第2話 起承転結の、拝承!

 ちゃんと呼ばれるその子狼に、まだ名前はないのでした。

 もちろん、虐待などでは断じてありません。彼はまだ産まれて1年も絶たないほどに幼いものですから、正式な名前をもらっていないだけです。

 したがって、当たり障りのない外観的特徴より、呼びやすくてのちのちに愛称として呼べる程度には個体識別のできる、仮の名前で呼ばれているのです。あるいは幼名などと呼ばれるものです。


 さて、どうして彼がくろみみちゃんと呼ばれているかといえば、その小さな頭頂から愛らしくもにょっきり生えている素敵なお耳の、半分から少しばかり先っぽの方だけが、まるで夜が明ける少し前のお空のような、輝くように青くも真っ黒な毛色をしているためでした。

 本人(本犬?本狼?)もこの愛らしい呼び名を気に入っているのか、呼ばれるたんびにそのお耳を、同じく先っぽだけ真っ黒な尻尾を楽しげに右へ左へ動かします。なんと愛らしいことでしょう。

 きっと彼は自分のことを、世界で一番かわいいワンちゃん――狼のはずですが――だと思っているのでしょう。それは全くその通り。

 世界のすべてのワンちゃんは、みんな世界で一番かわいいワンちゃんです。すべて平等に、もちろんベクトルは色々ですが、優劣なくかわいいのです。

 

 それはさておき。


 くろみみちゃんとその兄弟姉妹は、俗に帰らずの森なんて呼ばれている、森林エルフが木を切ったり切らなかったりする深い深い森のそば、彼らとくろみみちゃんの血族が仲良く寒さに凍える集落で生まれました。

 くろみみちゃんの血族一党は、この時季、つまり冬の終わりごろから春先にかけて家族を増やすのです。しかし、これは彼らの生理的なものではありません。

 この時期にちいさな子犬が産まれると、まだまだ寒いけれども残りの薪が心許なく、なにより暇を持て余したエルフの衆が、こぞって子犬たちを湯たんぽの代わりにと溺愛しながらお世話に勤しむのです。そうなると、もう親狼は授乳以外のお世話が不要ですから、手が空いて楽で楽で仕方ありません。それゆえに、彼らはこの頃に家族が増えるように調整するのです。なんと賢く強かな種族でありましょう。


 そんなわけでくろみみちゃんも、お母さんから産まれて数週間がたち、お耳がまだまだふんにゃりしていながらも、キュンキュン鳴いては活発に動き回る毛玉と化した頃、さるエルフの一家に湯たんぽととして、あるいはいっときの家族として迎え入れられたのです。

 くろみみちゃんは、先にも申しました通り、お耳と尻尾のさきっちょだけが真っ黒なワンちゃん―――狼では?―――であります。

 母や父、兄弟姉妹は、多少の明暗はあるとしても、たいてい真っ白か、あるいはクリーム色からなる毛色をしています。これは他の血族も同じよう。

 つまり、くろみみちゃんだけが、お耳や尻尾がちょっとだけ黒いのです。

 愚かなるヒトにあっては、たとえ同胞であっても、こんな些細な外観上の違いから仲間外れ、強く言うと差別なんかをしがちなものです。全くヒトは愚かなことです。

 エルフの衆のいち、くろみみちゃんの仮の家族も、くろみみちゃんの血族がかような軽薄な行いなどしないものと内心理解しつつも、けれども心配故か、くろみみちゃんがほかの血族からいじめられてはいやせんかと、多少過保護に愛情を深く……つまり甘やかして接していました。

 むろん、この場合の甘やかすとは、オイタを叱らないことではありません。

 褒めるときは端から見て「なんだってそんなに褒めそやす?」と聞きたくなる程にべったべたに褒め、叱るべきときはその場でうんと叱り、けれど叩いたりいじめたりは一切しない。そんな普通のことを、ちょっと、うそです随分と、ものすごく、この上なく、とんでもなく甘めにした、ただそれだけです。それだけ、といえるでしょうか?


 するとどうでしょう。

 くろみみちゃんといえば、ヒトを見れば自分を甘やかし、遊んでくれて、自分が満足するまで撫でてくれるものと。自分はとってもかわいいので、いい子に、つまりバレるようないたずらをしなければ、みんなうんと自分を甘やかすものであると学んで育ちました。概ねそのとおりです。大正解です。なんと賢い子でしょう!

 遠からず、ノーベルいい子ちゃん賞を総なめにするに違いありません。ノーベル賞ってなんですか?なにかは知りませんが、いい子ちゃん賞がないことは確かです。

 しかればここに、大変に人懐っこく甘えん坊で、きわめてかしこく、それでいてちょっとばかりびびりで、たまに我のつよい…理想的な家族犬が爆誕したのです。

 ハイ拍手!



 はてさて、そんなキュートなくろみみちゃんがのんびり楽しく過ごしていた、あるお日さまがぽかぽかと心地よい日のことです。

 いつものように、くろみみちゃんが仮の家族の長であるところの、エルダーハイエルフのお姉様のお膝にのって、お昼寝しながら甘えていたときのことです。

 お手紙を眺めていたお姉さまの眉間に皺がよっていることが、それからお手紙にものすごく長い文章が書いてあること、そしてそのお手紙が木箱いっぱいに山と積まれていることに、お昼寝から目覚めたくろみみちゃんはぼんやり気づきました。

 くろみみちゃんは文字がわかりません。

 さらにいえば、正直なところ、ヒトのことばだって、自分に都合の良い「かわいい」「いい子」「えらい」「おいで」「おやつ」「ごはん」や、反対に叱られてとっ捕まって―――なんでそんなことをするかは当犬にはわかりませんが、抱き上げられてのダンスをさせられる―――の前に言われる「コラ!」や、せんせいにいたいことをされる前触れの「病院」しかわかりません。

 実際はわかっているけれど、必要がないからわかっていないふりをしています。


 けれども、愛されボーイたるくろみみみちゃんは、お姉さまの表情から、お手紙の内容が困ったことに違いないと思いました。

 特に一等くろみみちゃんを甘やかすお姉さまにとっての困りごとであるならば、彼にとっても困ったことです。

 だって、彼は大変に甘えん坊だからです。そして、自分が十分に満足するまで甘えるには、相手に自分を甘やかす以外のがない方がいいということを理解している、賢い甘えん坊です。

 ゆえに、お姉様の困りごとが、自分を甘やかすことよりも上位に存在していると、彼の甘えん坊感覚ラブリーセンスは判断しました。これは一大事です。


「またあの子は……こんなに手紙を書いて、内容は三行……いいえ三単語にまとめられるじゃないですか。」


 丁寧にお手紙をたたみ直し、それらが山と積まれた木箱に放り込みながら、皺の寄った眉間をもみます。眼精疲労でしょうか、あるいは精神的な頭痛でしょうか。

 どちらにせよ、お姉様が皺を気にして常々すごく高い、いいお化粧品を塗り込んでいることを、くろみみちゃんやその兄弟、血族は知っています。知っていますが、知らないフリをしています。もしバレたら、たいへんですから。なに、知っていても口に出せませんからなんの問題もありません。


 じゃなかった。

 ひとつため息をつかれたお姉様が、お膝の上のくろみみちゃんの、小さくかわいいお耳のあたりに手を伸ばされます。

 撫でてくれるに違いない、ばっちこいとくろみみちゃんはお耳をたたみます。パヤパヤの産毛と増えてきたしっかりした毛の混じった、子犬特有のなんとも言えぬ感触をしばし嗜んでいただきました。


 どのくらいたったでしょう。

 どのくらいでも、くろみみちゃんには関係がありません。なぜなら、くろみみちゃんがもういいよ、というまで―――いいませんが―――ヒトはくろみみちゃんを撫で、撫でに撫で、うっとりさせる義務があるからです。

 

 ふたたびため息をついたお姉様が、くろみみちゃんを抱きかかえ、立ちあがろうとして……そのもこもこで、焼き立てのパンのようにふっくらしたお手々に目を留めました。

 それから、まだまだ先っぽがふにゃりとしているお耳にも。

 

「きみ、適任かもねえ…。」


 呟くなり、ちょっぴりはしたないですが、すこし股を広げて座り直します。

 そうして太ももの上、ちょうど脚の間に、仰向けにころんと寝かせます。ちょうどすっぽり、ジャストサイズなのでした。

 

「お手々を拝借~」


 どこから出ているんでしょう。喉から出ていることは当然ですが、ぎょっとするほど甘く高い、猫なで声でした。そのままいい子いい子偉い子~と歌うように、お姉さまは寝転され、ちょっと楽しくなっているくろみみちゃんの、前足をさわさわ優しくいじくります。すこしくすぐったいのでした。


「うーんおおきなお手々。きみは大きくなるねえ。」


 くろみみちゃんのお手々、つまり前足は、まだまだラブリーなサイズではありますが、ぎゅっと詰まって骨もしっかりした、素敵なお手々でありました。こういうお手々の子は大きくなることを、お姉さまはとってもご存知でした。

 お次は後ろ足~と、やっぱり歌うように後ろ足をさわります。まだ固い土を知らない肉球は、素敵にピンク色でやわらかさと弾力を兼ね備えた、魔性な魅力を備えています。いい匂いもします。


「くーちゃん、いーってして、いーって」


 いー?ネイピア数ですか?

 よくわかりませんが、お姉さまが変な顔をしているのが面白くて、楽しくて、くろみみちゃんは真似っ子のつもりで、いーっと口を開けました。


「はい、いい子いい子。そのままそのまま、ちょっと我慢してね」


 褒められました。パタパタと尻尾が動きます。

 お姉さまが手早く、まだかわいい乳歯ばかりのお口を触ります。これもまたくすぐったいのでした。


「我慢してね―――はいありがとう。素敵なお口でした。いい子だね~。」


 また褒められてしまいました。尻尾の動きはバシバシと強まり、反動で体が揺れ動きます。

 それから、お姉さまはお目々や顔、お耳、首ときて身体に尻尾と、なにかを確かめるようにくろみみちゃんの全身をくまなく触り、ときに撫で回します。

 くろみみちゃんときたら、もうくすぐったいやら気持ちがいいやらで尻尾の動きは更に激しく、興奮してへっへキュンキュン鳴きながらうねうね身動ぎしていました。


「はいおしまい。全く異常なし、健康優良児!」


 仕上げとばかり、おなかのあたりをわしゃわしゃとちょっぴり強めに撫でかき回され、くろみみちゃんのテンションはいよいよ天元を突破する勢いでした。

 激しく身動ぎを繰り返し、鳴いて―――けれど吠えません、いい子なので―――くろみみちゃんは瞳を潤ませてもっともっと撫でろと要求します。

 そんな彼の顎の下を、左の人差し指でビビビッと高速往復しながら、お姉さまは空いた右の指を鳴らします。


「風よ」


 ふわり優しい風が吹きました。

 風はどこからか便箋を巻き上げると、寸分ずれなくお姉さまの真ん前に滑り落として置きました。


「さてと。『適任あり。大変ラブリー。要面談。』っと。」


 さらさらと筆を走らせたお姉さまが、再び―――今度は左の指を鳴らします。右手は、言うまでもありませんでしょうが、くろみみちゃんのお腹を高速往復するのに忙しいのでした。

 ひとりでに、便箋は幾重にも複雑に折りたたまれていきました。そうして鳥のような形になったそれは、窓に向かって羽ばたき……開いていないのでぶつかって落ちてました。

 ピィピィ抗議めいた鳴き声を発するそれに、ごめんごめんと声をかけながら、お姉さまはくろみみちゃんを抱き上げ、窓を開けます。

 そこから肩を怒らせた便箋が飛んでいくのを、くろみみちゃんはお姉さまの腕の中で、首を傾げて不思議そうに見つめていました。

 彼が初めて見る、エルフの魔法でした。


「くろみみちゃん。かわいいかわいい愛しき君に、素敵な家族と誇らしき名前、無限の未来がありますように。」


 たくろみみちゃんの頭を優しく撫で、顔を埋めて大きく息を吸ってから、口づけを落とし、お姉さまはそっと呟かれました。

 エルフの衆から神のごとく慕われる、エルダーハイエルフの祝福でした。

 

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