第14話 罪とゆるし

イエス・キリストは十字架につけられて、私達の罪を被って死んだとかなんとか、聞いたことがある。

クリスチャンは、処刑道具だった十字架を、愛とゆるしのしるしに変えてしまった。

十字架を使ってひとを殴ることだってできたはずなのに、それを救いの証しとした。

神の子羊であったイエス・キリストは、私達に天国での復活の希望を持たせるためにこの世界に来たとか、そんなことを聞いた覚えがある。

結局は市民に「十字架につけろ!」と言われ、殺されてしまうイエス・キリストだが、3日後に復活する。

それがクリスチャンにとっての希望となり、からだの復活と永遠のいのちを彼らは信じている。


私達は、みな罪を背負った生き物だ。

キリスト教的に言えば、原罪というものがある。

それを信じないにしても、悪いことをしないで死んだひとなんて、胎内で死んだ赤ちゃんくらいしかいないだろう。

ひとを傷つけ、ひとを恨み、ひとを憎み、ひとを嫌って生きている、そんな脆いわたしたち。

この背負いきれない罪をゆるしてくださいと、私達は常に誰かに祈っている。

それはあるひとにとっては神様であり、あるひとにとっては友人や家族であり、あるひとにとっては自分自身だろう。

自分で自分の罪をゆるせないのが、ひとのいちばん悲しいところだ。


クリスチャンは死刑に反対するのだという。

それはこの世で罰を受けてほしいからではなく、たとえ殺人鬼であっても、いのちを奪われていい理由にはならないといったことかららしい。

死刑とは、ゆるされることのできなかった罪である。

生きていれば償うこともできたかもしれない罪である。

冤罪の危険性といった問題よりも、ひとがひとを―たとえ罪を犯したひとであっても―殺してはいけないといったことらしい。

殺すということは、抱えていた罪がゆるされるチャンスを奪うことである。


ひとを殺してはいけない、というのはコーランにも記述があるそうだが、モーセの十戒にも記述がある。

その理由で、クリスチャンは人工妊娠中絶にも反対するという。

親がこどもを育てられないなら、社会全体で育てればいい。

社会がどんなひとにとっても受け皿になるようにすればいい。

そのため、教会の門はクリスチャン以外にも開かれている。


愛されなくても、生きていい。

神様はあなたを見捨てないから。

罪を抱えていても、生きていい。

神様はそれをわかっていて、ともに重荷を背負ってくれるから。


そんなメッセージを彼らは伝えているのだろう。

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贖罪 @kazashi

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