記憶の器

山河

第1話(完結)



 その店は、どこにでもあるような街角の小さな骨董品屋だった。窓ガラスには薄く埃が積もり、店先には年季の入った木製の看板が斜めに掛かっている。金色で書かれた店名は、かつての煌びやかさを失い、薄れて読みにくい。「時の器」と読めたのも、まじまじと見つめた末のことだ。

男は震える左手で飲みかけのスキットルをポケットにしまうと店の中に入った。

からん。とかるい鈴の音が鳴り、古い蝶番のきしむ音をドアノブ越しに感じながら男は中に入った。

「いらっしゃいませ」と奥から声。

店の奥に佇む店主は、どこか虚ろな目で、こちらに微笑みかける。白髪混じりの髪を背中に流し、狭い店内を歩くと、彼が歩いた後に微かに揺れる埃に満ちた空気が、どこか不気味だった。

その店に並ぶ品々もまた、人目を引くほどの価値があるようには思えないが、いかにも好事家の興味を引く代物であった。

「何か、ご入用でしょうか。」

「いや、特になにか探しているわけではないんだ。ただ、すこし通りかかったもので」と言いながら男は酒臭くないか、少し不安に思いながら右手で髪をかきあげた。

「そうですか。このような店ですのでそういうお客様は大勢いらっしゃいます。そうですね、よければお茶でも飲みながらゆっくりしていってください。」

 いつもの間に用意されたのだろう。縁のかけた古伊万里に注がれた渋茶を差し出すと店主はニタリと笑った。

「このような商売ですから、必ず売れる。というものでもなく、来られた方が欲しいものを見つけてくださればよろしいのですよ」

 はぁ。と男は相槌をしながら渡された渋茶をすする。青い草原のような香りと深い旨味が熱とともに口に広がる。戦争が終わり、まだ5年も経たないというのにこのようなものがよく手に入るものだ。

「見たところ、軍人さんとお見受けしますが。」

「元軍人だよ。なんせ、この国にはもう軍隊なんてものはないんだ。最近この界隈には俺みたいなごろつきばかりさ。」

 自嘲気味に男は笑うと震える左手を見せた。男の中指と薬指は欠損し、それが先の戦火において如何にそうなったのか想像することは容易かった。

「さようですか。それは大儀なことでございました。」

 店主は少し改まった口調で言った。

「大儀もなにもないさ。この国は敗戦国、そしてなすべきことも為さずに中途半端に生きのびた卑怯者が残っただけさ。まぁ、それは私だけではないがね。」

 ふっ、とまた男は自嘲気味に笑った。店主はというと、薄い微笑を浮かべるのみで彼に反論するわけでもなく助言するわけでもなく、静かに頷いた。

 男は酔いが手伝ったせいもあったが、ついつい口が滑ったことが恥ずかしくなり、一気に茶を飲み干すと湯呑を店主に返した。

 さて、踵を返し帰ろうとする男の視線の端に一客のティーカップが目に留まった。

 少し高い棚に鎮座したそれは、紅茶用なのだろう。高めの高台に優雅な曲線を描く胴と腰は白磁特有の艶で光り、薔薇をあしらった深紅の花々がそのカップとソーサーの上で咲き誇っていた。天縁を金であしらわれたその杯は、どこか甘美な香りを漂わせているようにすら見えた。

「そのカップがお気に入りですか。」

「ん、あぁ。」

 と男はあいまいに答えた。

「でも、私には似合わないかな。可憐すぎる。」

「そんなことはありませんよ。このようなものを求める殿方も多いものです。」

そういいながら店主は木箱を逆さにした踏み台を使い、それを男の前に下した。

「どうでしょうか?」

店主が差し出したカップとソーサーは近くで見るとさらに見事な意匠がこらしてあった。花を描いた漆のような深い赤は見つめていると何か違う世界に引き寄せられるような深みがあった。金の縁取りはまばゆく、それが本物の金で装飾されているのは明らかであった。しかし、なによりも素晴らしいのはそのカップとソーサーの細くしなやかな高台と茶を注ぐために広くデザインされた杯の曲線が美しく調和し、dressに身を包んだ少女を連想させるようであった。

 このような趣向は男の趣味ではなかった。

 が、古来より調和のとれた美術品がえてして興味のない人であってもその視線を集めるように、優雅な曲線と花柄が織りなす調和は男の目をとらえ離さないのであった。

「少女趣味だな。」

「でも、悪いものではないでしょう。」

「そうだな。」

 男は考えた。この手の品物は高価に違いない。まず、買ったところで損をするものではないだろう。しかし、酔った勢いで買うにしては衝動的すぎるのではないだろうか。…懐には今日の仕事で得たわずかな金と、昨日の賭博で得た泡銭があった。今日、明日の食い扶持には十分な余裕はあるが…。

「高いんだろう。」

「そうでも、ありません。これほどで。」

 店主は指を2つ重ねて示した。

「そのような大金は持ち合わせていない。」

「桁を一つお間違いでは?」

 店主は今度はカップを裏返した。粗末なシヰルで値段が書かれたそれは。なるほど、男が思っていたよりも桁が一つ少なかった。

「安すぎないか。」

「骨董品ですので。元来、食器というものは骨董になると値が崩れるものです。それに、」

「それに?」

「この杯には、ある秘密がございます。その価値を知るのは、お客様次第ですが…」


男は特に考えることもなく、それを買い求めた。

帰路についた男は電車の揺れる椅子に窮屈そうに腰掛けながら店でのことを思い出した。

「気に入らなければ、またお売りいただければよろしいので。」

 と、相変わらずつかみどころのない店主は微笑みながら藁半紙に彼のものとなったティーカップを包んだ。

 古びた列車を乗り継ぎ、人も疎らとなった集合住宅の一角が彼の巣であった。

 男は部屋に帰ると、途中で買ったパンに何を塗るでもなくそのまま頬張る。汚れた机の隅に置いてあったた肉の缶詰を一つ開け、薄暗い部屋の中で、むしゃりむしゃりと齧った。

「茶がいるな。」

 思い出したように男は買い求めた茶器をバックから取り出す。

 薄暗い男の部屋の中に連れ込まれたそれは、殺風景な部屋にまったくというほど似合わなかった。

 男はそれを流しで軽く濯いで机の上に置くと、アルマイトの薬缶に湯を沸かし同じく骨董品屋で買い求めた茶を沸かした。

 薬缶に直接放り込まれた茶葉は沸騰した湯の中をぐるぐると踊りすぐに薄い茶色に水色を変えるのであった。

「結局、茶葉を買い求めたらいい値段になったな。」

 おそらく骨董品屋の店主はそれで利鞘を得ているのだろう。茶器は法外に安かったが、勧められ買った茶葉はなかなか良い値段がした。

「戦災を逃れた舶来品ですので。相応の値段がするのです。」

 と店主は言っていた。なるほど、あれだけの大火をのがれたのだからと思う一方、(うまく乗せられたな、)と男は思うのであった。

 有名な茶葉であれば名もあるだろうに。恐らく様々な品種を寄せ集め嵩増しされたそれは戦災でもなければ口にいれるのも躊躇われる怪しいものであった。

「まぁ、こういう時代だ。普段飲んでる爆弾酒みたいなもんさ。」

 男は誰にいうでもなし、呟くと薬缶の茶をカップに注いだ。

 薄い褐色の水色がカップに広がる。男はそれをゆっくりと飲み干した。

 淡い萌木の香りと、茶葉の旨味がひろがった。香り付けに混ぜられているのだろう。燻した松のような香りが後から追いかける。

「どうしてなかなか、美味いじゃないか。」

 パンの口直しに茶を何度かすすり、それから男はスキットルに残った蒸留酒を一気に飲み干すと床に就いた。


その夜、男は奇妙な夢を見た。


夢の中で男は霧に包まれた森の中にいた。それ自体は何度も見た夢だ。薄暗い風景はどこまでも続き、露にぬれた土に足は沈み来い彼に不快感を与えた。森の中で男はかつて自分がいた戦場に戻っていた。といっても、彼の頭の上を銃火が飛び交うわけではない。

ただ、水を打ったように静寂な森の木々は良く見渡すと彼の元同期や部下たちであった。自分が戦場に残してきた彼がじっと彼のことを見つめている。

(ああ、またこの夢だ。)

深い絶望と陰鬱とした彼らの目に見つめられながら男はその場に立ち尽くす。

何度ともなく見返した夢が今日もまた彼を襲うのだ。逃げ出すことのできない夢中で彼は動くことができず、朝まで過ごすのが日常であった。

(お前だ。お前が俺たちをこうしたんだ。)

 とも言うような冷たい目で顔の群れは男をにらみつける。

(ああ、わかってるよ。俺もそのうちに、そっちにいくんだから放っておいてくれ。)

 男はそう思いながら無数の顔と対峙する。これがいつも朝まで続くのだ。

しかし、今日はいつもと様子が違った。

霧の中からおぼろげながらぼんやりと人影が近づいてくる。

夢の中で彼の前に現れたのは、純白のドレスを纏った少女だった。

長いカールのかかった亜麻色の髪が、まるで夕陽に照らされた絹糸のように輝き、透き通るような肌には儚げな美しさが宿っている。彼女の華奢な身体はシルク生地のドレスに包まれており、袖やスカートに施されたゴールドワークと深紅の刺繍の花々は彼女自身の気品を際立たせていた。

少女は微笑しながらその場にゆったりとしゃがみこむ。

いつの間に湧いたのだろう。彼女の足元にひっそりと湧き出る泉の水面に細い指で触れ、軽やかにすくい上げると、透明な液体が彼女の手のひらに留まった。柔らかな水の感触が、その優美な手に淡い光を帯びさせる。

ほどなくすると、その水は色合いを変え、ほのかに湯気を登らせる紅茶になり、琥珀色の輝きを帯びた。その淡い輝きは、まるで古の宝石のように、時の流れを映し出していた。

(どうぞ、召し上がって。)

 と、でもいうように、少女は男を見つめる。

 男はその行為が息でもするように当然のことのように感じられた。彼は少女の細い指にすくわれた琥珀色の茶にそのまま口を付けた。

 不思議なことに、その味はまるで彼の心を洗い流すようだった。苦い記憶や不安が少しずつ薄れていき、ただその紅茶の温かさだけが残る。

 彼が少女の手からその水を飲むと、少しずつ木々の幻影も消えていくのだった。


 気づくと朝になっていた。

 二日酔いの不快感で目覚めることが常になっていた男は不思議に今日は頭が痛むこともなく床を抜け出すことができた。

 しかしながら、昨日の夢はなんだったのだ。

 あわただしく仕事に赴く準備をしながら男は昨日の夢について振り返った。日頃みる悪夢とは異なったあのひと時…。

それからというもの、男は夜ごと同じ夢を見た。

彼の悪夢は続いたものの、そのたびに少女が現れ、彼のために紅茶を用意してくれた。二人の間に会話はなく、ただ単調な同じ夢が繰り返されるだけであった。少女は言葉もなく微笑み、ただ彼に紅茶を注ぎ続けた。彼がその紅茶を飲むたびに、次第に彼の心は軽くなっていくのを感じた。。

ある夜、彼は勇気を出して少女に尋ねた。

「君は、誰なんだ?」

少女は少し悲しげに微笑むだけだった。


それからのしばらく。男の生活は前よりも満ちたものであった。生活は以前と変わらず貧しいものであった、仕事もつまらなくまた、生きるために必要なものでしかなかった。

 しかし、毎晩の喫茶は彼の生活に彩りを与え、夢幻の世界は心の苦痛を和らげた。

「前より少し、柔和な顔つきになりましたね。」

 彼が茶葉を再度求めに骨董品屋に行くと店主が言った。別にこの店にこだわる必要もなかったが、思ったよりも茶葉の風味がよく、またこの店主に話してみたいという好奇心が男をまた、この店に惹きつけたのだ。

「そうだろうか。」

「そうですとも、よいことがありましたか。」


いや。

 

とだけ男は言った。店主もそれ以上聞くことはなかった。

「あの茶器なんだが。あまり聞くことでもないかもしれないが。どこから仕入れたものなんだ?」

「どこから来た品物かお知りになりたいのですか。」

 うぅむ。と悩んだ顔を店主はすると黙り込んだ。

「あまりお話できることではありませんので。ですが、どこかのお屋敷から縁あってこちらに来たもの。とだけ聞いております。」

 私も古物売りが持ち込んだものを売っているだけなので深くは知らないのです。と店主は付け加えた。

「そうか。」

「なにか、ご不満な点がありましたか?」

「そういうわけではない。ただ。」

「不思議な夢をご覧になったとか?」

 というと店主はまた捉えどころのない表情でニタリと笑った。

「どうしてそれを?」

「いえ、なぜかというと困りますが。骨董商の勘というものでしょうか。なんとなくお客様のお顔を見ているとそのような気がしましたので。」

 と言いながら店主は近くにあったはたきをとると、棚の埃を払い始めた。

「この商売をしていると、深くは聞かなくても何となく察することが多いのです。あの商品、お客様にご迷惑をおかけしているようでしたらこちらで買い戻しさせていただきますが。」

「それには及ばない。」

「お気に召したんですね。」

「そういうわけでもないが。」

 気に入った。というわけではなかったが、男は決して毎晩の夢が嫌いではなかった。むしろ、今まで悪夢にうなされていたことを考えるとあの茶器が家にきてよかったのかもしれない。だとすれば手放す理由もないだろう。

「もし、そう思えるなら大事にされてください。物にはそれぞれ役目がありますので。物にとってはそれぞれの役目を果たすことが一番の喜びなのです。」

 店主はそういうとまた、ニタリと笑うのであった。

 

 それからも、男と少女の夢は何度も続いた。男はいつもの森の中に佇み、少女はいつも同じように彼に紅茶を恵んだ。

相変わらず、夢の中には彼を恨む人々が待ち構えていたが、それは前ほど苦痛には思われなかった。

代り映えのしない夢であったが、悪夢から徐々に離れていく男の心は徐々に活力を取り戻していった。


日々は過ぎていった。そして、その日の夢はいつもの森ではなく、どこかの屋敷であった。


男が森の中に立ち尽くしていると、その建物は霧の中からぼんやりと現れた。クラシックな木造の骨格には洋風の装飾が施され、恐らくは幾度も改装を施されているのだろう。時間の経過が生み出した古色蒼然たる様でその屋敷は存在していた。

男は玄関を開けると、燭台にぼんやりと照らされた木造の広間が広がっている。丁寧にワックスで磨かれた木造の床は足音を吸い込み、壁には微かな蝋燭の灯りが揺らめいている。大きな窓から漏れる薄暗い光は、厚手のカーテンに遮られており、その影は陽炎のように壁に揺れる。

ふと、部屋の中に進むにつれて、男はいくつもの人影と声がすることに気付いた。

すっ

すっ

と、それらは男の脇をすり抜ける。

(ああ、忙しい。忙しい。)

 影はぼんやりとした蜃気楼のように明確な輪郭を持たず、まるで持ち主だげが消失してしまい、影法師だけがそこに残されたように忙しく男の周囲をうごきまわるのであった。

 よくよく、人影を凝視するとそれらが使用人のような姿をしていることに男は気付いた。それらが家の中を右往左往するが、誰も男には気づかない。否、まるで、そこに誰もいないかのように、男など存在しないようにその場を行き来するのであった。

 男は自身も幽霊のように影の間をすり抜け、家の奥に続く廊下を踏みしめる。奥に行くほど気配の無くなる廊下の果てに、一つの重厚な扉があった。扉は古びた木材で作られ、その表面には年月の刻んだ傷跡が無数に走っていた。

 ぎぃ。

という木の軋む音とともに扉を開けるとその向こうには小さな子供部屋があった。

 ベージュの壁紙に彩られた部屋には、いくつかの本棚と、部屋に不釣り合いな豪華なシャンデリアがぶら下げられ、部屋の中心には可愛らしいベッドが置かれていた。

そして、そのベッドの中心にはまるで人形のように一人の少女が眠っている。

白いレースに飾られた天蓋付きのベッドに眠る少女は彼がいつも夢で出会うその娘であった。

 ベッドの近くにはテェブルが置かれ、その上には彼が常用しているあのカップが鎮座していた。

 男はふと、少女の顔を覗き込んだ。夢の中でいつも見るその顔は瞼を閉じ、眠りについている。夢と違うのはいつもであれば林檎のように赤く血色のよい頬が、陶器のように青白くなり、年相応とは思えない儚さと病的な印象を彼に感じさせた。

 こんこんと眠り続ける少女はまるで本当になにかの人形にすら思えた。

 静かな部屋の中で、ぐらっ。と世界が揺らいだ。

 動揺にたじろぐように男は目を閉ざす。

再び目を開けると場所こそ変わらないものの、部屋の様子は大きく変わっていた。

 部屋の外から見える街並みからは煙がもくもくと立ち上り、赤い炎がちろちろとそれらの街並みを舐めるように巻き上がっている。

 空に目を移すと宵闇を照らすように大きな爆撃機が何機も連なり夜に溶けていく。

(ああ、この景色は自分が守れなかった世界だ)

 男はこの風景を何度ともなくみたことがある。それは、ある時は市街地の夜であり、ある時は鬱蒼とした森の中であった。男は自分の瞼と耳に焼き付いたそれらの景色が、音が騒然と自分の中によみがえるのを感じた。同時に胃の奥から苦い液体がこみ上げ、彼はその場でえづいた。

 気づくと少女はベッドにはすでに居なかった。

 男は部屋から出ると階段を通り、広間へと向かった。

 広間もすでに様変わりしており、そこには傷痍兵たちが各々の傷を癒していた。

 手を欠いたもの、膝から先を失ったもの、砲弾の爆音で耳を塞がれたもの。彼が戦場でみてきたそれらの光景が目の前には広がっていた。

 それらの兵士の合間をひっきりなしに女中や看護婦、医者の影が行き交う。


 あの娘はどこかにいるのだろうか。

 男の足は自然に少女を探すためにふらふらと歩き始めていた。

「あの娘だ。」

 少女は、廊下にいた。しかし、その姿は彼が見慣れたドレスではなく、紺のサイレンスーツに身を包み兵士たちの手当をしていた。

 先の夢よりも血色がよく見えるのは、濃いめに頬に紅をさしているからなのであろう。よくみると瘦せくぼんだ眼窩が栄養状態の悪さを表していた。

 しかし、ベッドでの姿とうって変わり、彼女はそれでも健気に傷痍兵の看護にあたっていた。

 錆びた薬缶を持ち出すと、あのカップに薬湯を注ぎ、手の使えない兵士たちにそれを分け与えた。

 おおよそ、自分も体調がすぐれないだろうに、それでも傷ついた兵士たちに笑みを絶やさず、彼女は優しく薬湯を彼らに差し出すのだった。

 

 また、ぐらっと男は世界が揺らぐのを感じた。


 次の瞬間にその光景はすべて赤い火に飲み込まれて消えた。

 赤い火は少女も兵士も屋敷もすべてを飲み尽くした。 そうして、すべては夢の様に燃えつきた。

 悪夢のような、それでいて儚い世界はそうして消えたのだった。

 

 …数日がたった。

それでも、次の日も、そしてまたその次の日も。男と少女の夢は続いた。

あの夢などなかったかのように。

男はもう、少女に何も聞かなかったし、少女もまた何も変わらず彼に茶を恵んだ。

そんなある日、彼が夢の中で紅茶を飲み干した瞬間、少女は微笑みながら初めて口を開いた。

「もう、大丈夫。あなたはきっと、これから自分の道を歩いていける。」

 少女はそういうと男の手を取り、黄昏色に輝く両目で彼の顔をじっと見つめた。

 刹那、少女は足元から徐々に霧に包まれると何事もなかったかのようにその場から消えていった。


朝。男が目を覚ますと、カップは机の上で静かに砕け散っていた。床に散った破片を拾い集めながら、彼は涙を拭った。が、そのカップが壊れたことを悲しむ気持ちは不思議と湧いてこなかった。ただ、彼の心の奥底で暖かなものが灯っているのを感じた。

「君もまた、役目を果たしたんだな。」

翌朝、彼はまた、自分の手で茶を淹れた。

茶器の代わりに、錆びついたアルマイトのカップになみなみと注がれた茶はいつもと変わらない味だった。

 いつの間にか春が来たのだろう。窓の外には柔らかな陽光が差し込み、風が軽やかに道端の名もなき花たちを揺らしていた。その景色を眺めながら、一杯の紅茶を静かに啜った彼の表情は、穏やかだった。

そしてその景色を眺めるいつもより柔和な顔だちの彼の中に宿るのは、少女との日々の記憶と、その温かさだった。

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