種は存在しない。よって人類種を自然より切り離した達観的な、それこそ不自然な、神の視点での前提に始まっていると。人類の働きも自然の一部であり、むしろ人類の管理という働きが無ければ維持が出来ない動植物も存在すると。これは根底を揺るがすものであった。
むむむ、と顎を撫でる。確かにそうだ。私は恐れ多くも神の視点を取っていたのだと気付かされた。「確かに一理はあるっちゃけど、それを全面的に取り入れると根底が揺らぐ事になるけんね」なんとか反論を組み立てねば、しかしどうにも、浮いてこない。
そこへ、「定義上では人間も自然の一種族やけど、その特異性という事実を見たら、切り離して考えるのもそんなにおかしくないっちゃない?」続いて「多種族を家畜化、その生殖を管理して高度文明を築いた種族っていうのははあまりにも不自然やろ、よって自然、ここでは特に植物の生育やね。それを論じる場合は人類を自然の枠組みから外してもいいと思うよ」嵯那が論を広げてくれた。
「懐疑主義は真理への一歩である」私とAが胸に刻んだ言葉だ。思考は疑う事に始まる。
私達は他の事などどうでもよいとばかりに、地球に於ける人類の立ち位置についての議論を続けた。庭先の草木からここまで、大きく飛んだものだ。
ポットの湯も尽きた頃、ようやく議論も一応の着地をした。昼とも夕ともつかぬ時間になっていたので、昼食と夜食を合わせて済ませようという事となった。三人とも久々の討論会にすっかり熱中してしまい、料理をする気力も削がれていたので、そうだ。折角だからと私は、気に入りの店へ連れて行く事にした。
運転をしながらも私の脳内では、新たな意見が浮かんでは思い直し、考え直し、先程の議場に植えた苗があらゆる方向へ枝葉を伸ばしていた。だが、もう一度話し出したらまた食事どころでは無くなりそうであったので、堪えながら静かに考えていた。おそらく二人も同じであろう。無言の車内では熱い議論が展開されていた。
加えてその日は、A達も長距離の運転で疲れたのであろう。腹を満たして帰宅するなりソファで眠りだしたAを嵯那と一緒に二階まで引っ張っていった。
「こいつやっぱ酒飲めんかったよね」私の記憶が確かであれば、Aは相当な下戸で、酒の類を嗜んでいるところを見た事は無かった。
「久々に研磨に会えたけん、成長したぞって見せたかったとよ」何も変わってないのにね。嵯那はAを挟んだ向こうから歯を見せて笑う。私は、咄嗟に彼女から目を逸らした。
睡眠と覚醒の狭間に居るAをなんとか部屋までひきずり、嵯那に床を整えてもらった。
「じゃあ、おやすみ」
「うん、おやすみ」
襖をとん、と閉め、私は後悔した。
廊下を、階段を踏む足が浮く。一歩一歩、部屋から離れる度に二人の存在が薄らいでいく。実は誰もいないのでは、踵を返して確認してみようとも思い立ったが、それを止めるだけの理性は残っていた。あるいは臆病か、いや、二階を見上げ、「二人はそこにいるぞ」と再確認。
居る。しかし、そう意識し過ぎるというのも問題である。彼女が直ぐそこに居る。嵯那が居る。青年めいた心が浮かび、すぐさま沈んでいった。
疲れているのだ。何か、そうだ。先程の議論をまとめておこう。冷えた空気が思考を冴えさせる。ひとり居間で筆を執る。思考を文字に変換する事が出来ない。涙が、この時から私は日常を失ったのだ。眼鏡を置いて眉間をおさえる。
想定しておくべきであった。昔と変わらぬ自分を恨むと、左手のシャープペンシルがぎしぎしと悲鳴をあげている事に気付き、咄嗟に床へ落としてしまった。ため息を吐きながら拾い上げる。
すると何か、テーブルの向こう、柱にもたれてこちらを向く人影があった。
嵯那である。眼鏡をかけ直す。就寝の前に飲み物でも取りに来たのだろうか、ゆったりとしたTシャツに、紺色のガウンを羽織っていた。数秒か、もっとか、互いに目が合っても言葉は無かった。何か用かと私から訊こうかとも思ったが、上手く話す自信が無かったので彼女の言葉を待っていた。
何を言わんとしているのか、思っているのか、のぞいていると飲み込まれそうな黒の瞳がゆっくりと近付いてくる。その歩く様は、歩く先の全ての存在が彼女を畏敬し、道を譲っているかのようであった。私は怖かった。
だが、その恐れは立ち所に払拭された。テーブルの上に置かれた私の左手に、彼女が手を重ねる。柔らかい熱が全身へ伝わって行くのを感じ、頭に達したそれは、瞳から零れ落ちた。
もう、顔を見上げる事は出来なかった。私を哀れんで悲しい顔をしていたのか、励ましの微笑みを向けてくれたのか、今になっても分からない。
顔を上げた時、既に彼女は居なかったが、あの温もりは残っていた。彼女の授けてくれた守護霊であろう。私はいっときの安息を手に入れた。
鳥の鳴き声に目を覚ます。白い光が世界を照らしていた。半ば眠ったような状態で機械的に布団を仕舞う。意識がはっきりしてくると、昨夜の出来事を思い出した。左手の温もりは消えていたが、肌が感触を覚えていた。
すっと、掌を頬に添えてみる。いや、やめよう。
二人はまだ起きていないのだろうか、耳を澄ましてみても物音はしない。手元の時計を確認すると、なるほど、まだ6六時を過ぎた辺りであった。
癖で早々に布団を仕舞った事を悔やみながら、朝食の用意でもしようと、そろそろと足音を立てないようにして冷たい廊下を歩いて行った。
晩春も少し過ぎた頃、朝は少し冷えた。
いつ起きてくるか分からないが、いや、出来上がる前に起こしに行けばよいか、そのような事を考えながら顔を洗う。三人前ってどのくらいだ。いつもの三倍作れば良いか、何かアレルギーや嫌いなものはあっただろうか、忙しい朝である。
「買い出しに行かんと食材が無いな」冷蔵庫の中身を確認しながら献立を考える。考えはするが、そういくつも料理が出来るという訳でも無いので、結局はお決まりのものになる。
卵、砂糖は少なめ、牛乳、食パン。今日は四枚切り。食パンは軽く、焼き目がつかない程度にトースターで水分を飛ばす。他の材料を混ぜ、用意したトーストを浸す。
普段ならこの一品で済ますが、折角なのでもう一品。冷蔵庫の中身を確認する。
ベーコン。レタス。トマト。「サラダ。シーザーの気分」。
食パンの耳を切り取り、トーストーに並べて焼く。こんがりと焼けたら細かく、さいころ型に刻む。簡易クルトン。野菜を刻み、サラダボウルに盛っておく。
そろそろ二人を起こしに行こうと思った時、足音がした。Aであった。
「おう、おはよう」奥の居間からこちらに気付き、あくびをしながら挨拶をしてきた。
「おう。ほら、これ」水をコップに注いで手渡す。見たところ、二日酔いはしていないようだ。Aはありがとうと言って一気に飲み干した。
「山の水は美味いな。嵯那はまだ寝とるよ。朝ごはん?」
「冷やしただけの水道水や。それやったら起きるのもうちょい待とうか?」
時計を見て「七時か、うんにゃ、起こしてくるよ」
「買い出し忘れててあり合わせのもんやけん、あんま期待せんでね」コンロのつまみを回す。
バターをフライパンの上に溶かし、先程浸していたパンを焼く。じゅう、と音が響き、香りが広がる。焼いている間にサラダの用意を、卵を椀に割り入れ、水。レンジで、様子を見ながら少しずつ、半熟茹で卵の完成。
卓に皿を並べていると、階段を降りる二つの足音がしてきた。一つが駆け足に近付いて、耳打ちを、嵯那が何やら寝不足のようで機嫌がよく無いのだという。嵯那は日頃から寝起きが悪いのかと訊いてみたが、平常はそうでは無いという。
緊張しながら待っていたが、襖を開けて現れた彼女は何も、いつも通りの様子であった。艶やかな黒髪を解かしながら「おはよう」。私は彼女の服装が昨夜の記憶のものと同じである事に気付いた。
Aに顔を寄せ「なんだ普通やんけ」一体何を見てきたのか。
「おかしいなぁ、さっき起こした時はすっごい顔してたんやけど」きっと起こし方が悪かったのだろう。
「なんば話しよっと?」ガウンの腰紐を結び直しながら彼女が訊ねてきたが、興味はすぐに台所から広がる香りに移っていた。
「研磨が作ったん?」「良い匂い。早く食べよ!」Aに同意を求める笑顔を送り、そのままにこちらを向く。
「おう、配膳手伝ってくれん?」三人分の朝食を並べ終わると、日頃の食卓とは見違える華やかさがあった。
「いただきます」
「いただきます」
「いただきます」
二人から賛辞を貰いながら食べる朝食は一際美味であった。そして、怖かった。これからこの部屋で、一人で食事が出来るだろうか。
サラダを取り分けながらAが発見をした「あ、この皿お前のやつか」卓上の皿を手に取ってそう言った。
「売りもんやないよ。暇潰しのやつ」
Aは持つ皿には炎と本を、それと分かるか微妙なラインで抽象的に象った絵付けをしている。皿はあくまで料理を引き立てる脇役なのだ。「レイ・ブラッドベリ。まあ、完全に趣味やね」そう言って、燃える本の上にサラダを取り分けてゆく。
食後、食器を洗い片付けている時に、今日はこれから何をしようかという話題になり、先程の流れから自然と私の工房を見学するという事となった。
では、身支度を整えてから来いと、私は一足先に離れへ向かった。
昔は倉庫か、手伝の者が寝泊まりをしていたのであろう、敷地の奥にあった建物は今では私の工房として機能していた。陶芸家といっても世間が想像するような伝統の職人気質では無い。イマドキな電気窯である。私の作品は焼きでは無く、絵付けを主とし、そこへ評価を貰っている。
戸を開く。板敷と土間が半分づつという質素な室内は、すっかり私だけの空間に仕上がっていた。板敷の間には、手元に残しておいた自信作を欅の置床に並べている。この立派な置床は母家に残されていたものであったが、工房にも華が欲しいと、、引越しの際に業者の方へお願いして運んでいただいた。その判断は正解であった。
再び戸が開く。入るなりAは新しい住処に連れてこられた猫のように臆病で、それでいて興味津々の様子で室内を観察していた。
その猫が言うには「何か壊したら怖いけん」
「なんや、人の仕事部屋を地雷原みたいに」嵯那は支度ついでに荷物の整理でもしているのだろう。現れたのはAだけであった。
辺りを見渡していたAが、電気釜の横においてある箱を発見した。そして一番に「もったいない」と。
「お前は、昔から本当に、もったいないやつやな」金属製の箱には厚手のビニール袋を被せており、中には陶器の破片がいくつも入っていた。製作者の気に召さなかった悲しき作品の成れの果てである。
Aは昔から倹約家であった。誤解無きように加えておくと彼は決して、けちではない。あくまで倹約家なのだ。学生時代、彼の家へ訪れる機会があり、このような男の部屋はどんなものかと思っていたが、拍子抜けな程にさっぱりとしていたのを覚えている。
部屋の角に沿って曲がる大きな机の上にはノートPCがひとつだけ、その隣にベッド。対角には本棚が配置されていたが、教科書と辞書の類のみが並ぶ程度であった。元より、余分を持たぬ男であった。
私は一転。コレクター気質であった。自室では古本屋で掘り出してきた小説や画集が本棚を埋め尽くし、溢れたものは箱に詰めて保管していた。また、ロボットや車といった類の玩具に凝っていた時期もあり、やはりAとは対極に位置していた。
しかし、そのようなコレクター気質を発揮するのは自らが心より「良い」と思ったものに限られていた。Aに勿体無いと指摘された陶器は、良く無い。失敗作である。それを世に残さぬよう処分する事は至極当然と捉えていた。
「あ、そうか、昔よく話してたあの、ドキュメンタリーか」記憶を思い出すと同時に、Aは軽く笑ってみせた。人間の器は青年期に完成されるのだと。
Aの言葉が引き金となり、記憶を呼び覚まされた私もまた、「忘れてても、影響は受けとったみたいやね」同様に笑った。
幼い頃、夜中に目が覚め、なかなか寝付けぬからとふと、テレビを点けた。普段であれば何も無いなと、テレビを消して再び睡眠を試みる所であるが、その日は違った。イタリアか、フランスか、はたまたスペインであったか、何しろ寝ぼけ眼であった為、細かい内容は当時から記憶出来ていなかった。ただ、強い印象を受けたシーンだけは記憶しており、Aにも何度か話した事があったのだ。
国はこの際どうでもよい。ヨーロッパの、とある硝子細工工房のドキュメンタリー番組であった。エプロンをかけた職人が、解かした硝子を棒につけ、ぷうと吹いて形を整えていく様子が映し出され、その真っ赤なガラスへ違う職人がガラスを重ねてゆく、成形されながら徐々に冷え、不思議な模様が表面に現れた。完成した細工はベルトコンベアに乗せられ、最後の職人の元へと運ばれていく。
ここからである。最後の職人は険しい顔をした初老の女性であった。美しい硝子細工がゆっくり、ゆっくりと運ばれてゆく、そのどれも私の目には間違いの無い完璧なものに見えた。彼女はひとつひとつ、眉間に一文字の皺を刻みながら、手に取って眺める。
そして、足元に投げ捨てた。
なんという事だ。職人の作品を彼女は投げ捨てたのだ。ガラスの砕ける音の方へカメラが向く。破壊者の足元には金属製の箱が置いてあった。そして、その中には無数の硝子の破片が入っていた。
画面にテロップが表示される。撮影スタッフの質問であろう。
「今の作品はなぜ割ってしまったのですか?」
当然の問いだ。よくぞ訊いてくれた。女性はカメラに向き直って答える。
「それは、うちの作品としての水準を満たさなかったからです」両手にそれぞれ持った細工を見せる。
「ここに同じデザインのものが二つあります。片方は先程と同じく、水準に満たぬ為、再度溶かして作り直します」カメラはふたつの細工を画面に捉え、どこに不備があるのかと探しているようであった。
私も同じく、どのように見てもふたつは立派な硝子細工であるようにしか見えなかった。
「ここです」女性は左手に持った細工を指す。傷と皺が幾つも残るその指の先へ、カメラが寄ってゆく。どこだ。寄ってゆく。捉えた。直径1mmも無い気泡が硝子の中に封入されていた。あると言われて初めて気になるようなものである。
「少しでも、ほんの微かでも、私達の作品に不備があってはなりません。完璧で無ければいけないのです」そう言って再び、足元へ投げる。その衝撃が破壊したものはなにも、硝子細工に限ったものでは無かった。
嵯那は、破片を拾い上げてにやにやと笑う二人の男を訝しげな目で見つめていた。
「どうしたん。なんか、ふたりとも、気持ち悪い。怪我するけんおいとかんね」手を開いて見せて、破片を戻すように促してきた。三人の中では嵯那が最も精神的に大人であるように思えた。私とAは母親に叱られた子供のように渋々と、手にしたものを元に戻した。
入り口に向き直ると、青いシャツにタイトなデニムパンツを履き、虎の尾のようなベルトを締めた嵯那が朝日を浴びて立っていた。
「なんかまた、いかついベルトやね」嵯那に対しては学生時代の思い出が強く、思い浮かべる時は制服姿である事が多いのだが、確かにファッションに凝る女性であった。我々に教えてくれた美術の知識も、そこから発展して手に入れた知識である。
私が秘密のノートを見せた後、フェアでなければならないと、同じく嵯那の秘密のノートを見せてもらった。そこには、映画や雑誌の中でしか見た事の無いようなカッコイイ服のイラストと、その周りにびっしりと様々なメモ書きがされていた。私とAは、ファッション業界に行くのかと尋ねたが、答えはNOであった。自分の感性は自分の為にある。唯一無二であるから意味があるのだと。自己満足の美意識を持っていた。己を満足させる為の美意識。それはとても気高いものに感じられた。
世間、俗人には「自己満足」という語が悪であるかのような印象を刷り込まれている。私もかつては無意識の内にそう思わされていた。そうでは無いのだ。
懐疑主義は真理への一歩である。努々忘れる事なかれ。
「かっこいいやろ。本物の虎革では無いけど、それでも思った通りのやつを探すのは大変やったとよ」柱に手をついて、モデルのように格好を決めて見せた。鼻をふんと鳴らして得意げにポーズを決める嵯那と、カメラマンの真似をして盛り上げるA。この夫婦は相も変わらずである。
「ファッションショーじゃなくてこっちやろ」板敷の間に二人を上げる。欅の置床のある間である。試作段階の作品から最近のものまで、技術の高低に関係無く、気に入りのものをひとつずつ取り上げては説明、自慢をしていった。どれどれを考えてなになにだの、これこれのどこどこが良く出来ただの、平常は仕事関係や、友とも呼べぬ顔見知りとの簡単な挨拶程度しか口を開く事が無かった為、実に楽しかった。
Aと嵯那は優しく、相槌を打ちながら聴いてくれていた。この自慢話は以前より三人、もしくは二人で集った時には毎度のように話していたものであった。
精神的な独立性という要素に於いては私が一番劣っている。昔からそうであった。
私は一等、人に恵まれた人生を歩んでいると、そう思っている。私生活も仕事も、深く関わる人物は皆何かしらに長けており、不愉快を感じさせる事は無かった。なんという幸福であろうか、しかしそれ故に、私は常に、劣等感を抱かずにはいられなかったのだ。
私では私を満足させる事が出来ない。私の望む答えへと導いてやる事も出来ない。だからこそ、人生の偶然にしがみついていた。
「俺はなんでこんな事をしてるんだ」たまらず筆を置く。
時を現在に戻そう。小さな思いつきから始めたこの文章がカタルシスとして機能するのか、未だその効能は発現していない。寧ろ、意識しないよう努めていた記憶を見つめ直す事は苦痛であった。
縁側で陽浴びをしている鉢に紫の花弁が見える。翼を広げた天使のような、不思議な、美しい形の花である。
天使の羽が風に揺られ、彼女の姿が瞬間的に脳裏を埋め尽くす。どうしたものか。
二人が帰ってから二つの月を跨いだ。山々は夏を今か今かと待ち侘び、私はその豊かさに気圧され、食欲不振に陥っていた。これという主張の無いハンガーストライキ。
これではいかぬと口に運ぶが、すぐに腹を壊してしまう。私は幼い頃から胃腸が弱かった。ここまで酷いのは中学生の時に愛犬が亡くなった時以来である。あの時は胃を空にし過ぎ、逆流した胃酸で食道を痛めてしまった。
それ以来、空腹になると食道が締め付けられるような不快感を覚えるようになった。じわじわと広がる気持ち悪さ。
それでも、私とて心身の健康に関する知識は人並みに持ち合わせている。このままでは今の体調ばかりか、今後の余命まで削ってしまう事くらい、分かっている。
嵯那は、彼女が居てくれたら、いや、止めよう。ああ、これだ。私は未だ囚われている。髪を掻きむしって振り払おうとしても、決して離れる事は無い。私がそれを本能で否定しているからだ。
あの日、嵯那は教えてくれた。伝えてくれた。にも関わらずだ。私のなんと未練がましい事か。我ながら呪わしい。そう思う度に体の中を不愉快な感触が通る。
無理矢理、気を持ち直し、台所へ向かう。縁側をゆっくりと、左手には豊かな自然が陽に照らされている。豊か、私の庭は、荒れていた。
遍く照らす太陽を我が物とせんとする植物等は皆一様に天を目指している。上へ、より上へ、広く、より広く、足元の小さな草の事など、見えてはいない。
「なぜ同じ高さで咲かないんだ」ガラス戸を蹴り開け、裸足のままで庭へ降りて行った。
一番高く伸びた茎を掴み、へし折る。千切る。引っこ抜く。目につくものを端から端までそうしていった。そうすれば私にも陽が差すだろうと、いや、何も考えてはいない。本能的な破壊欲に身を任せ、破壊してまわった。
彼女が、彼女さえ!
つい先程中止した思考を既に再開していた。もう駄目だ私は。覚悟をすべき時なのかも知れない。
その為には、「物語を完結させなければな」まずはそれからだ。
土と緑色の汁がこびり付いた手を縁側に叩きつけ、草に擦り切れた足を踏石に目一杯の体重をかけて押し付ける。痺れと痛みに目が冴える。こうでもしなければならないのだ。
きっと私は邪鬼のような形相をしているだろう。
「愛だの恋だの煩い奴らが!」
私は書斎へ走り、そして、筆を執った。やらねばならぬ。
「覚悟ならあるさ。もういい。」
工房での話も尽き始めた頃、「あっ」思い出したように、家の周りを探検してみたいと嵯那が言い出した。
「猪が出るかもしれんよ」偶に作物を盗み食いする程度で、人に危害は加えたという話はこの辺りでは聞いていなかったが、用心に越した事は無い。Aも、素人が山なんて歩くものでは無い、と心配をする。
「ていうか、前に山で怪我したやろ。大学の時」Aのこの言葉は私には初耳であった。何があったのか気になったが、嵯那の返事に遮られた。
「大丈夫大丈夫。家の周りをちょろって見て回るだけやけん」この辺りの山に咲く希少な花を探したいのだと言う。私達の心配を他所に、荷物を取りに行ってしまった。
「あれはもう止められんよ。どうする研磨」
「俺達も着いてくしかないやろ、なんか出たらお前が囮な」二人で嵯那を追う。
嵯那が突発的に行動し、危ないからと私達が補佐に入る事は珍しく無かった。Aも同様に活動的な人間ではあったが、危険を避ける本能は持ち合わせていた。嵯那は違った。
目的達成の為には己の心身を二の次とするきらいがあり、周りの者は度々肝を冷やしていた。Aが言っていた怪我の件もこの為であろう事は想像に容易い。
それでいて自分以外には念を押しての心配を向けるのであるから、どうしても、彼女を先導する事は誰にも叶わなかった。皆、嵯那の背を見て歩いていた。
私が彼女を百人隊長と例えた時、危険な勇気と優しさを評してのものであったが、ローマ軍人の筋肉質なイメージが気に召さなかったらしく、であればパラス・アテーネーが良いと大きな訂正を求めた時は声を出して笑ってしまい、叱られた記憶がある。
心の内では納得していた。いま思う。
「おお、もし貴女が神聖なる女神であるのならば、かの英雄の息子テーレマコスを大海へと導いた啓示を、恐れながら私めにも示してくださいませんか」虚しいモノドラマ。
音も立てず、女神の神聖は破れた。Aよ、我が親友よ。私は君を忘れない。忘れられるのか、いや、忘れようが無い。
工房に来る前に準備を済ませていたのであろう。真白のボディバッグを肩に掛け、山歩き用の靴に履き替えた嵯那が屈伸をして待っていた。
「はええよ。寝起きから計画しとったやろ」私とAは未だ寝巻き姿であったので、嵯那が待ちくたびれて一人で行ってしまわないよう、大急ぎで身支度を整えた。
「もうちょい待って!あと一分!いや、三十秒!」
どたばたと廊下を抜け、玄関を抜け、なんとか、嵯那の準備運動が済むまでに間に合った。
「この辺りに崖とか、岩肌の険しい道とか無いかな」スマートフォンに表示させた衛生写真を拡大したり縮小しながら嵯那が尋ねてきた。
そういえば探検の目標は花であった。そういった地形に咲くものなのであろう。「衛生写真で森の中は見えんやろ」記憶を掘り出しながら答えを続ける。
「たしかね、あっち」陽に照らされる山を指して「俺も越してきた時に不動産屋にこの辺の地理を教えてもらったり見て回ったりしたっちゃけど、あっちはそんな感じよ。ちょっと歩くけど」
「あっちの方向、あっちの方向、写真じゃ見えんね。まあでも、研磨が言うなら、決定!あっちに直進!」嵯那隊長の号令の下、地理を心得ている私を先頭に嵯那、Aと並んで出発した。
十分ほど歩いたところで整備された砂利道が途絶えた。多少の回り道となっても開けた場所を選んで進んでゆく。
幼い頃に何度か、祖父母と共に筍や山菜を採りに山を歩いた事があった。私は自然の中にいて、あの時の祖父の大きな背中を懐かしんだ。
「そこ、木の根あるけん足引っ掛けんようにね」「ここ、地面に穴ほげとっけん気い付けて」
記憶の中で先をゆく祖父に倣い、先陣の務めをなんとか果たす。しかし、私自身それほど山道に慣れているという訳でも無く、かといって仮にも現地の者がすっ転ぶというのも大変な恥である。久し振りの再会でそのような記憶を持って帰られるのはどうしても避けたい。細心の注意を払って歩く。
土の沈む感触。落ち葉を踏みしめる音。緑の匂い。落ちた小枝の踏まれて折れる音。鳥の囀り。人の息遣い。足の疲れ。
更に二十分ほど、体感での時間はもっとずっと長かったが、歩いた先に目的地が見えた。
「全然ちょいじゃないやんけ」手頃な岩に腰掛けてAは「水筒持ってくりゃよかった」手足を伸ばして休めた。
「手ぶらで来るやつがあるか」私は鞄から水筒を手渡し「まあでも、思ったより遠かった。なんでやろ。こんな遠かったっけ」
日頃より運動などする人間ではないので、私もAの対面の岩に腰掛けて休憩を取った。
嵯那は疲れた様子を見せず、どこから取り出したのか、カメラのファインダーを覗いて辺りを注意深く見渡していた。
黒と灰色のゴツゴツと尖った岩肌を下地に、背の低い草花や苔が生えている。ここは周りの木々に隠されてあまり陽の届かない場所であった。苔の生えた岩の足元を見てみると、今にも途切れそうなか細い水の流れが走っていた。
一人で来た時、私はこの景色を美しいとは思わなかった。
あれは違う。あれか、いや違う。そのように呟きながら右へ左に観察している嵯那を視界に入れ、私は出発前に気になった事をAに質問した。嵯那が以前、山で怪我をしたという話である。
ありがとう、と添えて水筒を返しながらAは「嵯那は大学入った辺りから急に花に凝り出してね、大学二年だったな。ある花を見てみたいって言い出したとよ。蘭の一種で、なんだったかな」
「ウチョウラン」カメラを覗いたまま「野生のウチョウランを実際に見てみたいの」本人の訂正が入った。
一瞬を挟んで急に嵯那が振り向き、「見つけたかもしれん!」まだ確認する前から満面の笑顔ではしゃぐ。そしてずんずんと斜面を登って行くので、慌てて我々も続いた。
自然と話が切れ、それでどうなのだと三度目の催促をするのも恥ずかしく思え、その時も結局聞けずじまいであった。
「あの石の横にそれっぽいのが見えるとよ」嵯那が指差す先は地上から三メートルほどの断崖であった。その傾斜と不規則な岩の突起に加え、苔や草も茂っており、登って直接確かめようという気も起こらない。唯でさえ坂を登った先に立つ崖なので、足を滑らせたりなどしたらひとたまりもないだろう。この時、私とAは同じ不安を口にした。「嵯那、まさか登るとか言わんよな」彼女はにやりと笑った。
「さすがの私でもここを登ろうとは思わんよ。二人とも私がどう見えとっとよ」花を見つけたという地点の真下でカメラを構え、「紫色でね、天使が羽広げたみたいな形。それっぽいのが咲いてるんだけど、私も写真でしか見た事無いから確証がもてんのよね」じっと観察する。
私とAが目を凝らしてその先を探していると、「あれだ!」と写真を撮って見せてくれた。美しい薄紫の花弁は天使か、ローブを纏った女神を彷彿とさせる形をしている。なるほど。嵯那が探そうとする気持ちを理解出来た。
その美しさは儚さを帯びたものであった。人為的に交配させて作られた幾何学模様のような、派手な美しさには見た目に劣るであろうが、それでも何か、私の心を強く、優しく刺激する力を感じた。
後になって調べた事であるが、この羽蝶蘭という花は昔、その美しさから観賞用として乱獲され、同属のものも含め現在では純粋な野生種、自生しているものは絶滅危惧種に認定されているらしい。当時は綺麗だとのみ感想をもったが、私達はとてつもなく珍しいものを発見していた。
嵯那の、あの興奮の様子も頷ける。
頭上で咲いている花を図鑑の写真と幾度か見比べ、三人一致で「間違い無い」と認めた。
「よっしゃ!」嵯那が興奮を抑えられずにガッツポーズをしながら飛び跳ねるので、危ない危ない。Aが諌めた。私は嵯那がここまで興奮する様子を見るのは初めてであった。
なので「あれってそんなすごい花なん」訊いてみると嵯那は「研磨」真剣な顔で肩に手を置く。
「まじですごいやつよあれは」Aも続いて「よく知らんけど、すごいとは聞いとっぜ」私達は肩を三つ並べて頭上を仰ぎ見た。
私は顔の向きをそのままに嵯那と蘭とを交互に瞳を動かしたが、同様の美しさを持ち合わせているように見えた。それほどに美しい花であったのだ。
しばらくその花の下に腰掛けて色々な花の話をしていたが、正午を回った頃、慣れぬ山道の疲労感もあり、帰宅する事とした。この場所を忘れぬよう、手頃な石を三つ重ねて目印とした。
信頼の証として最も力も発揮するものは秘密の共有であろう。だが、その定義に当てはめれば私は二人を信頼していない事になる。
帰り道はAを先頭にし、来た道を辿った。行き道は殆ど足元しか見ていなかったので、改めて木々を見上げて歩いてみると、新たな風景に感じられた。
葉の間から差し込む白い光。黄緑と緑、茶色い樹皮。そして、嵯那。
前を歩く嵯那を視界の中心に捉え、背景に木々と光を収めた様子はさながらミュシャの絵画を思わせた。写真を撮りたい気持ちを忍び、せめて瞳に刻み込もうと見つめていた。
歩きながら考えていた。私の心には依然と靄がかかっている。美しい花も、生き生きとした緑達も、その力は一瞬の効果でしか無かった。何をしていても、本気になれない。注意を完全に向ける事が出来ない。
なんと言えば良いのか、思いつく言葉を並べても、それが的確な表現だとは思えない。どうにか、どうにか書こうと筆を執っても二重線ばかりが増えてゆく。考えて、思って、もういっそ自分の頭を叩き割ってみせようか、心臓を掻き出してみせようか、その血潮が描く模様こそが私の言葉なのでは無いかと、そのような衝動さえ覚えさせる強大な暗黒の瘴気に当てられていた。
嵯那がいる。目の前に、手を伸ばせば触れられる。
「それで何になる。感情で動くな。逃げるな。考えろ。」
知らん。私は彼女が好きなのだ。愛しているのだ。もう何年になる。十年。我ながら情けない。
「一方的だ。お前の個人的な感情や欲に他人を巻き込むな。」
ではこのままか、一生。残りの人生、変わらずに生きるつもりか。いつまでもいつまでも、小心者め、俺はお前を責め続けるぞ、それがお前の望みなのだからな。
「そんな頼みをした覚えは無い。黙れ。貴様がいなければ私はここまで」
元々は俺しか居なかった。その時は気楽で良かったよ。だが、どこで教えられたか、倫理だ論理だなどと、自分の身を守る為にお前のようなものが生み出されたのだ。
今となっては何の皮肉か、型に合わぬ歪な鎧を着込むからだ。お前の苦しみは俺の苦しみでもあるのだ。お前の矛盾を問い出したらきりが無いぞ。自覚はあるだろう。なにせ俺はお前だからな。
「崇高なる倫理観と鋼鉄の自制心を持って初めて人は人足るのだ。ああそうだ。分かるとも。俺の事だって分かっているだろう。」
必死だな。勿論、分かっている。俺はきっかけだ。お前がいる以上、俺がその域を出るのは余程の場合に限られている。そして、近いうちにその時が来るぞ。今度こそ、伝えろ。でなければ本当に俺が出るぞ。
「やめてくれ。もうやめよう。考えておく。」
またそれか。もういい。
気がつくと、私は嵯那の手首を掴んでいた。何も考えられない。理解ができない。体が固まる。彼女の細い腕を離すまいと握っている自分の手が見える。その一点から目線を上げる事が出来ない。その手は震えていた。少なくとも、そのように見えた。もしくは軽いパニックで視界が歪んでいたのかも知れない。
数秒か、十数秒か、止まった時の中で私は平静を取り戻しつつあった。だがそれと、目の前の状況を処理できるかは別の問題である。
「研磨?」「どうしたの?」嵯那が小さく声をかける。はっと目覚めて後ろへ飛び退いたが、手首を掴んだままでいたので、彼女を手前に引き寄せる形になってしまった。
息遣いを感じるほどの距離。ここに来て私はようやく完全な平常を取り戻した。「ごめん。足元に蛇がいるかと思って」折れ曲がった枯れ枝を指さして苦しい言い訳をした。その不自然さは嵯那も引っ掛かりを覚えたであろうが、とうとう追求される事は無かった。
Aは背後の様子に気付いていたようであるが、特に何をするでも無く、言うでも無く、そのまま歩いていた。彼の思考は時折読めない。
ふふっと笑いながら「ありがと。でも」枯れ枝を摘み上げて「この蛇に牙はないみたいよ」嵯那は帰るべき方向へ向き直った。
ここからの道中の記憶は無い。全く無いという事はないが、己の愚行について後悔と疑問の思案をしていた為に、精神と肉体が乖離していたのである。
先程私は、己の本能と理性。無意識と意識下を対決させていた。理性が本能を御していた頃もあった。だが今はどうか、さもしい肉欲に負け、あろうことか嵯那の肉体に掴みかかるなどという愚行を犯した。決して許される事ではない。神や仏や、嵯那本人が許したとしても私が許さない。
私は、私を許せない。すぐにでも土下座を、精一杯の謝意を嵯那に伝えたいという衝動に駆られる。そうすれば少しは許そうと思えるかも知れない。
そして同時に、そのような事をしてしまえば、今度はその行いを許せなくなるであろう事も分かっていた。何よりも、嵯那を困惑させてしまう。彼女の心を煩わせる事だけは避けねばならない。絶対にだ。この点に於いて我が理性は優勢を誇っている。
人の手で整備された道まで出ると、安堵を覚えた。我が家の瓦が木々の向こうに見えると、疲労感が押し寄せた。往復三時間ほどの探検であったが、私を疲れさせるには充分であった。
さっさと靴下も脱ぎ、軒下の水道で手足を流した。冷たさが心地良い。Aもズボンの裾を捲って隣へ立った。
手汗をかきやすい体質であったので、私は手足を洗う事が好きであった。肌の触覚が改められるあの、すべすべとした感触が気持ち良く、癖になる。外出の後なら尚更である。
濡れた足を投げ出して縁側に並んで座る。言葉は無かった。彼は何を思っているのであろうか、先程の行為、友人とは言え、自分の妻に他の男が接触すれば良い気は起こらないだろう。謝るべきか、しかし、それによって「なぜ」と訊かれた時に答える言葉は無い。
突発的な行動では無いのだ。いや、その動作自体は突発的であるのだが、それに至るまでに私は嵯那を知った日から十年。十年の歳月をかけ、遂に私の理性を一瞬ではあるが、飛び越えたのだ。
「なあ、研磨」
私は急に心臓を掴まれたような感覚に陥った。怖い。逃げ出したい。もし、考えている通りの事をAが訊ねてきたら、どうする。嵯那が居たら上手く間に立ってくれるだろうが、さっさと上がっていってしまった。自分の足の指を見つめながら、心細い気持ちで続く言葉を待つ。
「腹減ったな。昼飯どうする」
思考の停止。そして、笑った。なぜ笑うんだと訊かれたが、杞憂であったとだけ言った。どういう事だとAも笑う。私はいつも自己完結だ。今日はこれ以上、この事柄について考えないように努めよう。そう決心した。何度目の決心であろう。
腕時計をちらと見ると、なるほど既に昼時であった。先程朝食を摂ったばかりのようであまり食欲は無かった。いつもなら気分の乗らない時は食事を抜いていたが、Aと嵯那にそんな不健康を強要するわけにもいかない。「なんかあったか見てくる」手拭きで足を軽く払い、台所へ向かう。Aも続いて縁側に上がった。
台所へ向かうには居間の前を通る必要があった。帰ってきてから嵯那の姿を見ておらず、物音もしない。嵯那はどうしたかとAに訊いても知らぬ様子であった為、襖を開けてみると、嵯那は畳の上に丸まって寝ていた。
「おい。風邪引くぞ」Aが声をかけるが、んっと寝息を出すだけで起きる気配は無い。
「寝かしといたら?」疲れたのだろう。
しかしAは嵯那に顔を近付け「いや、寝たふりやろ。寝るならちゃんと寝なさい。」そう言ってじっと見つめていると、嵯那は堪えられなくなって笑い出した。この男は彼女の夫なのだ。
座布団を折り曲げてクッション代わりに抱き締めたまま、ゆっくりと上体を起こす。寝惚けている。体は起き上がっていても、目が全く開いていない。
「嵯那?」顔の前で手を振っても反応が無い。もしや、「また寝たか」Aと同時に呟いた。こりゃだめだ、とAは続ける。
「起きとーよ」机に顔を伏せた嵯那から声がした。ような気がする。もう何度か起きた寝た問答が続きそうだ。
押し入れからブランケットを取り出してAに渡し、私は居間を後にした。
古めかしい趣をそのままに伝える家であるが、水回りは以前の所有者によってリフォームされている。この台所は特に力を入れてあった。土間の土はコンクリートで固められ、所々にカラフルなタイルで模様が作ってあったり、肉球の型が外へ繋がっていたり、面白い工夫がされており、無機質な冷たさが上手く中和されている。
当然、かまども取り除かれて現代的なシステムキッチンが設置され、冷蔵庫や電子レンジといった調理器を設置する空間も十分に持たせてくれていたので、不自由は無かった。これが数ある候補からこの家を購入しようと決定した要因の一つでもあった。
ひっくり返った下駄を直して土間へ降りる。いちいち履くのは面倒でもあったが、買い物帰りの出入り口としても利用するので、許容せねばならない面倒であった。
昼食はあるもので適当に作ろうと、冷蔵庫に手をかけた所で今朝の記憶が帰る。
「買い出しに行かんとなんも無いんやった」しまったと額に手を当てる。勿論、本当に何も無いという事は流石に無いが、三人の食事を作るだけの食材は用意できていなかった。掃除に夢中で大切な準備を忘れていた。
どうせならA達と行った方が良いだろう。夜食や明日の分まで一気に買っておこうと思い、先程の居間へ向かった。明日の昼にA達は帰る予定である。そう考えると一人で居る事が急に勿体無いように思えてきた。孤独などいつどこだって感じられるのだ。向かう足が自然と早まる。
ゆっくりと襖を開けると、嵯那はすっかり目を覚ましたようで、その向かいでAはノートPCのキーボードを叩いていた。
「買い出しに行かんといけんちゃけど」Aへ顔を向けて「なんか仕事入ったん?」何も暇つぶしに扱っている様子では無かった。
「うん。さっき連絡が来て、俺がチェックせんと分からんって回されたんよ」作業を止めてこちらに目を合わせ、続ける「今度のは俺がリーダーやけんね。やけんごめん。ちょっと今こっちを処理せんといかん。急いだほうがよさげやけん嵯那と二人で行ってきて。すまん!」
この男は今、私に、嵯那と、二人で出かけてこいと言った。思わず驚きの声を漏らす。お前はそれでも夫か、知らぬとはいえ、自らの妻と恋敵を二人きりにするとは、彼は私と違ってそういったものを気にせぬ男であった。
「じゃあ一緒行こっか、研磨」心に囚われない者はもう一人いた。すっかり回復したようで、嵯那は行こう行こうと乗り気であった。
私は、想い人と二人きりという願ってもいない機会にひどく興奮していた。だがそれは本能の話である。理性はそうは言っていない。その喜びを享受してしまえば、私は今後、どのようにして生きれば良いのだ。何も知らないという幸福が欲しかった。
かと言って、ここで嵯那を無視して一人で行くという訳にもいかない。あの瞳からほんの一瞬でも光の消える。いや、一点の陰りが生まれる事さえ私には耐え難き苦痛であるのだ。自分で自分が嫌になる。ついさっきの決意が崩れ始める。
そして「まあ、仕方無いな。おっけい、なんか欲しいものあったら連絡して」崩れた。考えの纏まらぬうちにも時は過ぎ、場面は移り変わってゆく。
世界を俯瞰している気分になる。自分の意思とは関係無く、決して止まる事も無く、自らの実在が危うくなる。
車中は思いの外静かであった。お互いに口を開かない。私は元々口が達者ではないが、嵯那が黙っているというのは不思議であった。先程までは行こう行こうと言っていたのだが、何かあったのでは無いかとさえ疑ってしまう。だが、特にその表情は平常のものと同じであり、それが一層不思議であった。
どうした。何かあったのか。何か話しかけよう。あの花について話すのがよいか。口は一切動かぬというのに頭の中では様々なおしゃべりに備えた模擬訓練が行われていた。もしこの場を高校時代の私が見たら、ひどく落胆する事であろう。何も変わっておらぬではないかと。
時折、助手席の嵯那に目をやるが、口を結んで私の言葉を何か待っているように見えた。これは私の焦燥が生んだ勘違いでは無い。家を出て二十分程経った時、嵯那が口を開いた。
「なにも泣いてたのは昨夜だけやないっちゃろ。研磨の言葉を待つけんね。」
唯、きっとした、それでいて優しい声でそれだけを言って、再び口を閉じた。
私は驚かなかった。何故かはわからない。だが不思議と納得が出来た。思考に於いては理性が優位を誇っていた。
Aも気付いているのか、もしやその上で二人きりにさせたのか、夫婦で私の心を弄んでいたのか、いや、そのような事をする人間では無い。絶対に、そのような事はしない。
では何故、彼女は今、そのような事を言い出したのだ。私の言葉を待つとは一体、まさか告白を待つという事か。そんな訳が無い。彼女は夫を愛している。夫もまた、その仲は順調であると見えている。そうでありながら別の男の告白を待つなど、意味が通らない。どういう事なのだ。もしそうなのであれば、私は彼女を愛せなくなるだろう。そのような確信があった。
いや何を、私は何を邪推しているのだ。意味の無い事を考えるな。冷静に、考えろ。嵯那の言葉だけを意識しろ。
ふうと大きく息を吐き、私はこの土壇場に立たされて初めて冷静を得た気分であった。針が振り切れたのだろう。目的地を変更し、近くの公園へ車を向かわせる。
今思えば、この時の私は冷静では無かった。錯乱とも言える意識状態を無理やり人の形に押し込めているのだ。私は既に、飲まれていた。
嵯那もまた、冷静では無かった。何故この時であったのか、これから起こる出来事は、私にとって一生の謎となるだろう。
その日はよく晴れ、遠くの山々も近くに見えた。先まで広がる畑、民家、川。高台に位置したこの公園から町が見渡せる。その全てをこの手に掴めるかとさえ思えた。
その公園はかつては山城であったらしく、すこし登ると、建物の基礎か、背丈程の低い石垣が残っていた。この上にあるベンチが私のお気に入りの場所であった。本を読むも、音楽を聴くも、静かに風景を眺めるも良し。私の城だ。
そして今、この城には二人。私と嵯那。ここまで歩いてくる間にも、あの言葉きり何も話さなかった。私は頭の中で、一歩一歩と草を踏みしめるたびに、言うぞ、言うぞと決意を重ねた。思いもよらぬ機会ではあったが、直感が「ここしかない」と叫んでいる。もう逃げられない。言うぞ。私は彼女が好きなのだ。十年。彼女を想い続けた。全ての機会を自ら逃し、何も得られず生きてきた。もういいだろう。
目の前には、嵯那が立っている。以前として口を開かず、私の言葉を待っている。彼女の真意は分からない。だが、それでも、私は一歩前に出た。
私はこの出来事を悔い続ける事となる。
「俺の言葉っていうのが何についてなのかは分からないけど」緊張から口調が不安定になる。
「ずっと思ってた事を伝える。伝えます。嵯那、私は貴女の事が、初めて目にした時から好きでした。初めは容姿に惚れ、そして心に惚れました」堰を切ったように、考えより先に言葉が出る。
「しかし、愛だ恋だという感情は、世に言われるほど純血を保ったものではありませんでした。寧ろ、私を苦しめる要因でしか無かった。幸せを求めるが故に苦しみ、それでいて欲を捨てることも出来ない。知っての通り、私は弱い人間だから、貴女が申し訳なく思う必要はなにひとつとしてありません。それだけは確実に、言っておきます。」
顔が熱い。額に汗が滲む。何故このように凝り固まった口調になっているのだ。このような話し方など今までにした試しが無いぞ。
「貴女の心を煩わせる事、それだけは私の最も避けねばならぬ事でありました。その為に、本心をずっと押さえ込んで生きてきました。昨夜の涙はその休憩です」ここで思考が追いつき、言葉につまる。
「つまり、こうやって今話しているのも私の望むところでは無く、いや、望んではいたけど、こうじゃなくて、俺は、嵯那が大好きで」もはや涙は隠せなかった。必死に言葉を探す。違うんだ。もっと上手く、言葉が、分からない。
嵯那は未だ静かに立つのみであった。拒絶でもいい、何かを与えてくれないか、その顔は、一体何を思ってるんだ。
「もう無理だ。俺はさっき、山で嵯那の手を掴んだだろ、あれは無意識なんだ。知らぬ間に体が動いてた。頭のどこかにはいつも嵯那が居る。嵯那の事を考えてる。このまま後何十年生きればいいんだよ。もう分からない」分からない。
「今自分で何を言ってんのかも分かんない。もう嫌だ」これ以上は話せなかった。止めどない涙は露となり、その雫に揺れる草は私をどう思ったろうか。膝をつき、力の入らぬ腕で上体を支えながらも、顔は伏せた。彼女の顔が見れなかったのだ。何を思われたか分からない。私は今まで強い人間を演じて来た。それが彼女に見て欲しい私の像であったからだ。だが今はどうだ。情けない。こんな姿を彼女に見られるなど、耐えられなかった。怖いのだ。失望される。置いていかれる。嫌だ。一人にしないでくれ。
瞬く間に暗黒が私を飲み込む。液状化した大地に脚が、腕が吸い込まれる。ここに飲み込まれたらもう二度と這い上がれない。本能が逃げろと叫ぶ。しかしどんなに体を動かしても意味はない。むしろ自らを闇に引き込む手伝いとなってしまう。底なし沼。永遠の落下。誰か助けてくれ!
温かな光が見えた。白い熱が地上を浄化する。時の巻き戻るように、体が浮上する。声が、いや、鼓動が聴こえる。一定のリズムで、赤子をなだめるように響く。暗黒は立ち消え、光だけが残る。
嵯那が私を抱き締めていた。地に伏せた私に被さるように、包むように、両の腕を回していた。そして、言葉は無かった。彼女の体が震えているような気がした。私は己を恥じ、呪った。強く。強く呪った。
その日はよく晴れ、遥か遠くの山々さえも、この手に掴めるかとさえ思えた。
どれほどの時間が経ったろうか、私達はベンチに並んで景色を眺めていた。左に座る嵯那は、私の左肩に肘をついている。この感触が無ければ、私は再び暗黒に沈み込むだろう。
「ごめん」未だ顔を直視出来ないでいた。「こんな事を伝えるつもりは無かった」それでも、「話した事に嘘は無い」そうだ。嘘は無い。私は嘘をつかない。真実を話すか、話せないでいるかだけだ。
嵯那は何も話してくれなかった。いつもの元気はどうしたのか、何言ってるのと一蹴してくれないのか、嵯那。君は今何を考えているんだ。教えてくれ、その一言を言えなかった。
ふいに、私の肩をぐいと引き寄せて「私も真実を言う。研磨はずっと我慢して、耐えて、そして言ってくれたんだから、私も言わないとフェアじゃないから」嵯那はこう続けた。
「研磨の事は、あの人よりも前から知っとった。クラスメイトから、あの人絶対嵯那が好きやろって言われて、隣の研磨のクラスまで見に行かされた事もあったんよ。あんなにちらちら見とったら誰でも気付くやろうね。
当時の私は恋愛、人を好きになるっていう感覚が分からなかった。だから特に気にせんで、すぐに忘れた。
でも、疑問に思うやろ。ならあの人と何故付き合ったんだって、あの人の事も恋愛対象としては見てなかったの。いえ、語弊があんね。あの人と付き合った理由は、正直で悪い人に見えなかったから、折角なら体験として付き合うってものをしてみようって、唯の好奇心やったんよ。
そして、研磨と再会した。私はあの人からの好意を受け取りながら、その気持ちを少しづつ理解していったの。そうしたらね、研磨はどんな思いなんやろうって、そう考え始めたんよ」嵯那の声は震えていた。
「私はあの人を愛してる。私は人を愛する事を知ってる。でも、私の知るその愛は双方向からのもの。貴方のは、私は知っていたけど、答えてあげられなかった。貴方の苦しみを私は知る事が出来ない。分かるなんてそんな、無責任な慰めはしない。知りたくっても分からない。だから私は、貴方がそうしてくれたように心の中を話す。ごめんなさい。私も分からないの」肩に乗せられた手に力がこもる。
「もっと早く、貴方の気持ちを知った時に、しっかりと向き合えば良かった。そうしたらって、何度も後悔したの。貴方は良い人よ。幸せになって欲しい。貴方は私しか愛せないと、そう思ってるでしょう。それ以外の女性に恋心は抱けないと、だから十年も、一人で苦しんでいたんでしょう。私を気遣って、十年も」
「研磨、私の目を見て」言われるままに顔を上げ、嵯那の瞳を見つめる。漆黒の周りは真っ赤に充血していた。
「私は、どんなものも時の流れから逃れる事は出来ないって考えてる。変化を強要されるの。でも研磨はその秩序に逆らって、だから辛いの。この言葉が研磨を傷つけてるのは理解してる。今までの生き方を否定するのも。でも、このままじゃ駄目。私以外にも素敵な女性はたくさん居る。それを知らないだけよ。まだ間に合う。お願い。自分の幸せを考えて、私の事なんて気にしなくていいから。研磨。お願い」それはもはや、懇願のように聞こえた。
私という男は、嵯那になんという事を言わせているのだろう。
震える嵯那の体を抱き締めてあげる事は出来なかった。それは私の役目では無いと感じたからである。そして、私自身にそういった余裕が無かった為である。
嵯那の言葉。その全ては初めて耳にする内容であった。知っていたのだ。私の恋心を、そして、彼女もまた後悔をしていたと、そう言っていた。
私は一時期、Aを憎んでいた。その心はとっくに消え去ったはずであった。しかし私はこの時再び、Aの存在を鬱陶しく感じてしまった。これこそ私という人間の汚らわしく、つぎはぎの理性で覆った破廉恥な正体である。嵯那の思うような純粋な男では無いのだ。
私は彼女に相応しく無く、彼女は私には足りすぎる。合理は敵なのだ。
彼女は私を心から心配してくれている。だが、私の醜い部分までは見えていない。若しくは、触れないでくれている。それが、彼女を欺いているようで心苦しかった。そしてその醜さだけは、誰にも開示出来ない。
だから私は、自分の事はどうでも良かった。
「嵯那」
彼女を慰めたい
「心配してくれてありがとう」
その一心で
「分かった。俺も、変わる努力をしてみる」
初めて嘘をついた。
それが私の選択だった。。彼女がそうであるように、私は彼女の立場で考える事は出来ない。理解する事は出来ない。ならばせめて、彼女の意に沿おうと、そう考えるのは当然であろう。だがしかし、そう簡単に切り替えられるものでは無いのだ。
もし仮に、嵯那以上の魅力を私に感じさせる女性がおり、親密な関係に至ろうと私が努力したとする。その時、私は彼女に嵯那の姿を重ねずにいられるだろうか。嵯那だったら、嵯那なら、意識下にも無意識下にもその女性と比較してしまうだろう。
過激な表現をすれば代替品。私は嵯那の身代わりとしてしかその女性を見る事が出来ないだろう。それはその女性に対して、これ以上無い無礼である。道理に背く行為である。私はきっとそうなるだろう。
もはや私は、嵯那以外の女性を愛する事など出来なくなっていたのだ。よもや一種の呪いではなかろうか。愛は私にとって何よりも美しく、眩しく、そして、憎むべき対象であった。
だから、嵯那の言う通りにはなれない。どちらにしろ、苦しみと孤独を抱える者が生まれるのだ。ならばその対象者は少ない方が良い。私は、嵯那に初めて嘘をついた。
「あの人がどこまで知っとるかは知らん」嵯那は平常の様子に戻ろうとしていた。
「研磨の秘密の心やろうけん。私が話題に出す事はせんかった。あの人が話題に出す事も無かった。ねえ、なんでこんなタイミングで言ったのかって思っとるやろ?」
そうだ。何故、今なのだ。教えてくれ。
「それはね、なんとなくなんよ。今じゃ無くてもいい、いつかでいい、そのいつかを、今持ってきただけ。今だって思い立って、話した。それだけ」
その決断が功を奏したかどうか、そこまでは嵯那も言わなかった。嵯那にとってどのような意味を持ったのだろう。煮詰めていた心を開き、気分は晴れただろうか。その表情から読み取る事は出来なかった。
私の空は、変わらぬ雲模様であった。だがそれでも、嵯那の心が晴れたなら、それで良かった。
眩しく差していた陽が山の向こうから流れてきた雲に隠された頃、当初の予定を思い出した。
かつてこれほどまでに気まずい買い出しがあっただろうか。秘密を開示しあった私達は、更なる秘密を抱える事になったのだ。この雰囲気で、「よし、買い物いこっか!」あまりにも不自然。だが、ここは嵯那に習おう。今だ。
「嵯那、思いっきり空気を壊すけど、本来の目的、忘れとらんよね?」
振り向き、丸く目を開いて「そうやった。えっ、気まずいね。タイミング、ミスったかもしれん」
そうやってまた、私の心を撫でる。
まるで何事も無かったかのように駐車場へ歩いて行く。傍目には私達はデート中のカップルのように映るだろうか。そのような事を思いながら私は、嵯那の左後ろを着いていった。
あるがままに ガーベラ @shobotare11
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