春もたけなわ
月見 夕
置いてきた季節と雨はうたう
手のひらの中のグラスがからりと音を立てて、僕は我に返った。
辺りは昔話に花が咲いた連中の笑い声で溢れかえっていた。酒が入り、どうもぼんやりしていたようだった。
迷いに迷って参加した同窓会という名の飲み会は、懐かしい面々で賑わっていた。卒業して以来会わなかった者も多い。跡形もないほど太ったり痩せたりしている者もいて、こうして座敷の隅でひとり酒を傾けて眺めることで参加している気分を味わっていた。元々喧騒は苦手だから、これくらいの距離感がちょうどいい。
酔いやすい頬を冷たい手のひらで冷ましていると、後ろから控えめに肩を叩かれた。
「ね、鳥野」
忘れようもない声に、一瞬心臓を掴まれたような思いがした。涼しくて、軽やかな響き。
「……久しぶり」
振り向いたそこに、真由ちゃんがいた。酒で上気した頬がふわりと微笑んでいる。
「何年ぶり?」
「八年くらい、かな。卒業してからだから」
「そっか……全然変わんないね、鳥野は」
「真由ちゃんは」
変わったね、と口を衝きそうになって、思わず飲み込んだ。
「……綺麗になったね」
「何よ今の間は」
不服そうに唇を尖らせる癖は、当時のままだった。その後すぐに噴き出して笑う、その顔も。
なんと言うか、彼女は垢抜けた感じがしていた。目元の力が抜けて肌は健康的な赤みが差し、落ち着いた化粧が映えて全体的な印象が優しくなっていた。だから「綺麗になった」という感想は心の底から出た言葉だった。僕が見ていた彼女が、いつも泣き顔だったからかもしれないけれど。
あの頃僕らはどうやって話していただろうと言葉に詰まっていると、真由ちゃんは「そう」と先に口を開いた。
「今度結婚するの。私」
「それは……おめでとう。本当に」
驚きと同時にするりと出た言葉に、真由ちゃんは嬉しそうにはにかんだ。あっけなく誰かのものになる彼女に、寂しいとか残念とかいう感情が湧かなかったといえば嘘になる。けれどそれらを差し引いても幸せそうな花嫁に安堵して、それ以外の祝福の言葉は見当たらなかった。
それから僕らは空白の期間を埋め合うように近況を語った。あの頃より少し大人になった真由ちゃんの、あの頃と変わらない語り口に僕は静かに耳を傾けていた。
そこにはただあの頃に僕らが求めていた安寧が、確かに横たわっていた。
「じゃあね」
「うん。真由ちゃんも元気で……お幸せに」
「ふふ、鳥野もね」
笑って手を振り、真由ちゃんはタクシー乗り場の方向に踵を返した。その足取りに迷いや躊躇いはなくて、ワンピースの後ろ姿は程なくして人波に消えていった。
僕らの明日はもう来ない。夜景のひとつになれた真由ちゃんと僕の人生は、二度と交わることはないだろうと予感させた。けれど、きっともうそれで良かった。
真由ちゃんと別れた帰り道、不思議と足取りはふわふわとしていた。酔いはそこそこ覚めていて、胸の内は軽くなっていた。
八年ぶりの彼女が、思い出の中より綺麗に笑っていたからかもしれない。どうか、優しいあの子がこの先の人生で幸せでありますように。
自宅の最寄り駅で降りてバスロータリーに出ると、しとしとと細い雨が降っていた。あたたかな雨だった。
そういえばあの頃、ふたりでこんな夜に歩いて帰ったっけ。古いビニール傘を広げて、明かりのない道を――。
濡れる足音が呼び水となって、これまで思い返すことのなかった思い出が、次々と溢れ返るように去来した。
傘の下で交わした指切りと、雨が閉じ込めた永遠にも似た時間。
住宅街の隙間から見上げた花火の欠片と、振り見た横顔。
並んで揺られた鈍行列車で、そっと重ねた指先。
真っ白なシーツの海で微睡む瞳。
桜舞う並木道で、先を行く彼女の後ろ姿。
駆け出した靴音に、振り向いてくれることを期待していたあの日。
それらはどれも、記憶の彼方に押し込めていた真由ちゃんとの淡い思い出だった。
君を思い返せば辛く苦しいことばかり思い出すから、なるべく考えないようにしていた。それらがあまりにも色濃く僕らの青春に影を落としていたから。
でも、ああ……そうか。
僕はちゃんと、あの日の君に恋をしていたんだ。
路線バスが滑るようにやってきて、雨煙を巻いて僕の頬を撫でる。あの頃の君に伝えられなかった青い想いは、花の香混じる春の夜風がそっと運んでいった。
もう君に、届かなくてもいい。
心地よい雨音に耳をすませ、甘い泥濘に揺蕩うように僕は瞳を閉じた。
春もたけなわ 月見 夕 @tsukimi0518
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