パラレル・ワールド・パラドックス

八咫守史郎

プロローグ

 記憶とは曖昧なものだ。百年も満たない人生の中で、全てを記憶している人間はそういないだろう。ある人は産声を上げ、親の顔を見た時から覚えている。ある人は昨日食べた夕食の献立さえ覚えていない。ある人は大切な人の些細な表情や行動を覚えている。ある人は自分の傲慢さを隠すべく、都合の良いことのみ覚えている。それら自分や他人からの記憶が主観的・客観的な「わたし」という存在をかたちづくり、見ている世界を築き、人生の軌跡を歩んでいく。こんな風に考えているのはこの地球に住む生き物の中で人間だけであろう。そして記憶とは人間が自己を認識し、当たり前が当たり前だと感じられる人の機能だ。それはもはや人間の五感に次ぐ第六の感覚のような、それ以上に人間が人間たらしめる魂と言っていいだろう。だが時に脳は受けた物理的・精神的な攻撃や傷から記憶を意図的に取り消し、ストレスや肉体への損傷を回避する機能も存在する。その回避行動の一つに記憶喪失がある。

 ここに記憶のない魂が一つ。それは何者であるかを見失っていた。名前は、一人称は、性別は何なのか、血の繋がる家族や仲を深めた友達はどんな人達なのか、住んでいた場所やどんな世界に存在していたのか、検討もつかなかった。

 ある時、魂は子と妻をもっていた。

 ある時、魂は勉学するのが当たり前でない時代の学生だった。

 ある時、魂は身体の機能が飛躍的に向上した超能力者だった。

 ある時、魂は身体が平行になっていた。

 ある時、魂は電脳プログラムの一部だった。

 ある時、魂は腐った身体を操る怪物だった。

 ある時、魂は世界でたった一人の生き残りだった。

 これらバラバラの自分が各世界に点在し、それぞれの人生を一週間で生きている。しかし、その魂はどの自分も、どの世界も身に覚えがなかった。かたちの合わない身体はパズルのピースが型にはまらないような空虚さが、住みゆく世界は写真を隔てて見ているような無縁さがあった。元の自分と元の世界への帰還へ、焦燥感に駆られてしまう。他人と触れ合っても、自分がどんな人柄で、どんな見た目であるのか思い出すことが叶わないい。こんな毎日を、一日一世界で一週間を過ごしていく。この生活になってから、どれだけの時間をかけたかも忘れてしまっている。ただその魂は各々の人生に大きな違和感を持ちながらも、定かではない本当の「わたし」と本当の世界を探し求め続けている。


〈一〉

 私は一体誰なのだろう?

 目の前にある姿見を覗きこむのは、丸い光の玉だった。鏡に映るそれは中空に浮いていた。光の玉は右往左往しながら、自分の疑問を払拭しようと試みていた。しかし、何度見ても同じ光景だけを姿見は映し出す。すると光の玉は震えた。円の縁がややぼやけて薄くなる。音には出ないが泣いているのだ。自分の本当の姿が見えないこと、記憶を喪失していることへの絶望が、どこに位置するかもわからないその胸を包んだ。そのまま姿見から浮遊して離れると、部屋の隅にいる男がそれを見ているのに気が付いた。

「何度見たって同じだぜ。自分の記憶がないと見えないって教えたろう?」

 忠告した男――ケーンは小さなカウンターの中に腰掛けていた。

 光の玉は大きく揺れだし、男へ向かって距離を詰めだした。怒りに身を任せ、そのまま突進を試みたが、ケーンの左片手の平で鷲掴みされた。諦めきれず手の中で暴れてみようとするものの、側に食い込んだ指がその行動を許さなかった。

「もうどれくらいかね、あんたがここへ来たのは……。ここまで手間取っている客はあんたが初めてだ。」

 その言葉を言い終える頃には、光の玉は震えるのをやめた。だんだんと力が抜けていくのをケーンも感じたのか、ゆっくり指をそれから離した。

 彼らのいる場所は赤い五階建てのコンクリートビルで、周りには建物らしき構造物は存在していなかった。ビルの外は漆黒の常闇が広がっており、空には太陽や月、星の輝きは存在しない。まるでビルの建つその部分だけ、黒いキャンパスの中に四角く切り取ったような背景にみえる。ビルの中はかつて使われていたであろう商業の跡が残っていた。一階は総合案内の受付とカフェテリア。ニ階は今、光の玉とケーンがいる図書室。三階は雑貨屋。四階は和洋中のレストランに囲まれたフードコーナー。五階はほぼ何もない大広間。これら階層の天井と壁には赤褐色の錆で侵食されていた。椅子や机などのインテリアとうもほぼ同じような状態であり、あまり居心地が良くない印象なのは明らかだった。しかし他に頼れそうな場所がないことや、長く留まり過ぎた影響からか、光の玉はこの建物の環境に対して慣れてしまっていた。

 その光の玉は思考する。なぜ自分がこんな目に遭わないといけないのか。これだけ長い時間を掛けても、どの場所が本来の自分と世界に相応しいか見極めることができなかった。わかっているのはどの世界のどの自分も、魂が否定をし続けていることと、自分は人間であるということ。「私」という一人称も確信はない。「私」が似合うと思われる女性か、ただ単に堅苦しい性格の持ち主なのかも定かではない。ケーン曰く、自分を取り戻す手掛かりが七つの世界にあるということだが、もう諦めた方が賢明なのではないかと思い始める。実はとっくに体が朽ちていて、自分は幽霊のような存在で彷徨っているだけではないか……。

 しかし、光の玉は考え込んでも解決しないということをこの一年間に経験していた。ケーンの元を離れた光の玉はカウンターの横を通り過ぎて、壁際に設置してある本棚へ移動した。光の玉が浮遊するその先、丁度同じ高さの棚から一冊の本が抜けた。光の玉にとってはあったはずの手や腕を動かしている意識はあるのだが、現実には突然動いたようにしか見えていなかった。本と光の玉は浮遊して、そばにあった机についた。その本は「私」の記録である。ページが全面にわたってあらゆるメモがされていた。更に「世界」と書かれたものから矢印を引っ張って、あらゆる出来事の記憶をとどめていた。光の玉は一年前の自分とこれまでの経験を思い出しながら考察を始める。

 

 光の玉とケーンと出会ったのは、ここ一年ほど前になる。気が付くと光の玉は赤いビルの前にいた。どのようにここへ辿り着き、なぜここへいるのかわからないままだった。そして何より、自分が何者であるかの記憶が一切なかった。周りを見ても他に行く場所がなかったので、不安をよそにビルへ入ると、小さなカウンターに見合わない大柄な男が座っていた。「いらっしゃいませ」と出迎えられた声から、男にとってこれが日常的に繰り返される事柄であると伺えた。光の玉は彼に聞く、ここは何処であるのかと。

「ここは人生を終えた魂たちが最初に辿り着く天国と地獄の入口。俺はこのビルの管理と魂の純度の選定を任されている。ケーンと呼んでくれ。」

 そう聞いた時は冗談と欺瞞に感じた光の玉であったが、自分が何者たるかわからない状況の中でもあっさりと受け入れられた。その理由は、この場所や目の前にいるケーンの存在だけでなく、次の行為をケーンから言い渡されたからだ。

「そこに体重計があるだろ?乗ってみてくれ。」

 ケーンが指指した先には、カウンターの横に付けられた体重計があった。言われるままに、光の玉は近づいて体重計に乗った。その時、自分の体がないことを初めて自覚したのだ。それにも関わらず、体重計の測定場所は小さな軋みをたてながら機能し、測定数値が記載された円の中の針が、乗ったものの重さを指し示した。

光の玉は戸惑った。ここにきてあらゆる状況が普通とは逸脱していることに気付き理解した。自分は何らかの状況で死に、この場所へ導かれたということを。だが、そう思い至った瞬間の中で、次のケーンの言葉が光の玉の混乱を更に招いた。

「だけどあんたは普通に死んでいるのとは違うみたいだな。いつもだったら二十一グラムぴったりで針が収まるんだが、明らかに重さがないみたいだし。」

 体重計の針は真上の0へ示し、全くもって動かなかった。ケーンの話すことが本当であれば、自分は死人で21グラムしかないはずがそうではないそうだ。どうやらケーンにとっても異例の事態らしい。だが彼は冷静に言葉を続ける。

「あんた、どうやらこの世界に迷い込んだらしいな。」

ケーンは光の玉へ目を移して言う。

――私は一体、誰なんだ。どうやってここに来たのだ?記憶をどうしたら取り戻せばいい?

 光の玉は混乱とともに吐き出された言葉は、空気に音を伝えることはなかった。さらに光の玉が大きな感情を乱すと、輝きが点滅していた。それら行為(現象)がより一層、光の玉が人間として生きていないことを証明しているようだった。

「落ち着けよ。記憶を失ってここに来る魂自体は珍しいことじゃない。これは一時的かもしれないしな。」

 ケーンは光の玉を落ち着かせようと声を掛ける。光の玉は彼の言葉に意識を向け、呼吸を整える。最も輝きの光量が抑えられたという現象で表される為、光の玉はより一層自分の存在に疑問を深くするばかりだった。

――本当に私の記憶は取り戻せるのか?

 光の玉は自分の心に冷静さを取り戻すよう努めながら、ケーンに問いかける。今、この場において彼を頼る他に選択肢がない。少なくとも今の自分の姿を知って取り乱すくらいに、かつては人間であったことを知っている。

「少なくともこれまではそうだったな。だが今回のあんたみたいに迷い込んだ例は初めてだ。立ち話も何だから取り敢えず案内するわ。」

 カウンターの外へ出たケーンは手腕を使って、こっちへ来い、とジェスチャーしながら光の玉を導いた。光の玉も彼へついていくとエレベーターに辿り着いた。二人は乗り込むと上昇を始める。古い様式で錆びていた為だったのか、上昇している間に金属の軋む音が大きく聞こえ続けて不安を煽っているようだった。次の瞬間、小さな衝撃がエレベーターを包むと目的の五階へ到着した。扉を抜けた先に広々とした空間と木製のドアが壁際に七つ並んでいた。それぞれのドアにはオブジェが象られていた。左から三日月、焚き火の炎、片目から流れる涙、一本の木、ベル、埴輪、太陽となっている。

「こんなにドアが出てくるのは初めてだ。いつもなら一人に一つのはずなんだが…。」

 見慣れているはずのケーンが驚きの表情を見せる、と同時に彼にとっての異例に続く異例に、期待を膨らませているようだった。ルーティンをこなすばかりの仕事についているだろう彼にとっては、珍しくも目新しい状況に楽しみを覚えていた。そんな彼の姿をみた光の玉は更に不安が広がり、彼の表情と反応に少し苛つきを感じた。そんな刹那の感情も、光の玉に降りかかっている問題と比べれば小さなことであった。

 ケーンは改めて姿勢を正して言葉を放つ。

「ともかくあんたの望みは、この七つの扉の何処かにあるだろう。だがこれらから答えを得られるかは、あんた次第だ。何処かの世界に、あんたのその魂に見合う人生が見つかるはずだ。俺はこんなみてくれだが仕事は最後までやり通す主義でね。最後まで付き合うぞ。」

 彼の激励とも慰めともとれる台詞に、他にやはり選択肢がないと光の玉は思った。考えているばかりでは仕方ないので、光の玉は一番左の扉に近づいた。ドアノブに手を掛け、扉を開く。真っ暗な空間に勇気を振り飛び込む。「私」と「私の人生」を必ず見つけると心に決意した瞬間、体を包む重力と肌に感じる熱を感じ始めた。

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