【17】草原の特殊エリア・三尾の妖狐
一面に広がるススキの草原。
風が吹くたびに、銀色の波が大地を滑るように揺れ動く。月の光が差し込むような幻想的な空間の中、ぽつんと佇む一つの古ぼけた祠があった。
その前に立つ影──朧。
狐耳をわずかに揺らし、腰にかかる尻尾をゆっくりと撫でながら、祠を見上げていた。
「思ったより早く辿り着いたわね。」
一週間。
朧はその全てをダンジョン探索に費やし、着実に力を取り戻してきた。
《現在レベル:25》
《アクティブスキル》:龍の息、魔力操作
《パッシブスキル》:吸血、貪食者
《種族スキル》:擬態・吸収2・適応
《職業スキル》:格闘・構え・重撃
レベルは25まで戻り、戦闘技術もさらなる洗練を遂げている。
何より、**『貪食者』**によって個体値は最初の時とは違って全て完璧な100%。
全てが理想的な成長を遂げ、今の朧は以前とは比べものにならない力を手にしていた。
「これで“次”へ進む準備は整ったわ。」
祠は古く、崩れかけた木材と石で組まれていた。まるで何かを封じているかのように、異様な静寂が漂っている。
朧は指を顎に当て、小さく笑った。
「……ゲームと同じならこの祠を壊すとボスが呼び出されるはず」
この場特殊エリアを探索を続ける中で掴んでいた。
祠を破壊することで、通常探索者が立ち入れない領域──**“ボスの特殊エリア”**への扉が開く。
朧は祠に向かって歩を進めると、両手をゆっくりと開いた。
「……壊すわよ。」
立ち止まり、深く息を吸い込む。
魔力が体内を巡り、筋肉に圧縮された力が満ちていく。
「“魔力操作”──出力、最大。」
狐耳をピンと立て、尻尾が空気を割るように動いた。
魔力を纏った拳を、祠の中心へと放つ。
ドンッ!!
鈍い音と共に祠が粉々に砕け散る。その瞬間、周囲の空気が変わった。
「……!」
祠が破壊されると同時に、周囲の地形が急激に変わり始めた。
辺り一面がススキに覆われ、銀色の穂が月光を反射して光を放つ。かつての草原は完全に消え失せ、幻想的な光景が広がっていた。
「ゲームと同じだけど…こうして実際に見ると感じ入るものがあるわね」
朧の声が風に溶ける。
そのとき、ススキの海の奥から、一つの影が現れた。
「……ようやく来たのね。」
声なき声。冷たくも妖艶な気配。
ススキを踏みしめる音が近づき、やがて現れたのは──
《三尾の妖狐》
滑らかな銀の毛並み。
背後には三本の尾が優雅に揺れている。
黄金色に輝く瞳が、まっすぐに朧を射抜いた。
「……へぇ。」
朧の唇に笑みが浮かぶ。
三尾の妖狐は無言のまま、ススキの海を歩む。
その一歩ごとに大気が震え、魔力が漂う。
朧は静かに構えを取った。
爪がわずかに光を帯び、尻尾が後方で大きく弧を描く。
「来なさい─!」
その瞬間、空気が張り詰めた。
三尾の妖狐。
その黄金の瞳がわずかに細まり、月光を反射する尾がふわりと揺れた。
次の瞬間、朧の視界がぼやけた。
「……幻惑、ね。」
空気が揺れたかと思うと、三尾の妖狐の姿が四方に分裂した。
まるで四体の妖狐が周囲を取り囲むように立っている。
(本体はどれ? ……いいえ、焦る必要はないわ。)
朧はわずかに膝を曲げ、構えを取る。
その場から動かず、相手の出方を待つ姿勢。
“構え”発動──防御力上昇、次の攻撃威力増幅。
「来なさい。あなたが動くまで、私は動かないわ。」
四体の妖狐の幻影が同時に尾を振る。
風が吹き荒れる中、氷の刃が無数に出現し、朧に向かって一直線に襲いかかった。
「氷属性……この距離なら避けずに受けた方が安全ね」
氷の刃が次々と朧の体をかすめ、数本が確かに肌を裂いた。
ズシャアッ!
浅い傷口から血がにじむ。しかし、その瞬間――
【適応発動:氷属性ダメージ5%軽減獲得。】
「悪くないわ……だけど思ったより大丈夫ね、個体値MAXは伊達じゃないって事ね。」
傷を受けたにも関わらず、表情一つ変えず、静かに呼吸を整える。
「次は……」
周囲がふっと暗転した。
月明かりが遮断され、視界がほぼゼロになる。
(視覚遮断型の幻惑……冷静に気配を。)
耳を澄ます。
かすかな足音、風を切る音。
「――そこ。」
朧はその場から動かず、拳を一閃させた。
何もない空間を打ち抜いたはずの拳が、鈍い衝撃音と共に何か硬いものを叩いた。
「……本体を捉えたわね。」
闇が晴れる。
三尾の妖狐の一体が僅かに体勢を崩しているのが見えた。
(やはり幻惑で注意を逸らし、本体で攻撃する戦法か……。)
その隙を狙う。
「“重撃”──!」
スキルで強化された一撃を、間髪入れずに叩き込む。
拳に集中された力が地を裂き、衝撃波を伴って妖狐へと放たれた。
ドンッ!!
しかし――
「……ッ!?」
妖狐の体が霧散した。
攻撃が当たる直前に、完全な幻影へと変わったのだ。
(……この段階であれを使う?)
朧は眉をひそめる。
「さすが試練と呼ばれるだけはあるわね……。」
“重撃”の反動で生じた一瞬の隙を突くように、後方から妖狐の尾が迫っていた。
「っ……!」
回避はしない。
その場で踏みとどまり、体勢を低くして力を溜めてカウンターを狙う
妖狐の尾が朧を打ち据える。
ズガッ!!
苦悶の声を上げず、朧はダメージを受け止めた。
【適応発動:幻惑属性ダメージ5%軽減獲得。】
(これで氷属性と幻惑属性、両方で耐性を蓄積中。)
痛みによって意識が研ぎ澄まされる。
体力は確実に削られているが、今こそ“吸血”で回復する好機だった。
「次はこちらの番よ。」
朧は拳を固めた。
だが、それはフェイント
一瞬、尻尾が擬態を解除してその口を開鋭利な牙を顕にする!
スルッ……
妖狐がその動きに気づいた瞬間、朧は距離を詰めずに中距離から尻尾を鞭のように振るった。
バシュンッ!!
尻尾が妖狐の肩口をかすめ、わずかに血を飛び散らせる。
その瞬間、吸血の効果によって朧の体に赤い光が集まり、体力がわずかに回復した。
「ふふっ、悪くないわ。」
妖狐が後退する。
だが、今度は三本の尾全てが同時に動き出した。
「……また幻惑ね?」
空間が歪む。
無数の妖狐が現れ、その全てが異なる動作を始める。
一体は氷の刃を展開。
一体は稲光を帯びた爪を広げる。
一体は淡い光を放ち、空間を歪めている。
「次の一手で決めるつもりね。魔力操作の範囲攻撃でキャンセルさせるのは簡単だけど……付き合ってあげようかしら。」
三尾の妖狐が再び尾を掲げ、空気がひんやりと冷たくなる。朧は静かに息を吐き、腰を落とした。未だ距離を詰めず、その場に立ち尽くしている。攻撃を受け、“適応”を蓄積させた体は少しずつ敵の攻撃特性に順応しているが、その効果は10秒間その属性の攻撃を喰らわなければリセットされてしまう。時間を無駄にはできないのだけど。
妖狐は、静かに動いた。
瞬間、また空間が歪む。朧の視界に複数の妖狐が映り込んだ。四方八方、まるで全方向から同時に迫りくるかのような動き。
(……また幻影。でも、攻撃してこなければ“適応”は維持できない。わざと時間を稼いでリセットを狙っているわね。)
朧は冷静だった。**10秒以内に攻撃を受けなければ、獲得した耐性は消える。**相手はその仕組みをどうやってか理解した上で、幻惑を駆使して牽制しているのだ。
時間を稼がせない。
朧は右手を開き、魔力を指先に集中させた。
「“魔力操作”――これで、間合いの無意味さを教えてあげる。」
その瞬間、指先から淡い蒼い光が広がり、朧の右腕が淡い光を帯びる。魔力の刃が指先をなぞるように形成され、肉体的なリーチを超えた範囲まで攻撃が届く状態になった。
(これなら、距離を詰めなくても十分よ。)
妖狐の一体が、距離を詰めた。幻影か本体かを見極める余裕はなかった。だが、必要もない。魔力を纏った右手を鋭く振り払う。
スパンッ――
空気を裂く音と共に、一体の幻影が音もなく消えた。やはり偽物。しかし、その瞬間、真正面から突撃してくる本体の存在を感知する。
「今度こそ、あなたを捉える。」
朧は体をわずかに捻り、拳を突き出した。魔力によって伸びた攻撃範囲が妖狐の動きを捕える。
鋭い衝撃音が響き、妖狐の肩口に拳がかすめた。血が飛沫を描き、夜気を染めた。
(傷を与えた……!)
朧の体を巡る感覚が、心地よい熱をもたらした。**“吸血”**によって与えたダメージ分、体力が回復していく。
しかし、妖狐はそのまま転倒せず、地を蹴って再び距離を取った。
「……やるじゃない。」
朧は目を細める。動きが鈍っているのは間違いない。HPを十分に削った手応えがあった。あと一撃で“吸収”が発動できる条件を満たす。
だが、その時。
妖狐が口元をわずかに吊り上げた気がした。
「……っ、これは……!」
次の瞬間、視界が黒く塗りつぶされた。
再びの完全な視覚遮断。
(……また幻惑! ここで時間を稼げば、“適応”がリセットされると踏んでいるのね……?)
冷気、雷撃、そして幻惑。これまで蓄積してきた耐性がすべて無駄になる。朧は考える間もなく、即座に行動した。
「そんなこと、させるわけないでしょう!」
**“魔力操作”**を再度発動。右腕を振るい、空間ごと霧を裂いた。
蒼い閃光が闇を払う。幻惑が消え、視界が回復したその時、妖狐の本体がほぼ同じ位置に立っているのが見えた。
「見つけたわ。」
朧は間合いを一瞬で詰めた。今度は魔力操作によって形状を細長く変えた拳――ほぼ槍のように伸びた一撃を放つ。
妖狐は回避を試みた。しかし、攻撃範囲の拡張を読んでいなかったのか、その肩口を再び捉えた。
ズシャッ!
鋭い裂傷が走る。妖狐の動きが止まり、その体がよろめいた。
(あの感じ…HPが10%を切ったわね…!)
チャンス。
朧の目が鋭く光る。体内で何かがざわつく感覚があった。**“吸収”**が発動可能な状態だ。
「ふふ……そろそろ、いい頃合いね。」
軽く笑った朧は、ゆっくりと歩を進める。妖狐との距離を、じり、じりと詰めていく。
先ほどまで慎重に戦いを進めていたはずの彼女だが、その表情に今は余裕しかなかった。
(もう十分。あなたから得られるものは見極めたわ。)
妖狐の戦闘スタイルは理解している。幻惑魔法を中心とした攪乱戦術、幻影と実体を巧みに使い分けた高い知能戦。さらに属性攻撃を組み合わせた複合戦術も持つ。
――その中で、最も必要な物は。
“魅了”。
一瞬の視線や仕草で相手の心を奪い、思考を鈍らせる力。直接的な戦闘力はないが、その支配力は戦闘以外にも応用できる極めて有用な能力、ゲームと同じならこの子も持っているはず。
朧の背後で、ふわりと揺れていた狐の尻尾が形を変え始めた。
――スル、スルリ……
触手の本質を露わにするように、尾が滑らかに長く、太く変化していく。今まで美しく揺れていた尾は、見る者を威圧する異形の存在感を放ち始めた。
妖狐がわずかに後退する。尾の擬態解除を目の当たりにして、本能的な恐怖を感じ取ったのだろう。
「どうしたの? さっきまでの威勢はどこへ行ったのかしら。」
朧は足を止めない。
妖狐は逃れようと後方へ飛ぶが、その動きを読んでいた朧は一瞬で間合いを詰めた。魔力操作は必要ない。今は“直接”捕らえる時。
「もう逃がさないわよ。」
触手の尾が妖狐の体を絡め取った。妖狐が鋭く鳴くが、その声はススキの海に虚しく響くだけだった。
「……それじゃあ、いただくわね。」
淡々とした声とともに、朧は尾を大きく広げる。まるで飲み込む準備をするかのように、尾の内部が空洞化し、蠢く触手が絡み合う。
妖狐の体がずるりと尾の内部へと引き込まれていく。
「ふふ……心配しなくていいわ。全部、無駄にはしないから。」
最後に妖狐の尾がかすかに震えたが、それも虚しく、完全に尾の中へと消えた。
刹那、朧の体内で何かがうねるような感覚が走った。
“吸収”が発動する瞬間だ。
体の奥深くで、妖狐の能力が分解され、選択を求めるような声なき声が響いた。
(……幻影生成、空間歪曲、属性制御……他にも良さそうなのがあるけど、選ぶのは一つ。)
朧は迷わなかった。
“魅了”。
この能力は、単なる幻惑以上の可能性を秘めている。戦闘では敵の動きを鈍らせ、場合によっては一瞬で勝敗を決する決定打にもなる。そして、それ以上に――
「敵が寄って来やすくなるのよね…このスキル。これでますますレベル上げが捗るわ」
薄く笑みを浮かべた朧の瞳が、一瞬だけ赤く光を帯びた。
選択が完了した瞬間、体内のざわつきは静まり、全てが収束していく。
朧はゆっくりと深呼吸をした。
尾は再び狐の形に戻り、何事もなかったかのように揺れている。
「さて……試練は、これで終了よね?」
周囲にはもう三尾の妖狐の気配はない。完全に吸収し、その力を自身の一部としたのだ。
ススキの海が風に揺れ、月光が静かにその姿を照らす。
朧はその場に立ったまま、指先を動かした口元に添え。
そして、微笑んだ。
「――これで、もっと楽しくなりそうね。」
月夜の静寂が、朧の冷たい声を飲み込んだ。
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