夜笛と蛇
河北 ミカン
夜笛と蛇
他人よりも夢見がいいと、俺はそう思っている。
誰かにわざわざ確認したわけではないが、ここ数年は毎日のように夢を見ていた。夜だけでなく、たった十分程度の昼寝でさえ夢を見る。そこで目の当たりにするのは決まって一人。五年前に別れた、彼女の姿だ。
「――あ」
まぶたの裏まで届く眩い日差しで目が覚める。座席越しに届くリズミカルな振動が、今は母校に向かう電車の中だということを思い出させてくれた。
それから海に面したボックス席に一人で座ること十数分。街の中心部から離れた電車は俺を乗せたまま山間の道を抜け、海が望める高台の無人駅に停車した。
天井で首を回す扇風機が俺にそよ風を送ってくる。それをうなじで受け止めながら眺める車窓の景色は昔と大して変わっていなかった。
『扉、締まります。ご注意ください』
若い車掌のアナウンスが車内に響き渡り、それを合図に扉が閉まった。連日の酷暑も相まって、八月の昼間にこの小さな無人駅を利用する客は一人もいなかった。俺のいる車両には他に五人程度しか乗客がおらず、俺も含んだ全員が市街地の駅から乗ってきた客だ。
熱気の侵入を許しただけの扉が閉まると、電車はゆっくり動き始める。次の停車駅まではたしか二分程度しかなかったはず。高校時代の経験を思い出し、俺は乗降口の前に移ることにした。
駅を出発した電車はほどなくしてトンネルに入っていく。暗闇に染まった窓には車内の照明によって俺の姿が浮かび上がった。高校への通学でこの路線を使っていた二年前の制服姿とは異なり、紺色の半袖シャツに首から玩具の笛をかけたおかしな格好だ。窓に映る自分自身と睨み合うのも嫌だから、俺は首にかけた笛を見ることにした。
銀色のそれは枝のように細長く、親指と人差し指でちょうど摘まめる程度の大きさだ。普段からずっと持ち歩いていたおかげで、昔と比べて擦り傷がかなり増えている。
「睦美」
この笛をくれたあの子と別れて、もう五年が経とうとしていた。大学生には似合わないかもしれないが、俺にとっては一番大事な物だ。こうして肌身離さず持っておかないと気が済まなかった。傷の増えた表面を撫でていると、不意に陽射しが反射してくる。どうやら電車はもうトンネルを抜けて駅に近づいていたらしい。窓の外を見ると、さっきと同じ無人化した駅舎が現れていた。
『城山、城山です。お出口は左側です』
車掌の合図で扉が開いた途端、俺の胸を透明な塊のような熱気が撫でた。高校に通っていた頃よりも格段に不快感を増した暑さとセミの大合唱が、ホームへ出ようとした俺の足に待ったをかけた。
「はぁ。これでどうでもいい話だったら許さないからな」
俺を呼び出したあの後輩に恨みをぶつけ、誰もいないホームに足をのばす。
扉を越えて右足がホームの黒い地面に触れる。足も腰も胸も首も顔も、夏の熱気に包まれていく。そして車内から外へ顔を出した瞬間、俺は見た。
眩い日差しによって白んだ視界。熱に揺らいだ遠くの地面に立って赤い傘を差している一人の少女。それは五年ぶりに目にする辻崎睦美の姿だった。
「むつ、み」
耳を隠す程度に切り揃えられた遊びのないショートヘアと、絶えず周囲に視線を巡らせる落ち着きのなさ。中学の白い制服を着て、左右の手に赤い傘と学校指定の鞄を持った姿を俺が忘れるわけがない。暑さで茹だった頭はむしろ冷静になって、これが幻だと気づかせてくれた。
なにせ俺の目に映る睦美の姿は、俺と睦美が別れた日のままなのだから。
みーん。みんみんみん。
みーん。みんみんみん。
みーん。みんみんみん。
「……あ」
騒がしいセミの声で視界に色が戻る。慌てて息を吸ってからもう一度遠くを見ても、彼女が立っていたはずの場所にはもう誰の影も無かった。それどころか背後に停まっていたはずの電車はとっくに出発しており、単線ホームにはいるのは俺だけだ。
着ている服が発火しそうなほどの陽射しから逃れるために木造の駅舎へ入れば、誰もいない改札が俺を迎えてくれる。高校に通っていた頃は白髪の男性駅員が一人だけいたような覚えがあるが、今はもうその姿もない。通路の真ん中に置かれたICカード用の改札機を通っても、隣の駅員室から挨拶の声は聞こえてこなかった。無人の駅舎を横断し、ホーム側とは反対の出口へ向かう。外に出てしまえばまたあの猛暑だ。気は進まないが、ここまで来た以上は街に戻るのも面倒ではある。
「はぁ。行くか」
駅舎から目的地の高校までは別荘地になっている道を十分ほど歩かなければいけない。道のほとんどが木陰になっているおかげで陽射しを直接浴びる羽目にはならないが、それでも母校の校門をくぐる頃にはシャツが汗まみれになっていることだろう。
「眞田(さなだ)のやつ、もうちょっと優しくしてくれないかな」
体力と精神を一秒ごとに削ってくる猛暑に恨み言を吐き出さずにはいられない。そもそもファミレスや喫茶店が充実している市街地ではなく、小さな高校と誰が住んでいるのかも分からない別荘しかないこんな場所に呼び出す必要とは何なのか。
もし尋ねるとすれば、それは本人に聞くしかないだろう。
「で、どうなんだ?」
駅舎を出て二分。自販機の前で気持ちよさそうにペットボトル入りの清涼飲料水をラッパ飲みしていたのは、俺を呼び出した張本人――眞田佳織だった。学校指定の白ワイシャツを着た彼女は足元に鞄を置いたまま胸元のリボンを少し緩め、ペットボトルの中身を美味しそうに喉へ流し込んでいる。眞田と会うのは卒業式以来だが、どうやら相変わらず元気そうだ。
「ん? あ、高村先輩じゃないですかー。なんだかぜんぜん変わってませんね」
俺のことに気づいた眞田はペットボトルから口を離すと、ポニーテールにまとめた黒髪を揺らしながら片手を振ってきた。
「お前なんでここにいるんだよ。学校に来いって話だったろ」
「いやー、すみません。学校の用事が意外とすぐに終わったんで。それにほら、高村先輩も歩かなくて済んだじゃないですか」
そう言って純粋な笑みを眞田が見せてくる。にへ、という効果音が似合いそうな顔を前にすると、これ以上問い質す気は失せてしまった。仕方がないのでそばにある自販機で俺も麦茶を買い、眞田の隣でキャップを開ける。ペットボトルの中から溢れ出す香ばしい匂いに、肌に張り付くような熱気は多少和らいだような気がする。
「で、なんでこんな暑い時に呼んだんだよ」
麦茶を一口飲んでから隣の後輩に聞いてみる。電車で二時間以上もかけて地元に帰ってきたのは、この後輩に『頼みがあるので帰ってきてください』と呼び出されたからだ。だが、呼び出した張本人は俺の隣で首を傾げていた。その反応に、どうしても嫌な予感を抱いてしまう。
「言ってませんでしたっけ」
「言ってないな」
眞田がしたことといえば、卒業から一切連絡を取ってなかった先輩のスマホに大量の着信履歴を残した挙句、頼みがあるから地元に帰ってきてほしいという一言だけだ。
この後輩の向こう見ずなところは二年前からちっとも変わっていなかった。
そんな眞田は俺の指摘にそうだったかーと呟き、
「安心してください。今年の灯籠祭り、一緒に行きましょうっていうだけです」
と、親指を立てて自信満々に言ってみせた。
灯籠祭りとは毎年の夏に行われるこの街の恒例行事だ。街の中心部を流れる柳川に色とりどりの灯籠を流すというもので、祭りのクライマックスを彩る海上打ち上げ花火と併せて観光客からの人気も強い。川沿いにはいくつもの屋台が出ており、この街の子供なら誰しも一度は足を運ぶイベントだ。俺も小学生の頃から何度も遊びに行ったことがある。
「今さら祭りって、何回も行ってるだろ」
「えー。いいじゃないですか。アタシも半年後には卒業だし、それまでに行事とかはしっかり堪能しておきたいんですよ」
こちらを見据える眞田の目は瞬き一つしていない。夏の熱気も相まって、その圧には頷くしかなかった。だが疑問はまだ残っている。
「それは分かったけど。でもなんで俺なんだよ。お前、けっこう友達多いだろ」
俺が交友関係をあまり積極的に広げないのに対し、眞田は中学の頃から先輩後輩といった括りを気にせずに動き回るタイプだった。そんな人間が高校最後の年の祭りにクラスメイトではなく俺を誘うとは、どういう目的なのか。
そう思って尋ねてみたものの、最初に返ってきたのは大きなため息だった。
「はぁ……先輩は後輩の気持ちが分かってないですね。高村先輩には昔からお世話になってましたから、こうして誘ってあげたんですよ。あと、友達と行くのは正直言って飽きました」
「お前のそういうスパッと考えられるところ、本当にすごいと思うぞ」
「いやー、褒められても何もでないですよ」
眞田が絵に描いたような照れ笑いをする一方、俺が出てきたばかりの駅舎の方向からは小さなアナウンスの声が響いてきた。それは上り電車、すなわち市街地に向かう電車の到着を示すものだ。
「やば。早く行かないと」
足下の鞄を手に取って駅舎へ走る眞田に、俺もペットボトルをズボンのポケットに突っ込んで、その白い背中を追いかける。ゴールテープを切るように無人改札を抜ければ、目の前の単線ホームには数分前に見たばかりの普通電車が入ってくるところだった。
「相変わらず本数は少ないのな」
「田舎ですからねー」
一時間に二本しかやってこない電車に愚痴をこぼしつつ、俺は眞田と一緒に近くの乗車口から電車に入る。ここまで来た時と同様、車内には乗客の姿がほとんどない。俺と眞田を除けば、その数は三人だけだ。
「それで今年の祭りっていつだよ」
冷房の効いた広々とした車内は座席を選びたい放題で、ちょうど一人分の間を空けて俺は眞田の隣に腰を下ろす。座席に座るとすぐにポケットからスマホを取り出した眞田は、そのままカレンダーアプリの画面を俺の方に見せてくる。今日が木曜日で、『灯籠祭り』という名前で予定が入っているのは三日後、日曜だ。
「先輩のことだから何も予定入ってないと思いますけど、ちゃんと来てくださいね?」
「先に言っておくけど、鬼電だけはやめろよ」
「もちろんですよ」
本当に分かっているのか不安な返事だが、今は大丈夫だと信じるしかない。
それに眞田の言う通り、地元で何かする予定なんて一つもない。地元を出て一人暮らしを始めても大学と部屋の往復しかしていないのだから、これはもういつものことだ。
そうこうしているうちに電車は駅を出るとすぐトンネルに入り、向かい側の窓には俺と眞田の姿が浮かび上がる。隣には懐かしい高校の制服姿があるのに、俺は一般人としか形容できない無地のシャツとデニムズボンだ。高校や中学に通っていた頃は制服を着るだけで自分の身分も何もかもを示せたというのに、今の俺はそんなものを一切持ち合わせていない。
「あの、先輩」
トンネルを抜けてしばらく経った頃、不意に隣から声が飛んできた。それは遠慮を固めたような小さな声で、
「辻崎先輩のお家には、もう行ったんですか?」
「……いや」
窓の向こうと隣にいる眞田と目を合わせず、俺は自分の足を見ながら答える。次いで聞こえたのは納得するような溜め息だった。
「私が言うことじゃないかもしれないですけど、さすがに一回は行った方がいいんじゃないですか。もう五年ですよ」
「そうか。そんなになるのか」
脳裏に浮かんだ雨の日の景色が、五年も前のことだとは思わなかった。なにせまだ頭の中には色彩豊かな記憶が残っている。睦美の姿も睦美が差していた傘の色も睦美と通った川沿いの景色も、全て。
◆◆◆
辻崎睦美と出会ったのは中学生の時だった。
周辺地域の小学校を卒業した子供たちが地元では一つの中学校に集められるのだが、その中でも睦美はひときわ目立っていたのを覚えている。
「おはよう。えっと……高村蓮くんだったよね。これから一年よろしくね」
「こっちこそよろしく。それって、ボランティアか何かなの?」
そう言って俺の隣の席に座った少女の両手には、どこから拾ってきたのか分からない土まみれの雑誌やら空き缶が抱えられていた。ゴミ拾いをしながら通学してきたとしか思えない少女の姿に周囲の生徒は困惑して距離を開け、俺も思わず椅子ごと後ろに下がってしまう。だが睦美はそんなことを微塵も気にしていない様子で言った。
「ゴミ拾いってわけじゃないんだけどね。公園とかに置き去りにされてるのを見たら放っておけなくて」
あはは、と笑ってみせた睦美は、それからも通学のたびに様々なゴミを拾い集めてきた。最初の二日間はやんわりと注意するだけに留まっていた担任も三日目には自宅に持ち帰るよう厳しく言いつけ、通学路が同じだった俺は成り行きで手伝うことになったのだ。
睦美が集めるモノは日によってさまざまだった。通学路に落ちていた飲みかけのペットボトルや数か月前に発売された雑誌の時もあれば、どこから拾ってきたのかも分からない蛇やセミの抜け殻を両手に抱えて、机の中を物置のようにしていたこともある。クラスメイトや教師の大半はそんな睦美から次第に距離を離しつつあったが、俺を含めて眞田や一部の生徒はそうしなかった。
他人がどう思っていたのかは知らない。ただ、睦美の手伝いをして過ごす時間が俺にとっては退屈しない、居心地のよいものだったことは確かだ。
「そんなに大量に拾ってきて、どうやって持って帰るんだよ」
と聞けば、
「心配しないで。コツコツ両手で持って帰るから」
と、親指を立てて自信満々で答えられたのは、俺が手伝うことを決めた一番のきっかけだろう。ただし、
「持って帰ってどうするんだよ。捨てるなら別に学校でもいいだろ」
「違うよ。ちゃんとまだ使えるものは使うし、そうじゃなくても大事にしないと。ほら、これだって金運アップになるらしいよ」
そう言って蛇の抜け殻を手渡された時は、思わず投げ捨てそうになってしまったが。
◆◆◆
『――ます。お出口は右側です』
ノイズ混じりのアナウンスで顔を上げる。窓の外は既に明るく、そこには見知った街の景色があった。高校の帰り道で電車から降りる時に見る景色は昔も今も変わっていない。どうやら家の最寄り駅に着くまでの十五分近く、ずっと記憶に浸っていたらしい。
「じゃあ俺はここで降りるから」
席を立ちながらそう呟いて、俺は開いたばかりの乗降口へ向かう。
「先輩、祭りのことはまた連絡しますね」
「ああ」
背後から投げかけられた後輩の声に片手を挙げつつ、電車を下りる。冷房の効いていた車内とは違い、相変わらず外は気が重くなるような暑さだ。駅前で買った麦茶はもう温くなり、喉を通しても涼しさは感じられなかった。
動き始めた電車の駆動音に背中を押されるようにして、改札階へ続く階段に足を出す。
誰もいない薄暗い駅舎を進む中、頭に浮かんでくるのはどうしても五年前の帰り道のことだ。学校からの帰り道は中学でも高校でも道の途中に柳川沿いを歩く時間があった。
そこは五年前まで睦美と一緒に歩いていた道でもある。川沿いに並ぶ木々や川面を行き交う鳥や魚の姿、その変化は睦美の姿や声と共に記憶に残っている。
だが、彼女の足音も話し声も耳には届いてこない。あるのは、川の流れる音と蝉の鳴き声だけだ。
ペットボトルの中身を空にして歩き続けること数分、柳川に架かる橋の一つが見えてくる。中学の頃はここまで睦美と一緒に歩いていたが、睦美の家は橋を渡った先だ。彼女の家に遊びに行かない時はいつもここで別れていた。たまに睦美の妹が迎えに来る時もあったが。それも五年前のあの日までだ。
「――はぁ」
橋の手前で足を止め、肺の空気を入れ替える。こうすることで少しは昔に戻れるかもと思ってしまう。この空気があの日――睦美と出会って三年目の夏と同じものではないと分かっているのに。道を外れて川岸に降りる階段へ足を向ければ、川岸を彩る夏草の緑が目についた。あの日は灰色の雲と茶色の濁流が空と川にあり、こんなにも夏らしい景色ではなかったはずだ。
あの日、自分の傘と拾った傘を両手で差しながら睦美は橋のたもとで俺に言った。
『それでさ、今度は一緒に灯籠見に行こうよ』
『行けたらな。ていうか、妹がいるなら一緒に行けばいいだろ』
『かもね。でもあの子も友達できただろうし、私がより友達と一緒に行った方が楽しいと思うけど。それにお姉ちゃんっ子過ぎるっていうか、私が家を出た時が心配なんだよね』
買ったばかりだという新品の赤い傘と拾い物の汚れたビニール傘に大粒の雨が激しく叩きつける。睦美は脇に挟んだ制鞄を落とさないように四苦八苦しながら笑みを浮かべた。それが灰色の空や茶色に濁った川よりも温かな笑みだったことは今も覚えている。
橋を渡り始めた睦美は両手に持った傘を左右に揺らして、先に歩き始めた俺の方に手を振ってくる。こういう大雨の日ぐらいは睦美の物拾いも役立つらしい。
そんなことを考えながら俺は家に続く道を一人で歩いた。普段なら飽きるほど聞こえるセミの声もあの日は雨音にかき消されていた。聞こえるのは自分の足が水溜まりを踏みつける音と、四方八方から聞こえる雨音だけだ。それがとても寂しくて、普段ならしないのに橋へ戻ったことは覚えている。
一つだけ確かなことは、あの日を最後に俺は睦美と永遠に別れたままということだ。五年が過ぎてもそれは変わらず、目の前にある川もあの日より綺麗だというのにどこか物足りなさを感じてしまう。
もし、あの頃に戻れるなら。
何度そう願っただろう。叶わないと分かっていながらも、五年間ずっと願わずにはいられなかった。川岸に続く階段を下りながら川面の青と岸を覆う夏草の緑を見比べる。どれだけ近くにあっても混ざり合わない二つの色を見ていると、少し憂鬱な胸の内も穏やかになるような気がする。そして階段の下に広がる砂の地面に足を乗せた時、不意に鋭い音を聴いた。
小さく、鋭い音色。鳥やセミの鳴き声、川のせせらぎや自動車のエンジン音とはまるで違うその音が俺の鼓膜を震わせる。
「笛?」
そう。これは間違いなく笛の音色だ。一体誰が吹いているのか。周囲を見渡そうとして、俺の目はそれを捉えた。今まで気づかなかったことが不思議に思えてしまうが、生い茂る夏草の向こうに人影があるのだ。
水際にしゃがみ、鳥が飛ぶたびにその方向を見る落ち着きのなさ。耳のあたりで切り揃えられたショートヘアと見覚えのある中学の制服。それはついさっき城山の駅で見た姿と瓜二つで、今までずっと頭の中に浮かんでいた彼女の姿と同じだった。
「睦美!」
両足はもう睦美の背中に向かって動き始めている。腰上あたりまで伸びた夏草の茂みを勢い任せで突き進み、彼女の背中を目指す。足首や腕の皮膚が草で切れるのも今はどうでもよかった。
茂みを抜けると、やはり中学の頃と変わらない睦美がそこにいた。俺のことに気づいていないのか。膝を曲げてしゃがんだ彼女はずっと川面を見つめている。それでもこうして睦美と出会えたことが、そばにいられることが嬉しかった。
「……はは、お前に会えるなんて。夢だったらどうするんだよ」
まだ整理のつかない思考回路が頭に浮かんだ言葉を口からそのまま垂れ流す。きっと彼女は幻だろうと、そう思う気持ちがある一方で、これを夢や幻で終わらせたくないという気持ちもまた本物だった。
なら、確かめるしかない。しゃがんでいる睦美の背中に一歩近づき、その小さな肩に手を伸ばす。そして肩をポンと叩こうとした瞬間、
「あ」
消えていた。睦美の姿が。電源が落ちるように、本を閉じるように、パタリと。
その呆気なさに俺は息を吐き、膝を折ることしかできない。数秒前まで弾んでいた感情も一気に静まり返っていた。睦美の姿が幻覚だと分かってはいても、やはり目の前で消えるのは心をひどく締め付けてくる。
もうこれ以上こんな思いはしたくない。だというのに、睦美と過ごしていたあの時間に戻りたいという思いは消えないのだ。
「本当に、どうしようもないな」
あまりの情けなさに、水面に映る自分の顔にそんな言葉を吐いてしまう。その時だ。
「まさかと思ったけど、本当に蓮さんだ」
背中越しに受けたその声で、脳の奥底に溜まった記憶が掘り起こされる。妙に距離感の近い言葉遣いにどこか懐かしさを覚えながら、俺は後ろを振り返った。
「君は」
そこにいたのは、今まで見ていた睦美よりもやや背の高い少女だった。肩までかかる黒髪を風に揺らし、夏らしい白のワンピースに斜めがけの鞄を携えた少女は、ちょうど眞田と同年代のように見える。そんな少女は俺の顔を見ると、嬉しそうに一人で微笑んだ。
「お久しぶりです」。
「君はたしか、睦美の妹の」
「紫音です。お姉ちゃんのこともまだ覚えていてくれたんですね。よかったです」
そう言って安堵の息を吐く少女。その言葉に俺はすぐ一人の少女を――具体的には睦美の背後によく隠れていた妹の姿を思い出した。
「また会えて嬉しいです。蓮さん」
◆◆◆
「佳織ちゃんから蓮さんが帰ってくるって聞いた時はビックリしました。蓮さんも皆みたいに、お姉ちゃんのことはどうでもよくなったんじゃないかと思ってましたから」
橋の真下へ歩きながら紫音はそう言った。たしか眞田とは中学時代の同級生だったはずだ。それ以降の進路については知らなかったが、きっと眞田とは今も交流があるのだろう。俺と再会したことがそんなに嬉しいのか。安堵の笑みを携えながら、紫音はしきりに鞄を撫でている。
「本当によかった。蓮さんも私と同じ、お姉ちゃんのことがちゃんと見える人で」
「私『も』って……。いや、そもそもさっきのは」
ただの幻覚や妄想だ。そう口に出す寸前で紫音は足を止めた。ちょうど橋の影に入ったところで紫音はぐるりと首を動かし、
「もしかして蓮さんも、妄想だって言うんですか?」
橋の影にあってもなお目立つ黒の瞳が俺を見上げる。その表情は穏やかなものだが、冷淡な声色に喉が締め付けられるような感覚がする。
「違いますよ。お姉ちゃんはちゃんと私のそばにいます。ほら、先輩も見てください」
穏やかな笑みを浮かべてそう言うと、紫音は鞄の中に手を入れて何かを取り出した。細長い帯にも紐にも見えるそれが蛇の抜け殻だと気づいたのは、似たようなものを睦美にかつて手渡されたことがあるからだ。だがあの時とは異なり、妹の紫音が取り出したのは三匹分の抜け殻だった。
一体どこでどうやって集めたのか。なぜこんなものを見せてくるのか。疑問が次から次へと浮かぶ俺の目の前で、紫音は抜け殻をうっとりと見つめながら地面に重ねていく。
「お姉ちゃんにもらった蛇の抜け殻、ずっと大事にしてたんです。御守りみたいに持ち歩いてたら、その年の冬にはお姉ちゃんがそばにいてくれるようになって」
「そばに?」
はい、と紫音は頷いた。
「お家に帰ってきてくれたんです」
「じゃあ五年前から」
「はい!」
そう言って紫音は心底幸せそうに抜け殻を撫でる。俺はせいぜい睦美にもらった笛を身に着ける程度で、蛇の抜け殻を集めて持ち歩くことはしていない。それでも自分と似て、睦美をずっと思い続けている人がいたと知れたことは素直に嬉しかった。
「こうやって抜け殻とか皮を集めたら、一緒にいられる時間も増えたんです。昔はすぐどこかに行っちゃってたけど、最近はずっと一緒なんですよ」
重ねた抜け殻の前で膝を曲げ、紫音は祈るように俯きながら両手を組んだ。川のせせらぎや近くの道路を走る車のエンジン音も今の紫音には届いていないらしい。それほど熱心に祈りを捧げる紫音をそばで眺めていると、この場が祭壇にでもなったかのように思えてしまう。
「蓮さんもどうぞ」
「いや、俺は」
「信じられないですか?」
こちらを見る紫音の目を前にして、そうだ、とは言えなかった。
もし頷けば紫音を少なからず傷つけることになるだろう。久しぶりに会ったばかりだというのに、睦美の妹にそんなことをする気にはなれない。しかし何もかもを信じる気にもなれないのは確かだ。さっきまで見ていた睦美はただの幻で、紫音もたまたま同じことをしているだけ。そう考えるのが常識的だろう。
ただ、睦美の姿をまた見られるのなら。あの頃と同じ気持ちになれるのなら。
そう願うだけなら自由だろう。
「……ちょっとだけなら」
紫音を真似て両手を組む。立ったままだが、少しだけ頭も下げて目を閉じてみる。
ほんの数秒程度の祈りに意味はあるのか。そんなことを考えながら閉じていた目を開けようとした瞬間、またしても笛の音が聞こえてきた。
「睦美、なのか」
「――久しぶりだね。高村くん」
俺の呼びかけに睦美は中学の制服姿でニコリと微笑んだ。これは幻だ、現実じゃないと思う反面、でも目の前にいる睦美を偽物とは考えたくなかった。
思えば、睦美の声を夢以外で聞くのは五年ぶりだ。今日だけでもう三回目だというのに彼女の声を聞いただけで全身に歓喜の震えが走る。そのまま立ち尽くす俺の顔を紫音が覗き込んでくる。その顔には俺同様に喜びが満ちていた。
「でも、どうやって」
こんなにも常識外れの現象を、一体どうやって実現させたのか。俺の目の前でにこやかに微笑んでいる睦美はどこから現れたのか。睦美と言葉を交わせた喜びと引き換えに、そんな疑問が次から次へと湧いてくる。だが紫音は積み上げた蛇の皮を一つ一つ丁寧に鞄へ戻しながら、「どうでしょうね」と呟いた。
「理屈なんてどうでもいいじゃないですか」
「いや、そうは言ってもだな」
睦美がその場に立ち尽くす一方、俺の反応に紫音はしばらく考えてからこう言った。
「昔、お姉ちゃんが教えてくれたことですけど、蛇は再生の象徴らしいですよ。だからあの日、お姉ちゃんがいなくなってもこうしてまた戻ってきてくれたんです。私たちが会いたいって思ったら、ちゃんと応えてくれるんです」
鞄を閉じた紫音は立ち上がると、そのまま睦美の左腕を両手で抱きしめる。
「それに蓮さん、私はそんな理屈がどうこうって話より、これからもお姉ちゃんとずっと一緒にいる方が大事なんです。お姉ちゃんと一緒にいられるのなら、他のことはどうでもいいんです。お姉ちゃんとずっと一緒にいた蓮さんなら分かってくれませんか?」
紫音の同意を求める視線に俺はすぐ頷くことができなかった。理屈が納得できないという話ではない。ただ、あまりにも都合のいい話に少し受け入れる準備が必要というだけのことだ。
「ねぇ高村くん」
それまで黙って話を聞いていた睦美が急に口を開いた。驚いて彼女を見れば、そこにあったのは五年前と何ら変わらない穏やかな笑みだ。
「よかったら、一緒に帰らない?」
◆◆◆
頭上に浮かんでいた雲が海に向かって流れていく。その流れに乗るように、俺たち三人は川沿いの道を歩いていた。
「こうやって一緒に歩くのは、なんだか久しぶりだね」
「……ん、あぁ。そうだな」
睦美を挟んで俺が車道側を、紫音が歩道側を歩いているが、幅の狭い歩道は実質姉妹のものになってしまっている。これでは俺が姉妹の時間を邪魔しているようなものだ。それに中学時代の睦美と今の俺では身長の差がかなり開いている。今の睦美は妹よりもほんの少しだけ背が低く、妹よりも下から見上げてくる姉の姿というのはなんだかおかしな気分だ。こんな状況で落ち着いて睦美との時間を過ごすというのは難しい話だろう。
「なんか、その格好で隣にいると変な感じだな」
中学の制服を着た睦美の姿はよく似合っている。俺が五年間ずっと夢で見ていた通りの姿だ。しかしいざ並んで歩くとなると、やはり違和感を拭えない。現実にいて、現実味がないと言うべきだろうか。
ただ、あの頃と同じ姿の睦美と川沿いをこうして歩いていると、中学の頃に戻れたみたいで嬉しかった。もし明日も明後日も、ずっとこんな時間を過ごせるのなら幸せとしか言いようがないだろう。抱えている違和感もいつかは消えてくれるはずだ。
「あ、ちょっといいですか。喉乾いちゃって」
紫音はそう言うと道端にある自販機へ小走りで近づいていく。睦美と一緒についていくと、ちょうど紫音がミネラルウォータ―を買おうというところだった。
せっかくなので俺も睦美と自販機の前に立ち、三段に並んだ商品の中から一番下にあった炭酸ジュースを選ぶ。ガシャン、と出てきたのは冷えたペットボトルで、手に取るとボトルについた水滴がほんの少しだけ暑さを和らげてくれるような感じがした。
「睦美はどうする」
「お姉ちゃんはこれだよね?」
睦美に場所を譲ろうとする俺よりも先に、自販機の一番上に並ぶ緑茶を指差したのは紫音だった。その視線は隣にいる睦美ではなく俺を見上げていて、突然のことにどう返事すればいいか分からなくなってしまう。少なくとも、あの頃の睦美なら俺と同じでジュース類を選ぶことが多かった気がするがどうだろう。気になって隣にいる睦美を見下ろすと、彼女は妹の方を見ながら優しい口調で言った。
「大丈夫だよ紫音。私はあんまり喉乾いてないから」
「そっか」
姉の言葉に紫音は残念そうに肩を落とすと、自分の買ったペットボトルの蓋を開けながら再び歩き始めた。その背中を睦美はすぐに追いかけていき、自販機の前に残されたのは俺一人だけ。
思えば、辻崎姉妹が揃っている光景を見るのは実に五年ぶりだ。ほんの数日前までは夢想するしかなかった睦美のいる日常に、俺の足は意識せずともタンと地面を蹴っていた。
そうして歩き続けると、やがて辻崎姉妹の家が見えてきた。
黒い屋根は五年前よりもやや汚れているように思えるが、かつては俺も遊びに来たことがある思い出の場所だ。睦美の部屋は二階にあって、そこでよく睦美が持ち帰った物の整理を手伝っていた。睦美からどんな場所に落ちていたのか説明を受けたこともあるが、今もそれらが残っているのかは分からない。
「そうだ。よかったらウチでゆっくりしていきませんか? 親はどっちも外出てるから気にしないで大丈夫ですよ」
「いや、急に言われてもな」
既に駆けだした紫音が玄関扉を開けて中に入っていく。睦美もそれに続いていく中で俺の両足は次第に速度を落としていた。そんな俺の様子に気づいて、睦美だけはこちらを振りむいてくれる。
「どうしたの。高村くん」
「いや、なんでも」
咄嗟に誤魔化そうにもちょうどいい言葉が浮かんでこない。その間に睦美は俺の顔をじっと見つめると、しばらくして玄関の方へ歩き始めた。
「今日はここまでにしよ。ウチに入ったら高村くんも疲れちゃうだろうし」
「いや、俺は別に」
呼び止めようにも睦美は足を止めず、そのまま玄関扉を開いた。
「私が紫音に上手く言っておくから安心して。高村くんもその方がいいでしょ?」
扉の向こう。わずかに見える辻崎家の廊下を背景にして、睦美はそう言って笑いかけてくる。その笑顔とこちらを労わるような眼差しに俺はそれ以上何も口に出せなかった。そうしている間にも玄関扉がゆっくりと閉じられ、睦美の姿は見えなくなった。
「はぁ……」
肺に溜まっていた空気が外へ溢れ出す。肺の中身を空っぽにする勢いで息を吐き続けると、ようやく緊張は解けていった。睦美の気遣いが無ければアレを目にしていたかもしれないと思うと背筋に震えが来る。だがそれも気にする必要はしばらく無い。それにあの頃の睦美と再会できたことを考えれば、その程度の不安は忘れた方が良いだろう。
あの睦美が本物かどうかなんてことも今はどうでもいい。こうして中学時代のように過ごせたのだから、それで十分だ。より多くを望むとすれば、もっと睦美と同じ時間を過ごせればいいのだが。
「また会えるよな」
睦美の消えた玄関扉に尋ねても返事はない。しかし、睦美はきっと俺に会ってくれるはずだ。根拠はなくとも、そうだという予感がした。それだけで帰りの足取りは何倍も軽くになる。実家までの帰り道、俺の耳には川のせせらぎと共に睦美の声がずっと耳に残っていた。
◆◆◆
朝の目覚めは最悪だった。なにせ、頼んだ覚えのないモーニングコールが二階に位置する俺の寝室で何度も鳴り響いているのだ。今日も睦美と会うためにあの橋へ行こうと思っていたというのに、枕元に置いたスマホには『眞田佳織』の文字が表示されていた。
「ウソだろ」
現在時刻、午前九時。着信画面の下にある拒否ボタンを迷うことなくタップすると、自室に静寂が戻ってくる。だが三秒後には聞き飽きた着信音が枕元で響き始めた。
「あー、くそ」
頭の隅に残っていた小さな眠気もすっかり旅立ってしまった。もしこのまま無視したとしても、眞田なら諦めずに何度も電話をかけてくるだろう。既に一度、その経験が俺にはある。
「うるさいぞ、後輩」
『あ、先輩! 起きるの遅いですよ!』
「朝から声が大きいんだよ。少しは静かにしてくれ」
眠気どころか意識まで吹き飛ばしそうなほどの声量に、俺はもう通話を切ってしまいたくなる。だが眞田は俺が通話を切るよりも早く言った。
『じゃあ支度してくださいね。外で待ってますから!』
「……外?」
眞田の声ひとつで背中に大量の汗が滲んでくる。俺は急いでベッドから下り、すぐ近くの窓へ駆け寄った。ちょうど道路に面して設けられた窓から見えたのは、家の前に停まっている青い軽自動車と、その助手席の窓から顔を出してこちらに手を振る後輩の姿だ。
「眞田、お前」
『もう迎えに来てますよ。こうでもしないと先輩来てくれないじゃないですか。じゃあ』
ぷつ、と通話が勝手に終了する。寝室にようやく静けさが戻ってきたものの、俺の頭の中はとっくに静寂とはかけ離れた状況だ。今日はまずあの橋に行こうと思っていたのに、これでは難しいだろう。
俺はさっさと着替えを済ませ、必要最低限の荷物をまとめて玄関を出た。もちろん睦美にもらったあの笛を首から提げている。いくら急いでも、これを忘れることだけは絶対にしない。
玄関を出ると家の前には自室の窓から見えていた青い自動車が停まったままだ。俺が出てきたことに気づいて後部座席が開かれると、そこには助手席から乗り出してこちらに手を振るTシャツ姿の眞田の姿がいた。そしてその奥、運転席にも見知った男の顔がある。
「お、久しぶりだな。卒業式以来だよな」
「常磐か」
黒い半袖シャツを着た眼鏡の男は、中学から高校までずっと一緒だった常磐翔馬だ。高校を卒業して地元企業に就職したのは覚えているが、平日のこんな時間に眞田と何をしているのだろうか。
そんな俺の疑問が顔に浮かんでいたのだろう。常磐は大きな欠伸を漏らしながらハンドルに手を伸ばして言った。
「仕事休みだってのに、こいつのせいでドライバー役だよ。いきなり部屋のインターホン鳴らしてくるんだぞ? あ、クレームは全部コイツに言ってくれ」
「クレームとか酷いですよ。せっかく暇そうな先輩たちを誘ってあげたのに」
「暇な先輩を忙しくした、の間違いだろ」
常磐の言葉に眞田は口を尖らせる。そんな二人のやり取りを見ながら俺は後部座席に乗り込んだ。
このまま眞田たちとどこかに出かけるよりも睦美と会いたいのが正直な気持ちだが、こうなってしまっては諦めるしかないのだろう。ここで「やっぱり無理」と言ったところでどうせ眞田に連れていかれるような気もする。
「――」
言葉にもならないほど小さな息が俺の口から勝手に溢れ出す。常磐たちがそれに気づくことはなく、車はゆっくりと道を進み始めた。
市街地の大通りを進み、道はやがて上り坂になっていく。海と川、山に囲まれた市街地を離れれば車窓から見えるのは緑に染まった山々だ。対して今日の空は青一色というわけではなく、ところどころにペンキを散らしたような雲が浮かんでいる。雲は市街地を越えて海に向かうのだろう。そんな空の流れに逆らうように車は山奥へと進んでいった。
「あ、もうすぐですよ」
助手席で常磐に道案内をしていた眞田が道の奥を指差す。後部座席から前方を見ると、たしかに眞田の細い指の先には小さな丸太小屋らしき建物があった。童話に出てくるような小屋を模したその建物は、道沿いの看板に描かれた絵を見る限りケーキ屋らしい。まだ昼前だというのに砂利の敷かれた広い駐車場には五台以上の車が停まっており、空いているスペースに常磐がきっちりと車を停めた。
「けっこう人気なんだな」
車から下りながら呟くと、助手席から飛び出した眞田は満面の笑みで頷いてくる。
「春くらいに新しくできた喫茶店なんですよ。ケーキ屋と併設で、前から来てみたかったんですよね。でもここまで来るのはさすがに車じゃないと」
そう言って眞田は嬉しそうに常磐を見る。常磐が今日呼ばれた理由を理解できたところで、俺たちは店の中へ向かった。両開きの扉を開けて店に入ると、最初に出迎えてきたのは大きな熊のぬいぐるみだ。白いパティシエらしき衣装をまとった熊に眞田がスマホを向ける一方、店の奥から若い女性店員が駆け寄ってくる。
「いらっしゃいませー。空いてるお席にどうぞー」
想像していたよりも広い店内。先頭に立った眞田が選んだのは窓際のボックス席だった。眞田が窓側に座り、常磐がその対面へ。俺は常磐の隣に座ることにした。
「じゃあ私はイチゴのモンブランとストレートのアイスティーで」
「はやっ」
席に着くと同時に注文を始める眞田に隣の常磐が声を上げる。
「今日のためにメニューを調べておきましたから」
「そういうことね。じゃあこっちは……ガトーショコラにアイスコーヒーを一つ」
「高村先輩はー?」
二人の視線を浴びながらテーブルに置かれたメニュー表に目を通す。丸みを帯びた手書きの文字が並ぶ中、俺の目を引いたのはチーズケーキだった。
「じゃあ、チーズケーキで。あと俺もアイスコーヒーを」
「はい。では少々お待ちください」
店員が離れていくのを笛に触れながら見届ける。チーズケーキは睦美が好きだったものだ。睦美に会いに行けなくなった分、こうして彼女の好きだったものを食べるのは良いかもしれない。
「お前まだそれ持ってるのか。昔から変わんないのな」
隣の常磐はそう言って俺の首元――銀の笛を指差した。
「……悪いか」
いやいや、と常磐が首を横に振る。
「別に良いも悪いもないでしょ。単なる感想」
そこで会話は終わった。常磐は中学の頃から付き合いのある相手だが、昔も今もあまり自分から踏み込んだ話をするような人間じゃない。睦美と中学三年で離ればなれになった頃も、常磐は俺に普段通りの態度で接してくれたのを覚えている。
「お待たせしました。こちらイチゴのモンブランとガトーショコラ、それからチーズケーキです。それとお飲み物ですね」
先ほどの店員が持ってきたケーキとグラスがテーブルの上に置かれていく。眞田はさっそくテーブルの隅に置かれていたカトラリーボックスからフォークを一本取り出し、ピンク色の山を崩し始めていた。
「では、お手並み拝見」
真剣な眼差しで眞田はモンブランを口へ運ぶ。その瞬間、彼女の頬は雪崩でも起きたかのように一気に落ちていった。
「じゃあ俺も食うか」
手元に置かれた細長いチーズケーキの隅にフォークを入れ、一口分を口へ持ってくる。ほのかに香る甘い匂いに食欲を刺激されながら俺は舌の上にケーキを乗せた。
「ん」
しっとりとした舌ざわりに優しい甘みが重なり、底に敷かれたタルト生地との触感の違いも心地いい。睦美ならこのチーズケーキを絶対に気に入るはずだ。楽しそうにケーキを頬張る睦美の顔を思い浮かべながらアイスコーヒーで喉を潤していると、モンブランの半分を平らげた眞田が「あ」と小さく呟く。
「そうだ常磐先輩も灯籠流し行きましょうよ。明日も休みなんじゃないですか」
そう言われた常磐はフォークを置いて唸った。
「悪いけど職場の先輩の手伝いしなきゃいけないんだよ。前から頼まれててな」
同い年の常磐の口から『職場』という言葉が出ると、なぜだか不思議な感覚がする。俺の身分は大学生なのに常磐はもう社会人なのだ。
「……お前、すごいよな。高卒ですぐ働いて、今も真面目にやってるんだろ」
「は? 急に褒められると逆に怖いわ」
隣に座っていた常磐が怪訝そうにこちらを見るが気にしない。俺と違って常磐も眞田も将来のことを考えている。それは生きていく上で大事なことだろう。でも、俺には未来なんてあやふやなものより、将来の不安なんて縁のなかったあの頃――睦美と共に過ごした中学時代に戻りたいとしか、どうしても思えなかった。
「常磐先輩はずっと真面目でしたもんねー。それに比べて隣の人はまだ辻崎先輩のところにお参りしてないんですよ。辻崎先輩だって寂しいはずですって」
アイスティーに口をつけながら眞田が半目を向けてくる。その視線に今日は何故だか痛みを覚えてしまう。
「別にいいだろ。それこそ、その人の自由ってやつだ」
睦美と別れてから今日まで、睦美のことを忘れなかった日は一度もない。睦美と過ごした三年間は今もこの体に染みついている。
「それにアイツは寂しくないよ。昨日アイツに会ったばかりだし」
「ん?」
ストローから口を離して目の前の後輩が首を傾げる。視界の端では常磐もまた俺の顔をじっと見つめていた。
「何ですかそれ。夢の話、それとも怪談ですか?」
「あぁ、いや……」
「こいつが辻崎の怪談なんて言うわけ無いだろ」
そうやって二人が会話を続ける一方、俺は数秒前の迂闊な自分を叱りつけたくて仕方なかった。睦美のことを口外しないと約束をしたわけではないが、こんな現実離れした現象を他人に言いふらすつもりもまた無いのだ。
慌ててケーキやコーヒーを胃に送っても、湧き上がる後悔を塞ぐには足りなかった。そうしている間にも眞田はすっかり好奇心を刺激されたようで、俺の顔を向かい側の席からちらちらと見ては常磐と言葉を交わしている。
「やっぱり死んだ人が蘇るのはあり得ないですよ。高村先輩が大学で幽霊を見る方法を習ったとしたら話は別ですけど」
「さすがにそれはないって。……無いよな?」
「そんなこと学ぶわけないだろ」
大学を何だと思っているのか。呆れながら答える俺を他所に、眞田と常磐はまだこの話題を続けるようだ。
「まぁ、たしかに辻崎先輩が生き返ってくれたら私も嬉しいですよ? でもせっかく折り合いつけたのが無駄になるというか、また荒らされるというか……」
「お前、本当にそういうところサッパリしてるよな」
そう言って常磐は皿に乗っていたガトーショコラを二口で食べ終えると、すぐにグラスの中身も空にしてみせた。対面にいる眞田も残り少ないアイスティーを一気に飲み干し、皿の隅に残ったモンブランの欠片を口へ運ぶところだ。
「さっさと出るか」
常磐の一声で俺も眞田も席を立つ。支払いは俺と常磐で負担することになった。眞田は自分の分は払うと言ったが、先輩の威厳を見せる場面だと常磐が言うと眞田は仕方ないと引き下がってくれた。
「で、どうなんだよ。さっきのは本当なのか?」
店の玄関を出ると、常磐が小さな声で俺に尋ねてきた。
「……どうせ信じないだろ」
「どうだろうな」
中途半端に優しくしてほしいわけではない。少なくとも俺にとって睦美に再会できたことは事実だ。その事実がある以上、常磐や眞田が信じなくとも別に悲しくはならない。
だが常磐の口から出た言葉の続きは俺の予想とは異なるものだった。
「知らないヤツがそういう話をしたらまず信じないな。でもお前が会ったって言うならそうなんだろ。辻崎のことに関して嘘を言うヤツじゃないからな、お前。昔からお前が辻崎と一番付き合いがあったんだし」
眼鏡のふちに触れながら常磐は息を吐く。
「でもあんまりそっちに行き過ぎると怖いぞー。ほら、ミイラ取りがミイラになるとか言うだろ」
冗談めかした常磐の言葉に俺は何も言えなかった。そうだと頷くことも、大丈夫だと言い切ることもできなかった。なぜかは分からないが、常磐の言葉に安易に答えてはいけないような気がしたのだ。
「先輩たち早くー! ほら、腹ごなしに散歩でも行きましょうよー!」
駐車場に停めた常磐の車のそばで、眞田は両手を振りながら叫んでいる。青い軽自動車は夏の日差しを全身で受け止めて眩しいほどに輝いていた。眞田と車、どちらも俺には眩しくて仕方ない。
「相変わらず元気っていうか、元気が過ぎるな」
「そう思うならこの夏だけでも運転代わってくれ」
助けを求めるように送られた眼鏡越しの視線に俺は首を横に振る。
「俺が免許持ってないの知ってるだろ」
「だよな……」
諦めるように常磐は大きく息を吐き、それから自分の車に向かって歩き出した。
◆◆◆
「すみません、ちょっとお腹が……っ」
「お前なぁ。一気飲みなんてするからだろ」
車から下りると眞田は駐車場の隅に向かって駆け出した。必死に走る後輩の背中が駐車場の隅にある公衆トイレの中へ消えていくのを見届けると、口からはつい安堵の息が漏れてしまう。
「言い出しっぺが最初にリタイアかよ」
散歩がしたいという眞田の要望に応えて山間部のダム公園までやって来たというのに、当の本人はトイレの中だ。常磐が呆れてしまうのも無理はない。
高台に設けられた駐車場からは薄暗いダム湖に流れ込む川とその岸辺に整備された広々とした公園を一望できた。夏休みということもあってか公園には家族連れの姿も見え、子供の楽しそうな笑い声がここまで聞こえてくる。
それらに混ざって耳に届いてきたのは、川のせせらぎや草木のざわめきにも似た柔らかい笛の音色だ。
「これって」
以前にも同じ音を聞いたことがある。ダム湖の方から聞こえてくるその音に、俺はつい一歩を踏み出していた。そんな俺の肩にぽん、と誰かの手が載ってくる。後ろを振り返るとそこには和らいだ表情の常磐がいた。
「お前だけでも歩いてこいよ。眞田は俺が待ってるからさ」
「急にどうしたんだよ」
俺の肩に手を置いた常磐はそう言ってダム湖に目を向ける。その横顔は高校時代より落ち着きが増している。しばらく見ないうちに常磐はあの頃から変わっているようだった。
「いや、今日はなんか予定とかあったんじゃないかと思ってな。俺はもうアイツに誘われるのに慣れたからいいけど、お前まで無理に付き合う必要はないだろ」
「それ、今さらどうしようもないって」
俺の言葉に常磐は「たしかにな」と呟き、それから笑った。
「でも休憩は大事だぞ。一人で歩くのもいい気分転換になるからな」
眼鏡越しの視線が俺を真正面から捉える。こうして常磐に心配されるのも何だか懐かしく思えてしまう。
「じゃあ、せっかくだしお言葉に甘えるか」
「そうしろそうしろ」
笑う常磐に背を向けて駐車場から公園に続く階段を目指す。その前に一つだけ聞いておきたいことがあった。
「……なぁ、さっき笛の音が聞こえなかったか?」
階段の直前で足を止めて背後に振り向く。数メートルの距離を開けて、常磐は不思議そうに首を横に振るだけだった。
「気のせいじゃないか」
「そうかもな」
それだけを言って、俺は階段を下り始める。階段の左右からは枝葉がいくつも重なり、緑のトンネルを階段の終わりまで形作っている。木漏れ日もまた足下を鮮やかに照らし、心地よい風が首筋を撫でていった。
「懐かしいな」
階段を全て下ると、そこはもう川と湖のすぐそばだ。海とは違って湖の水面は穏やかで、水と木々の境界が静かに広がっている。人工物も木陰に設けられたベンチくらいしかなく、街の公園のように遊具が揃っているわけでもない。そんな場所でも子供たちは元気に汗を振りまきながら遊びまわっていた。
タオルを持った母親に捕まった子供が嬉しそうに笑い声を上げるのを横目に、俺は湖の岸に沿って歩くことにした。目的地にはもう目星がついている。
湖を囲む木々が枝葉を揺らして笑い声を上げる中、俺は湖から少し離れた位置にある木陰のベンチに近づいた。木で作られた二人掛けのベンチは既に半分が使われており、そこにいるのはよく知っている人物だ。
「やっぱりか」
相変わらず、記憶通りの服装だ。こんな場所でも中学の制服を着ている睦美は俺の呼びかけに顔を上げた。彼女は眩しそうに目を細め、ほんのわずかに口元を緩ませる。
「私じゃない方がよかった?」
その質問にはわざわざ答えるまでもない。
「隣、座っていいか」
「うん」
ベンチの半分が空いているというのに、睦美は小さな体をより小さく丸めてベンチの片側に寄りかかった。そんなことをせずとも俺一人が座る分には何も困らないというのに。木製のベンチに腰を下ろすと、肺に溜まった古い空気が口から溢れていく。代わりに肺を満たすのは新鮮で心地いい反面、少し緊張も含んだ空気だった。
「お前、どうしてここにいるんだよ。てっきり橋にいるのかと思って」
朝から会いに行こうと思ったのに。そう続けようとしたが、その前に睦美が小さく笑い声を上げる。
「ふふっ。そんな幽霊みたいなものじゃないよ。それよりここ、一緒に来た時のこと覚えてる?」
まるで試されてるみたいだな。そんなことを思っていると睦美が俺の顔を隣から覗き込んできた。枝葉の影がベールのように彼女の顔を覆う一方、俺はその質問にわざわざ過去を思い出す必要もなく答えが出せる。
「覚えてるよ。中学のマラソン大会だろ。帰りにお前がこれくれたのも覚えてるし」
首元にある銀の笛を指で持ち上げてみせると、睦美は笑みを浮かべる。ただそれは喜びだけではなく、照れや困惑を含んだ複雑な笑顔だった。
「それ、ずっと持ち歩いてるの?」
「当たり前だろ」
忘れるはずがない。中学二年の秋からずっと、この笛は大事に持っていたのだから。
ダム湖を一周する遊歩道で中学のマラソン大会が毎年行われるのだが、その帰り道に睦美が興味本位で立ち寄ったスーパーのカプセルトイで出たのがこれだ。普段ならどこで拾ってきたのかも分からない、ゴミに限りなく近い物を渡されるばかり。だからこそ安っぽい玩具であっても捨てる気にはなれなかった。
「そっか。……うん、ありがとね」
瞳を閉じて睦美は小さくそう言った。
「お前の『ありがとう』はもう聞き飽きたからいいよ」
「ふふ、たしかに。いっぱい荷物持ってくれたもんね」
背もたれに体を預けて睦美は笑う。その横顔は――細めた目もわずかに上がった口角も何もかもが中学の頃と同じままだ。
文字通り夢にまで見た時間をいま、俺は過ごすことができている。そう実感すると掌には瞬く間に汗が滲み、ついには全身の体温まで上昇しているような気がした。だが、
「そういえば、ここで話しててもいいの?」
凪いだ湖面に石を投げるように、不意に睦美が呟いた。
「佳織ちゃんとか常磐くんも一緒なんだよね」
「……いや、大丈夫だよ。アイツらのことは」
「でも」
「気にしないでいいって。せっかくお前に会えたんだ。五年ぶりなんだぞ」
逃げていく熱を取り戻すように俺は言葉を重ねた。睦美と話しているはずなのに、視界には自分の足下しか映っていない。
違う。今はそんなことどうでもいい。そうだ、せっかく昔みたいに睦美と過ごせるのだ。この時間を長く続けるためにも余計なことを考えている暇はない。今日で終わりではなく、明日も明後日も、この夏が終わってもずっと心地よい時間を過ごせるように。
「ねぇ、大丈夫?」
耳元で声がした。聞き間違えるはずもない睦美の声だ。隣を見れば、そこには俺を心配そうに見つめる制服姿の睦美がいてくれる。
「今日はまだ佳織ちゃんたちと動くんでしょ。私はいいから、そろそろ戻ってあげて」
「そういえば何で眞田のこと知ってるんだよ」
眞田が俺を誘ったのは今朝だ。それをどうして睦美が知っているのか。
だが睦美はそれには答えず、
「それより私も聞きたいことがあるんだけど」
と、首を傾けた。俺より背の低い睦美はこちらを見上げながら言葉を続ける。
「一度だけ灯籠祭りに行こうって約束したこと、覚えてる?」
「もうずいぶん前だけどな」
中学時代に睦美と交わした約束だ。忘れるわけがない。睦美も俺の答えは予想通りだったのだろう。椅子から立ち上がると俺の方を見て人差し指を立てた。
「じゃあ明日、約束ね。まだまだ話したいことがたくさんあるから」
「……分かった。約束だな」
眞田たちには悪いが明日の祭りは睦美優先だ。こればかりは仕方ない。せめて睦美と会う前に眞田の方へ顔を出すくらいはした方がいいだろう。
「高村せんぱーい!」
噂をすればというものだろうか。顔を見なくとも誰か分かるほどはっきりした声だ。
「ふふっ。相変わらず元気だね、佳織ちゃん」
こちらに両手を振っている眞田の姿に睦美が笑う。眞田の隣には常磐もおり、どうやら眞田の調子はもう問題ないらしい。そう思って安心していると、眞田は飛び跳ねながらこちらに手を振ってきた。周囲の子供たちとは一回りも年が離れているだろうに、その姿は子供同然だ。
「一人でなにやってるんですか先輩! ほら、次のお店行きますよー!」
「一人じゃないって」
そばにいる睦美の姿が見えないのだろう。周りの視線が集まるのも気にせず眞田は大声で俺を呼んでくる。おかげで親子連れの中には俺の方をじっと見てくる人も出てきた。こうも注目されてしまっては、これ以上睦美と話を続けるのも難しいだろう。
「ほら、行ってあげて。また明日会えるんだし」
当の睦美にまでそう言われては仕方ない。それに眞田を無視したら余計大声を出しかねない。あの後輩はそういう奴だ。俺は諦めてベンチから体を離し、木陰の外へ向かうことにする。そんな俺の背中に睦美の声が飛んできた。
「じゃあ、また明日ね」
「ああ」
振り返らずにそれだけを言い、俺は眞田と常磐がいる方へ歩き出す。
遠くから見ても腹痛に苦しんでいたのが嘘だったかのように元気な眞田だが、今はそのテンションに付き合う気にはなれない。常磐と眞田が駐車場に続く階段へ向かうのを、俺は少し距離を開けて後ろから見る。それは睦美と過ごした時間の余韻に浸っていたかったからなのだが、それもすぐ中断されてしまう。
「蓮さんも来てたんですね」
そう言って隣から話しかけてきたのはよく知る人物だった。黒のワンピースにつばの広い白の帽子を被り、小さな鞄を斜めがけにしているのは辻崎紫音だ。考えてみれば姉の睦美がここにいるのだから、妹の紫音も一緒に来ているのは当然かもしれない。
紫音は俺に軽く頭を下げると、「あ」と小さな声を漏らした。
「そういえばさっき佳織ちゃんから灯籠祭りに誘われたんです。本当はお姉ちゃんと一緒にいるつもりだったんですけど、その、圧が凄くて」
疲れた顔で息を吐く紫音。その顔には面倒だ、とはっきり書いてあった。
「そうだ。睦美なら向こうのベンチにいるぞ。さっきまでちょっと話してたんだけど」
そう言って睦美と話したベンチを指差すと、睦美もその方を見た。
「へぇ、そうだったんですね。お姉ちゃん楽しそうでしたか?」
「多分な。中学の頃に戻ったみたいで、少なくとも俺は良かったよ」
そう。良い時間だった。夢のようなという表現はありきたりだが、そうだったとしか言いようがない。ただ紫音の表情にはどこか不満が見えた。
「うーん、でもお姉ちゃんにはもっと大人っぽくなってほしいっていうか。ほら、大学生の蓮さんと同い年だし」
「それは……どうなんだ?」
今の睦美が中学の制服から着替えたとしても、その顔立ちや背丈のせいで『大人っぽい』という表現はまだ似合わない気がしてしまう。だが妹はそう考えていないらしい。
「はぁ……。それじゃあ私、もう行きますね」
不満げに息を漏らした紫音はそう言うと睦美のいるベンチに向かって歩き出した。小さな鞄が歩くたびに体とぶつかり音を立てる。その背中に俺はふと頭に浮かんだ疑問を投げてみる。
「そういえば、そっちも散歩なのか?」
問うた先、紫音はこちらを振り返って首を横に振った。
「違いますよ。この辺りの森でいつも蛇を探してるんです。蛇があれば、もっとお姉ちゃんと一緒にいられますから」
鞄を手で持ち上げて笑うと、紫音はそのまま睦美のいる方向へと歩いていく。その背中から視線を外し、俺も駐車場に続く階段を上ることにした。
湖から離れるにつれて子供たちの声は小さくなっていく。階段を一段上がることに睦美との距離も離れていく。それでも明日になればまた睦美と会える。そう思うだけで両足はより軽やかに、俺は一段飛ばしで階段を駆け上がった。
◆◆◆
灯籠祭りの夜は川沿いからビーチにかけて、足元の地面が見えなくなるほどの人混みになるのが毎年恒例だ。川沿いの遊歩道からは、これから流す灯籠が途中で止まらないように係の大人たちが川へ入っていく様子も見える。
毎年この時期にならないと見ることのできない景色ではあるが、地元の人間からすれば見飽きた景色でもある。特に灯籠流しのゴール地点で、祭りの締めくくりである打ち上げ花火がよく見える河口近くの広場にはいくつも屋台が並び、見るだけで気が滅入ってしまいそうなほどの混雑具合になっていた。
「あれ、灯籠ってこのまま海に流すんでしたっけ」
「たしか河口の方に縄を張って、そこに引っかけて回収するらしい」
「へー。なんだか漁みたいですね。なんでしたっけ、なんとか網ってやつ」
隣を歩く眞田がそんなことを呟く一方、俺は首元の笛を弄びながら人混みから出るために歩いていた。
俺も眞田も祭りだからといって特別な用意をしているわけではない。普段通りの服装で観光客らしき団体の脇を通り、広場の外に向かって歩いていく。隣から眞田が買った大量の焼きそばやチョコバナナ、綿あめなどの匂いが一つに混ざって漂ってくるが、それもあと少しの辛抱だ。
「これで目星を付けていたお店は全部ですね。先輩たちの分も楽しんじゃいますから」
「そうしてくれ。常磐はずっと屋台の手伝いなんだろ?」
隣を歩く眞田は焼きそばの容器を空にしながら頷いた。
「はい。だから今のうちに常磐先輩の分も私がちゃんと満喫するんです。あ、紫音ちゃんは合流にもう少し時間かかるって、さっき連絡ありました」
そう言って眞田はまだ焼きそばのソースが付いた口で綿あめを頬張った。その豪快な食べ方にすれ違う子供たちは驚いた様子で眞田の顔を見ている。
「お前、本当によく食べるよな。焼きそば、二人前はあっただろ」
常磐がいれば半分ずつ食べることができたのかもしれないが、それは無理だろう。
数分前に眞田と二人で常磐が手伝っている屋台に顔を出した時を思い出す。そこにあったのは広場の中央まで伸びる行列と、屋台の中で無数の肉串を用意する常磐の姿だった。
額から滝のように汗を流しつつ両手を常に動かし、たまに親の仇でも見るような鬼気迫る目つきで行列を睨んでいたが、あれは気軽に声をかけられる状況ではなかった。もし常磐がここにいればきっと屋台の料理を楽しみ、表情も少しは和らぐだろうに。
「さてと、俺もそろそろ行こうかな」
本当なら今日は睦美との約束を守って過ごすつもりだった。わざわざ眞田が家まで迎えに来たことで後輩の屋台巡りに付き合う羽目になってしまったが、ここからはやっと睦美との時間だ。
「言っておきますけど、せっかく誘ったんだから『やっぱり無理』とか許しませんからね。用事が終わったらまた連絡してくださいよ」
「分かってるって」
眞田には睦美の名前を出さず、ただ知り合いに会うとだけ伝えてある。先輩として後輩を騙すような形になるのは心が痛むが、ここは仕方ないと思おう。
「じゃあ、また後でな」
今すぐにでも走り出したい気持ちを抑えて、早足で広場の外に出る。広場の中と比べて外の混み具合はそこまで酷くはなく、多少人混みを避けて走るぐらいなら問題はなさそうだった。
行く先はもう決めてある。睦美との連絡手段は無いが、それでも彼女と会える場所は頭の中に浮かんでいた。
川沿いの遊歩道を川と人の流れに逆らうようにして走っていく。川上の方からは流され始めた灯籠たちを追うように老若男女問わず、多くの人が歩いてきた。赤青黄、緑や白、火が灯ってさまざまな色に染まった灯籠が波に揺れながら川を下る。その様子を誰も彼もが足を止めて眺めている。もしも中学の頃に睦美との約束を果たせていたのなら、この中に俺と睦美もいたのだろうか。
睦美と別れたあの日。雨が降っていたあの日にはこんなことを考える余裕も無かった。だが睦美と再会できた今なら、そんな「もしも」も現実になる。
「はぁ、はぁ」
両足の動きは軽やかに、人混みの狭い隙間も水のように通り過ぎることができる。走れば走るほど口から息が溢れるが、それは苦しさではなく期待からだ。
睦美に会いたい。その想いが俺を前へと進ませる何よりの力になっている。
川と人の流れに逆らって走り続けると、やがて視界の先に見えてきたのは灯籠流しの始発点だ。俺にとっては五年前に睦美と別れ、数日前に再会した場所でもある。
「そこにいてくれよ」
灯籠を眺める人々の間を駆けながら祈る。川岸に続く階段を一段飛ばしで下りれば、灯籠を流すために建てられた仮設の足場が見えた。照明に照らされて普段よりも明るさを増してはいるものの、その光も橋脚の近くには届いていない。
きっと睦美はそこにいるはずだ。根拠はないが俺にはそうとしか思えなかった。火の点いた灯籠を大人たちが川に浮かべるのを横目に、草陰に隠れながら橋脚に近づいていく。
――ふと、笛の音が聞こえた。
「高村くん」
腰上まで伸びた草むらを抜けると、そこにはやはり彼女の姿がある。
何度も夢見て、何度も話をした辻崎睦美だ。彼女は橋脚のすぐそばを通る川の浅瀬に立ち、俺をじっと待っていた。
「来てくれたんだ」
そう言って微笑む彼女に、
「約束だからな」
そう言って俺も笑った。
中学の制服に身を包んだ彼女の隣に俺も立つ。裸足になって川面に足を入れると、川は膝あたりまで一気に呑み込んできた。真夏でも温度の低い川の水は祭りの熱気にあてられた両足を冷やし、その心地よさについ息が漏れる。
「二人だけでここに来るの、すごく久しぶりだよね」
「五年だよ。……お前がいなくなってから、五年だ」
忘れるはずがない。隣にいる彼女を忘れたことはこの五年間一度も、たった一秒でも無かった。だからこそ今この瞬間が幸せだった。息を吸えば肺だけでなく全身があの頃の空気で満たされていくような感覚がある。それは錯覚かもしれないが、今はどうでもいい。
「高村くんって私のことだけはちゃんと覚えてるよね。それで大丈夫なの?」
そう言って睦美は心配そうに俺の方へ体を向ける。だが俺には睦美の質問の意図が分からなかった。
「私のことばっかり覚えてたら、大学での勉強とか頭に入らないんじゃない?」
「それは、別にどうでもいいだろ」
大学で過ごす日々より睦美と過ごした中学時代の方が優先順位は上だ。こうして一緒にいられるのなら、あの頃みたいに過ごせるのなら俺にとって他のことはどうでもいい。
そこまで考えてようやく、紫音の言っていたことも分かるような気がした。
「それにしても、お前に心配されるとは思わなかったな」
川に浸かった自分の足を見ながらそう言うと、隣からクスっと笑い声が聞こえた。
「中学の頃なら逆だったかもね」
「今も中学生だろ」
五年前の別れから変わらない睦美の姿につい突っ込んでしまう。だがそれに対する反応は俺の想定とは異なるものだった。
「違うよ」
小さく、けれど鋭い声で睦美は言う。それはここ数日の間で初めて聞く冷たい声だった。こちらを怒るのではなく諭すような声に、俺は顔を上げて睦美を見る。
「――」
視界の中央で、ぬるい夜風が少女の黒い髪を揺らす。夜の薄暗い川に立った睦美は俺をじっと見つめている。その視線を一度浴びただけで俺はもう彼女から目を逸らすことができなかった。
「ねえ。本当にこのままでいいの?」
「いいって、なにが」
「私とこのまま一緒にいて、それで君は本当にいいと思ってるの?」
「……え」
突然の問いかけに言葉にもならない声が喉の奥から漏れる。だが睦美はそんな俺の反応を笑いもしなければ呆れもせず「私は心配です」という顔でこちらを見つめていた。
両足に浸かる水がさっきよりも冷たくなったのは気のせいだろうか。足元から迫る震えを何とか堪えながら口を開き、俺は目の前の少女に言う。
「お前と一緒にいられるなら、それが一番いいよ」
「私はもういないのに?」
やめろ、と言おうとしたのに喉から言葉が出てこない。
一番言ってほしくないことを、一番言ってほしくない人間に言われるのはこんなにも苦しいことなのか。
「お前はいるだろ、今ここに」
瞼を閉じ、また開いても辻崎睦美はそこにいる。川に足を浸けたまま、中学の制服姿で間違いなくそこに立っている。これを現実と言わず、何と言えばいいのか。
「じゃあどうして私と一緒にいたいの」
睦美の問いに俺は言う。
「あの頃みたいに過ごしたいだけだよ」
睦美と共に過ごした心地いい時間。将来への不安も退屈も無く、今のことだけを考えているだけで幸せだった。もう戻ることができないと諦めていた、夢のような時間だ。
だがそれを睦美は否定する。五年間ずっと夢で聞き続けたその声で。
「でも無理だよ。常磐くんは働いて、佳織ちゃんももうすぐ卒業で、高村くんだって大学生になってる。あの頃と今の君は違うし、あの頃の私はもういないんだよ」
「何なんだよ急に」
どうしてそんなことを言い出すのか。睦美は一体何が気に入らないのか。分からない、分からない。彼女が何を考えているのか俺には見当もつかなかった。
だが睦美は困惑する俺の前で淡々と言葉を重ねていく。
「どうして、じゃないよ。だってここで私と会った時に思ってたでしょ。『これは幻だ、現実じゃない』って」
俺よりも俺を理解しているように睦美は言う。その様子は五年前やここ数日の間に話していた睦美とは明らかに異なり、俺の首筋には触らなくても分かるぐらいの汗が浮かんでいた。
睦美はそんな俺の反応に小さく口元を緩め、一歩こちらに近づいてくる。
「君の思ってることは分かるよ。君が見たいものも言ってほしい言葉も、本心も。だからそんなに不安にならないで。私が言いたいのはね。自分にだけ都合のいい夢はもう終わりにしようってこと」
彼女が一歩進むたび、俺の足は勝手に一歩後退していた。ちゃぷ、と川面に音を響かせるのは俺の足だけで、それが一番幻ならいいのにと思わずにはいられない。
「なぁ、お前は本当に睦美なのか」
縋るように尋ねても目の前の少女は頷かず、歩みを止めなかった。
「君はどう思ってるの?」
そう言われてしまえば、もうおしまいだ。
そもそも睦美の言っていることはとっくに分かっていたことだ。辻崎紫音と出会い、彼女の言う通りに手を合わせた瞬間から俺は幻を見て、現実を忘れようとしていただけ。この街に戻ってきた時点で『もしかしたら』と思う気持ちがなかったとは言い切れない。
いずれにせよ、俺は五年前からずっと夢を見ていた。睦美と共に過ごした時間を何度も繰り返していた。これが現実だったらいいのにと、夢見ていた。
しかしずっと求めていた時間に、その象徴とでも言うべき相手の姿でここまで言われてしまえば、醒めてしまうのも仕方ない。呆気ないとは思うけど、夢が現実よりも脆いのは当然だから。
「お前は睦美じゃないんだよな。死んだ奴が蘇るのはあり得ないんだから」
「私の答え、聞きたい?」
睦美だった少女が――俺の本心がそう言って笑う。だから俺も笑って言った。
「聞いた時点でもう諦めてるよ」
本当に呆気ないと、笑わずにはいられない。
◆◆◆
睦美は俺の横を通り抜け、先に川岸へ戻っていく。それに続いて俺も川を出る。
「過去に戻りたい、幸せだった記憶を大事にしたいっていう気持ちは誰にでもあると思うんだ。でも、ずっとそこに居続けるのは大変だよ」
夜空を映して黒みがかった川を見ながら睦美は言う。彼女の視線の先には流れに負けないよう必死に根を張る、水草の姿があった。きっとあの草もいつかは流されていくのだろう。俺もそうだ。川の流れに抗おうとしても、いつかは力尽きてしまう。上流に戻ろうとすればするほど、足は未来に向かって流されていく。なんて勝ち目のない試合だろうか。
「俺は子供だな。二十歳にもなって、夢ばっかり見るなんて。そのうえ、中学生に説教されてるし」
「中学生なのは君がそうあってほしいって思ったからでしょ。私のせいじゃないよ」
本心に慰められるのもどうかとは思うが、ここは黙って受け入れよう。それはそれとして胸の内にある思いは全て吐き出しておいた方が良いだろう。
「もうこうして話せないってことだよな」
「でも、また夢で会えるよ。夢を見るのは悪いことじゃないんだし」
悪いとすれば、現実を見ずにいることか。ならばそこは現実と夢の折り合いをつけるしかないだろう。良い夢を見るために、現実と上手くやっていくのがとりあえずの方針になりそうだ。
そのためにも一つ、ちゃんと言葉に出してはっきりさせておくことがある。
「言いたいことがあるなら聞くよ」
睦美に促され、俺は言う。
「お前と別れたあの日、橋に戻ってきた時に川の中でお前の傘を見た瞬間から見間違いだと思おうとしたんだ。きっと幻なんだと思って、葬式にも行かなくて、ずっと何もなかったと思い込もうとした。そんなの無理だって分かってたのに。
でも、ダメだったんだ。あんなに心地よかった時間が呆気なく終わるなんて信じたくなかったから。もっともっと続くんだって、そう思ってなきゃやっていけなかった」
もしあの日、そのまま家に帰っていればもう少しマシな夢を見られたのかもしれない。だが濁流に呑まれていく赤い傘を見て、それはできなかった。
「私の家に入らなかったのも、現実を見たくなかったから?」
「ああ」
あの時、紫音に家に入ろうと誘われた時は本当に不安だった。家に入れば睦美がもういないという証拠を突きつけられるのではないかと思ったから。いま思えば、あの時睦美が気遣ってくれたのは俺の不安を分かっていたからだろう。
「でも、もう大丈夫だと思う。睦美に……自分にここまで言われたんだ。あとはちゃんと受け入れるだけ。だからもう、だいじょ」
大丈夫だよ。そう言おうとした俺の口に、目の前にいる少女は人差し指を立ててきた。
「それは私に言うことじゃないよ。誰に言うべきかは、分かってるでしょ?」
「……そうだな」
たしかに、この言葉を伝える相手は目の前にいる少女ではない。危うくそこを間違えるところだった。
「ああ、でも最後に頼んでいいかな」
彼女は俺の目をじっと見据えながら口を開いた。信じるような鋭い眼差しで俺に言う。
「紫音のこと、よろしくね。あの子、昔からお姉ちゃんっ子だったから。私がそばにいなくても前に進めるように助けてあげて」
「ああ。頼まれた」
俺がそう答えると睦美は嬉しそうに笑った。その笑顔は五年前と同じ、純粋な笑顔だ。最後にこの笑顔を見られたのなら、しばしの別れも耐えられる。
俺は睦美から視線を外し、川岸から道路へ戻る階段に向かって走り出した。夏草を振り払い、階段を一段ずつしっかりと踏みしめていく。そうして最後の一段を上る時、俺はつい川岸の方を振り返った。
「――ありがとう」
そこにはもう中学の制服に身を包んだ少女の姿はない。
ただ、月の光を反射させながら青黒く輝く川の流れがあるだけだった。
◆◆◆
色とりどりの灯籠が波に揺れ、時にぶつかり合いながら川を下っていく光景を横目に、大勢の人が海に向かって移動を始めている。祭りの目玉である打ち上げ花火を間近で見ようとする彼らの脇を抜けて、俺はスマホを耳にあてながら河口方面へ走っていた。
「もしもし? ちょっと聞きたいことがあるんだけどいいか」
『どこにいるんですか先輩! さっきからどれだけ連絡しても既読付かないし、心配してたんですよ』
電話口から響く後輩の声にスマホを咄嗟に遠ざける。眞田の声に混ざって屋台の呼び込みの声が聞こえるあたり、どうやらこの後輩は別れてからも広場にいたようだ。そう思うと少し申し訳なさを覚えてしまう。
「悪い。ちょっと手が離せなくてな。それより紫音がどこにいるか知ってるか。あれから連絡とか来てないのか」
人混みの壁を前に足を止めながらそう言うと、眞田は「ああ」と声を上げた。
『紫音ちゃんならさっき会えましたよ。一緒に回ろうって誘ったんですけど、散歩してくるってすぐ海の方に行っちゃったんですよ。それで、紫音ちゃんがどうしたんですか』
「ちょっと伝えなきゃいけないことができてな。あと連絡先知ってるならそっちも教えてくれ。もし見つけられなかったら電話するしかないからさ」
『先輩ってば人使いが荒過ぎません?』
どの口が、と言いそうになるのをぐっと堪え、俺はスマホの画面を見る。そこにはさっそく眞田から紫音の連絡先が届いていた。
『で、先輩はどこいるんですか』
「いま海の方に向かって遊歩道を走ってる。人が多くて中々進めないけどな」
少し背伸びして前を見れば、広場の入口から伸びているのだろう長い行列が簡単に確認できる。今までは何とか走ることができたが、ここから眞田のいる広場まで走るのは難しいだろう。
『じゃあ私が先に紫音ちゃんのこと探してみますね。海なら私の方が近いですし』
「いいのか?」
高校最後の祭りだというのにこちらの事情に付き合わせてしまうのは悪い。そう思って尋ねた俺に対し、スピーカーから聞こえた眞田の声は不満など微塵も感じさせない明るいものだった。
『いいんですよ。先輩の役に立てるのは後輩として嬉しいですから』
「……じゃあ頼む。俺も海の近くまで行けたら連絡するよ」
『はい。任せてください!』
爽やかな返事を残し、眞田は通話を終わらせる。ちょうど行列も少しずつ前へ進み始めており、気づけば対岸へ渡るために架けられた橋の近くまでやって来ていた。
人々が前に進んだことでわずかに生まれた人混みの隙間を見つけると、俺はそこに体を入れて橋の方へ向かうことにした。広場の方向へまっすぐ向かうよりも遠回りになるが、この長い行列を回避できるのなら問題はないだろう。そして行列から抜けてしまえば、後はもう走るだけだ。広場や川沿いに人が集まっている分、それ以外の道は混雑とは程遠い状況だった。おかげで狙い通り、行列の中にいるよりも早くビーチ沿いの国道まで来ることができた。
海岸線をなぞるように引かれた国道は花火の打ち上げに伴って交通規制が敷かれ、今は砂浜だけでなく国道も観覧席のようになっている。誰も彼もが歩道の段差に腰かけており、屋台で買った料理や飲み物を片手にこれから花火で彩られる夜空を見上げていた。
だがその中に紫音の姿は見当たらない。それどころか眞田から送られてきた連絡先に電話をかけても応答はなく、メッセージに気づいている様子もなかった。
「あ、先輩!」
「どうだった」
俺とは反対側、広場の方向から走ってきた眞田が落ち込んだ様子で首を横に振る。これだけ大勢の人間の中から紫音ひとりを探すのはかなり大変だと想像はしていたが、現実はやはり厳しかった。
仕方なく国道から広場に続く道をもう一度探すことにして、俺は眞田と共に河口や広場のある方向へ歩いていった。灯籠流しの終着点でもある河口には橋が架かっており、灯籠を追いかけてきた人々の中には河口のそばで足を休め、灯籠と夜空を交互に眺めている人もいる。俺たちも橋の脇に設けられた階段から河口の近くへ降りてみると、流れてきた灯籠が河口を跨ぐように張られた縄に次々と引っかかって止まる様子がよく見えた。
まるでブロック消しのように光の集合体を作っていく灯籠たち。そうやって無数の光で照らされた川面は真上にある夜空よりも俺にはよっぽど美しく思えてしまう。と、その時だった。
「先輩、あそこ!」
そう言って隣で眞田が指差したのは、橋の下を通り抜けて海へ続く道。おそらく橋脚に設置された電灯は壊れかけているのだろう。点滅するオレンジの光を浴びながら橋の下を歩いている人間の姿に俺は目を凝らす。
俺よりも低い背丈に白くツバの広い帽子と黒いワンピース。そして肩から斜めにかけられた小さな鞄。その後ろ姿は昨日見たものと全く同じだ。
「紫音」
頭に浮かんだ名前を呼ぶと同時、俺の足はその背中を追って勝手に走り出していた。
「ちょっと先輩⁉」
慌てた眞田の声が後ろから聞こえるが今は気にしていられない。紫音の後を追って橋の下を通り抜ける。そうして見えてきたのは整備中につき進入禁止と書かれた看板と、その先に広がる砂利の海岸だった。大勢の人で賑わう砂浜よりも狭く、照明の一つもないため薄暗いそこで睦美は波打ち際にしゃがみ込んでいた。
「蓮さんに佳織ちゃん。二人ともどうしたんですか?」
足音で俺たちの存在に気づいたのだろう。睦美は俺たちに振り向くと、ツバの広い白の帽子を傾けながらそっと笑みを浮かべた。そして背後の黒みがかった海と溶け合ってしまいそうな黒のワンピースを揺らしながら立ち上がる。
どうやら靴を脱ぎ、裸足で海と戯れていたらしい。膝下を海水に濡らした彼女へ最初に言葉を投げかけたのは俺ではなく、隣にいる眞田だった。
「ねえ紫音ちゃん。ここ、暗いし立ち入り禁止なんだって。一旦、広場の方に戻ろうよ」
眞田の言葉は至極まっとうな意見だ。だが紫音は不思議そうに首を傾げ、その目は言葉の意図が分からないとばかりに疑問をこちらに向けている。
「今日はお祭りだからここでお姉ちゃんと一緒に見るだけだよ。他のところは人ばっかりで、お姉ちゃんと二人きりになるにはここぐらいじゃないと」
「お姉ちゃんって、辻崎先輩のこと? 先輩はもう……いないんだよ」
そこで眞田は言葉を切り、そっと目を伏せた。それはきっと姉を亡くした妹に対する配慮なのだろう。だが紫音はそんな眞田の心配も不要だと言わんばかりに落ち込むどころか、嬉しそうに口を開いた。
「違うよ佳織ちゃん。お姉ちゃんはそばにいてくれているの。確かに一回いなくなっちゃったけど、すぐに戻ってきてくれたんだよ。だから心配しないで」
そう言って眞田に微笑むと、紫音は自身の数歩隣を見つめながら小さく呟いた。
「そうですよね、蓮さん。蓮さんもお姉ちゃんのこと見えていますよね」
「……」
きっと紫音は俺を信用しているのだろう。睦美と再会したあの日も、俺なら理解してくれると話していた。たしかに俺も紫音も、辻崎睦美という人間を求めていたという点では同じで理解もできる。だが、
「悪いけど、俺にはもう何も見えないよ」
視界に映っているのは紫音の姿だけ。その現実を認めた上で、俺は首を横に振った。
「そこに君の姉は、辻崎睦美は立っていない」
それが現実だ。五年前の雨の日を最後に、辻崎睦美は永遠に姿を消した。この場所に、紫音の隣に立っているわけがない。だが紫音はそんな俺の言い分を聞いても表情を変えることはなかった。むしろ薄い笑みを浮かべたまま、自分の隣をじっと見つめている。
「ふふっ。蓮さんってば面白いこと言うんですね。お姉ちゃんと三人で一緒に歩いたじゃないですか。それに昨日だって、あの公園で話してたんですよね」
隣にいる『何か』を見ながら紫音は言葉を続ける。
一時間前の俺ならそこに誰かの姿を見ることができたのかもしれないが、今はもう紫音の一人芝居にしか見えなかった。隣にいる眞田も同じことを思ったのだろう。困惑の表情を浮かべながらこちらに助けを求めるような視線が送られてくる。
この場で紫音相手に話が通じるのは俺だけだ。正面に立つ紫音をまっすぐに見据えながら俺は口を開いた。
「たしかに少し前までは睦美が見えてたよ」
「なら、どうして見えないなんて嘘を」
「嘘だったのは見えていたことだ。俺も、君も」
「……」
その一言で紫音の視線に棘が生える。じっと、黒い瞳が俺を突き刺してくる。それでも話を止めるわけにはいかない。伝えるべきことは最後まで伝えないと。
「ああ、俺にも睦美の姿が見えていたよ。君が見えると言ってくれたから、俺もそう思おうとした。君の設定に乗っただけだ。でも、」
息を吸い、はっきりと彼女に伝えよう。背後、川から流れてくる冷えた風に背中を押されながら俺は言った。
「誰だって知ってることだろ、死んだ人間は蘇らないって」
そう。蛇の皮で人間が蘇るのは物語か夢の中ぐらいだ。現実では、あり得ない。
紫音は未だに俺を見つめ続けている。さっきよりも視線は鋭く、両手を強く握りしめた彼女はしばらくしてからポツリと呟いた。
「蓮さんなら私と同じだと思ったのに。蓮さんだけは私の気持ちを理解してくれると、そう思ってたのに」
「申し訳ないけど、それは違うよ」
「違うって、何がですか」
怒気を含んだ声と共に紫音の両目が俺を睨みつける。だが俺は紫音ではなくその隣、睦美がいるのだろう場所を見た。
夢の中ならばそこに睦美の姿を見ることができたのかもしれないが、それはもう無理な話だ。そして重要なのは、何が見えているのかということ。
「紫音。君には睦美がどう見えているんだ」
俺の質問に紫音は隣を見上げ、そして答えた。
「お姉ちゃんはいつも通りです」
「いつも通り、君より背が高いのか」
五年前に亡くなった睦美と今の紫音では間違いなく紫音の方が身長は上だ。辻崎姉妹と三人で並んだ時、妹より下から見上げてくる姉の姿におかしな感覚を抱いたことは記憶にも新しい。だからこそ不思議だった。どうして紫音が姉である睦美を見上げるのか。姉である睦美に、年上らしい要素を求めるのか。
しかしその意味を俺が口に出すよりも早く、波打ち際で紫音は叫んでいた。
「当たり前でしょう! お姉ちゃんは生きてるんです。私のそばでずっと、今も! 中学を卒業して、高校を卒業して、大学に行って、それでもずっと私のそばにいてくれて。これからもお姉ちゃんと一緒の時間を過ごすんです! それを夢だとかそんな言葉で片付けないで!」
体の奥底にあるものを吐き出すような勢いで紫音は叫ぶ。その言葉を否定することは大きな罪かもしれない。もしも彼女に恨まれるなら、俺はそれを受け入れよう。
その覚悟を持って俺は言う。彼女にとって致命傷になりかねない事実を。
「俺に見えたのは、五年前のアイツだったよ。川で別れた時から変わらない、中学の制服を着た睦美だった。ほら、俺とお前はこんなに違う」
そう告げると、紫音の顔に浮かんでいた様々な感情がバラバラと音を立てるように崩れていく。そうして最後に残ったのは、哀しみに染まる少女の泣き顔だけだった。
「――あ、あ」
俺は睦美と過ごした過去を。二度と戻れない、心地よい過去を求めた。
紫音は睦美と過ごす未来を。二度と過ごせない、もしもの未来を求めた。
その違いは決して、見過ごすことのできないものだ。
「嫌だけど、認めたくないけど、現実は変わらないんだ。蛇の皮を集めても、笛をずっと持っていても、俺たちが見ていたのは全部都合のいい幻だったんだ」
「そんな、こと」
言わないで、と。波音で消えてしまいそうなほど小さな呟きが砂利だらけの地面に沈んでいく。俯いた彼女の求めに答える者は誰もいない。それでも紫音は俺や眞田ではなく、自分自身を納得させるようにもう一度声を上げた。
「どうでもいいんです、そんなことは。あなたがどう思おうと、私にはお姉ちゃんが見えている。そう、それでいい。私にはお姉ちゃんさえいればいい」
折れそうになる膝を必死に伸ばし、紫音は俯いていた顔を上げる。そして浅い呼吸を繰り返しながら縋るように隣を見た。見上げた。
「もう、いいです。あなたたちにどう見えても、私のお姉ちゃんはずっとここにいるんだから。それでいいじゃないですか」
彼女の言葉に「そうだな」と言いたい気持ちを抑え、俺は最後の質問を口に出すことにした。きっと紫音も心のどこかでは睦美のことに気づいていたのかもしれない。ただ、それを指摘する相手がいなかっただけで。
だから俺がそれを担おう。睦美から頼まれたこともそうだが、似た夢を見た者として。
「じゃあ最後に一つだけ。五年前、俺の前で川に落ちた睦美はお前の隣で今、なにをしているんだ?」
「お姉ちゃんは、ここにいます」
咄嗟に自分の隣へ、そこにいるだろう姉に向かって紫音が手を伸ばす。肩に触れようとでもしたのだろうか。それとも手を握ろうとしたのか。しかし彼女の手は空を切り、何も掴むことは無い。現実に存在しないものに、触れることはできないのだから。
「睦美は俺の前で死んだんだ。川に落ちて死んで、もう二度と戻ってこない。これが現実なんだよ」
「嫌だ! そんな話、聞きたくない」
その場にしゃがみ込んだ紫音が耳を両手で塞ぐ。眞田が紫音の方へ駆け寄っていくが、俺はまだ口を閉じるわけにはいかなかった。
「俺だってそうだ。あの時見たものが嘘だって、現実じゃないって信じたかった。でもそうはならないんだよ。どれだけ昔に戻りたくても俺たちは戻れないんだ」
時間という川の流れに抗うことはできない。どれだけ必死に川底の石にしがみついても、いつかは流されてしまうのが運命だ。
「そろそろ現実を見るしかないんだよ。俺も、お前も。夢を見ていられる時間はもう終わりなんだ」
それは俺自身にも言えることだ。夢はいつか終わる。永遠に見る夢はきっと現実を離れて死んでいることと変わらない。そして夢を見ていた少女は今、川と海の境目で顔を上げようとしていた。
「紫音ちゃん、大丈夫?」
そばに駆け寄った眞田がそう言うのも耳に届いていないのか。紫音は塞いでいた耳から手を離すと、中空に向かって指を震わせながら伸ばしていく。
「まって、どこにいくの」
その声も体も夏だというのに風邪を引いたかのように震えている。目の前の空間を必死に握りしめようとする紫音だが、その手は何も掴むことができないままだった。
「うそ、だめ、いかないで。わたしのこと嫌いなの? ねぇ、まって、だめ!」
何も知らない人間が見ればただの一人芝居に映るかもしれないだろう。現実を認めまいと紫音は必死に手を伸ばし、声を荒げてでも姉を呼び止めようとする。だが悲しいかな。紫音が伸ばした指の先に睦美の姿は欠片も無い。
彼女にとっては今まで見ていた夢の中で最も険しい時間だろう。その苦しさを少しは理解できるような気もする。俺がたった数日だけ味わった夢に、紫音は睦美が死んでからの五年間ずっと浸っていたのだ。心地よい夢から引き上げられる辛さは彼女にしか分からない。それでも彼女が夢から覚めることを、紫音が夢に見ていた睦美は誰よりも願っているはずだ。
「あぁ……きえちゃう、おねえちゃんが」
叫びながら伸ばした紫音の手が空を切る。二度、三度と繰り返しても結果は変わらない。そして少女はその場に膝から崩れ落ちた。
「あ、あぁっ。ああぁぁぁああっ!!」
慟哭が打ち寄せる波の音と混ざり合って溶けていく。祭りの喧騒によって少女の叫びは覆い隠されるだろうか。今の彼女が見ず知らずの人間に見られることは俺としても避けたかった。
「……紫音」
砂利だらけの海岸に蹲る紫音へ近づき、その丸まった背中を黙って見下ろす。これ以上俺から何かを言えば、必要以上に彼女を傷つけるかもしれなかった。代わりに首から提げていた笛を手に取り、吹き口を唇に触れさせる。そして、
「――」
五年間、一度も吹いたことのなかった笛から音があふれ出す。その音色は川やダムで聞こえたものとは比較にならないほど不格好なものだ。しかし、だからこそ睦美に届いてほしいと願って俺は息を注ぎ続ける。そうして奏でた笛の音は真っ暗な海に響き渡り、黒い夜空へ飛び立った。
「れん、さん?」
「睦美に貰ってから一回も吹いたことがなかったからな。せめて、これで許してくれるといいんだけど」
どうだろう。睦美は笑ってくれそうな気もするが、もしかすると誰の物かも分からないリコーダーを拾って渡してくるかもしれない。葬式にすら出なかった俺にはいいお仕置きだろう。そんなことを考えながら海を見ていると、不意に頭上が明るくなった。
「花火、始まったんだ」
眞田の声につられて顔を上げると、夜空には火薬を餌にして無数の花が咲いていた。横を見れば、目尻を濡らしながら空を見上げる紫音の姿がある。彼女は俺ではなく夜空の花火を見つめたままだが、その唇から小さな声が漏れる。
「なんで、一人で泣かせてくれないんですか」
「決まってるだろ。睦美といたら、一人で泣いていられるはずないからな」
「……ふふっ。そうかもしれないですね」
黒い夜空を埋め尽くすほどの無数の花は海面に反射し、火薬が炸裂する轟音と共に視界の全てが花畑へと変貌していく。夢から覚めて最初に見るものがこれならば、多少の眠気覚ましにもなるだろう。夢から叩き起こされた者同士、俺と紫音は夜空に咲く花火をじっと見つめ続けた。
◆◆◆
「で、なんで俺が送迎役になってるんだよ。ていうか知らない間に人数増えてるし」
「お世話になってしまってすみません」
「だってしょうがないですよ。車の免許持ってるのって常磐先輩だけなんですから」
祭りの終了に合わせて交通規制が解除された国道を一台の軽自動車が走っていく。昨日も乗った車内には眞田や俺だけでなく紫音も乗っており、助手席にいても賑やかな印象を覚えずにはいられない。
「で、行先は辻崎の家でいいのか」
「はい。お願いします」
後部座席に座った紫音が運転席の常磐に頭を下げる。その隣では眞田が「もしまた必要になったら連絡してね」と勝手に話を始めていた。どうやら眞田にとって今回の件で紫音との関係が変わるということはないようだ。
そうして四人で車に揺られていると、やがて見覚えのある家が前方に見えてきた。数日前にも訪れた辻崎姉妹の実家だ。
「すみません。今日は色々とお世話になりました。蓮さんも、その、私のせいで」
「あんまり気にしないでくれ。俺もいい目覚ましになったし、感謝してるんだから。それよりちょっといいか」
眞田や常磐、俺に頭を下げながら車を降りる紫音。その背中に俺は助手席の窓を開けて声をかけた。一つだけ頼みたいことがあるのだ。
「家、少しだけ入らせてくれないか。用が済んだら、すぐに出ていくからさ」
こちらの意図が通じたのだろう。紫音は黙って頷くと、玄関の鍵を開けてくれた。
「すぐ戻ってくるから、ちょっと待ってもらっていいか?」
常磐と眞田が頷いてくれるのを見て、俺は車の外に出て紫音の後を追いかける。
この家の玄関に上がるのは五年ぶりだが、かつての記憶とそう大差はなかった。違いがあるとすれば、廊下の向こうから走ってくる睦美の姿が見えないことだろうか。
「こっちです。両親はもう寝ていると思うので、静かにだけしてもらえば」
紫音の案内に従って廊下を歩いていく。五年前とほとんど変わらない家の様子に懐かしさを覚えながら進んでいると、やがて紫音は居間の前で足を止め、先に入るよう手で促してきた。どうやら、ここにあるらしい。
扉を開けて中に入ると、最初に目についたのは居間の隅に置かれた黒い仏壇だ。そこには辻崎家の先祖代々の位牌に並んで、一人の写真が置かれている。遠くからでも見間違えるはずがないそれは辻崎睦美の遺影だ。その瞬間、俺の両足は仏壇の前に駆け寄り、膝を畳んで正座していた。
「遅くなって悪かった」
五年間の遅刻を彼女は果たして許してくれるだろうか。答えの返ってこない問いかけを思い浮かべながら両手を合わせ、目を閉じる。そして言わなければいけない。五年前に伝えるべきだった睦美への言葉を。
「――ありがとう。それと、さよなら」
悼みと祈りが彼女に届くように想いながら告げる。ゆっくりと瞼を開けば、視界の上方には睦美の遺影があった。睦美は五年前と変わらない明るい笑顔で俺を見つめている。
「――ふっ」
お前は変わらないな。思わずそう言ってしまいそうになる。その笑った顔は夢で見るよりも鮮やかで、温かい。あの頃過ごした時間を思い起こさせるものだった。
「こんなことならさっさと来ればよかったよな」
本当に呆れてしまう。蛇や笛なんかを使うより、歩いてくるだけで俺は求めていたものを得られたのに。だが今さら後悔したって意味はない。それよりもこれから夢で会った時に胸を張って話ができるよう、マシな生き方をしていく方が何倍も良い。だから最後に言うことがあるとすれば、これくらいだろう。
もう一度両手を合わせ、俺は言う。
「おやすみ。またな」
眠るあなたへ。
どうかその眠りが心地よく、穏やかなものでありますように。
夜笛と蛇 河北 ミカン @kawakita_m
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