ツチノコ

三坂鳴

ツチノコとの暮らし

 僕が玄関の鍵を開けると、「ツチノコ、ただいま」という声に合わせるように、小さな足音が廊下を駆け抜ける。

ドアを開けて靴を脱ぐ間もなく、しっぽを小刻みに揺らしたブラック&タンのミニチュアダックスが足もとへ飛び込んできた。

「おかえり、元気にしてたか?」と言うと、ツチノコは鼻先をちょんと僕のスリッパに押し当ててくる。


 彼の名前は、黒く丸まって寝ているときの姿がまるでツチノコみたいだからだ。

丸まった背中のラインと短めの脚の角度が、ちょっとした奇妙さを醸し出す。

特に寒い季節の夜は、こたつの端っこで見事なまでにきれいな弧を描くので、「まるでツチノコだな」と思わず笑ってしまう。


 「ごはん」の一言を口にすると、部屋の隅から隅まで猛スピードで走り回り始めるのが日課だ。

僕の足をくるくると回っては、しっぽを高く掲げ、さらにくるりと一回転して見せる。

この全身全霊の喜び方は、見ているこっちまで弾む気持ちにさせてくれる。

それでも夜になれば、小さな体を丸めて僕のベッドへ潜り込んできて、足の間にすっぽり収まって寝息を立てる。

毛布の下で時々、ぬくもりを求めて動く様子に気づくと、ふと「生き物を飼っているんだな」としみじみ感じる。


 朝は隅田川の河原まで、二人で散歩に行くのが恒例だ。

少し前までは誰にでも愛想をふりまいていたツチノコだったけれど、いつの間にか人見知りをするようになった。

犬連れの人とすれ違うと、僕の後ろに隠れるようにして、耳だけをピンと立てて警戒している。

そんな様子を見るたびに、「ちょっとビビりすぎじゃないか?」と苦笑いをこぼす。

けれど、この世界には僕とツチノコ、二人だけの秘密の空間が広がっているような気がして、それはそれで悪くないと思える。


 ある日、高い本棚の上にミセスドーナスのドーナツの箱を置きっぱなしにしていた。

絶対に取られる事は無いだろうと思って、会社に出社したが甘かった。

帰宅すると部屋中にドーナツの箱が床に落ちており、吐しゃ物が散乱していた。

真っ先に彼の腹をさすって状態を確かめたが、食べ過ぎで苦しそうにしていた。

高いところに置いてあったドーナツをどうやって取り下ろしたのかは謎のままだ。

「さすがにそこは届かないだろ」と油断していた僕の負けだった。


 別の日の夕暮れ、パソコンで作業をしていると、ツチノコがしきりに足もとでくんくんと鳴いて何かを伝えようとしてくる。

「また散歩の催促か?」と無視を決め込んでキーボードを叩いていると、彼は必死に僕のジーンズの裾を軽く噛んで、視線を台所へ誘導するように動いた。

思わず「なんだよ」と立ち上がったら、その瞬間、ガスコンロの火の音に気づいた。

やかんにかけていたお湯を完全に忘れていたのだ。

慌てて火を止めると、中は空っぽになっていて底が青白く変色している。

もう少しで火事になる所だった。

「ありがとう、ツチノコ。助かったよ」と撫でると、彼は得意そうに鼻を鳴らした。


 そんな頼もしい一面を見せてくれた彼が、ある日、部屋のあちこちに吐きまくってぐったりしている姿を発見したときは、心臓が凍りついた。

急いで動物病院へ連れて行くと、腸に腫瘍ができていると告げられる。

「かなり深刻ですね。治療法については時間をかけて考えましょう」と医者は淡々と説明を続ける。

頭では理解できても、鼓動が早まり、口の中がカラカラに乾いていった。


 入院したツチノコを、僕は毎日仕事帰りに見舞う。

いつもはグッタリと横になっているのに、美人の女性看護師さんが来ると急に体を起こしてしっぽを振り、目をきらきらさせるから呆れてしまう。

「お前、実は元気なんじゃないか?」と冗談まじりで言ったら、看護師さんに「男の子は仕方ないですね」と笑われてしまった。

それでも、日に日に痩せていく姿を見るたびに、胸の奥が静かに軋んでいくのを感じる。


 腸の切断手術という大きな選択肢を提示されたとき、僕は一晩中悩んだ。

手術費用も高く、助かるかどうかはわからない。

ツチノコの体力も落ちている。

いっそ家に連れて帰り、最後まで一緒に過ごしてやるほうがいいのではないか。

結局、僕は彼を退院させることを決めた。


 退院の日、弱々しくなったツチノコを抱きかかえながら、久しぶりに隅田川の河原へ向かった。

ぼんやりとした春の夕陽が川面に反射して、柔らかなオレンジ色を放っている。

「お前、ここ好きだったもんな」と声をかけると、ツチノコはまぶしそうに目を細める。

ふわりと川風が吹いて、少しだけ彼のしっぽが揺れたように見えた。


 それからは有給を取って、部屋にこもりきりでツチノコを看病する毎日だ。

かつて大好きだった犬用のガムには見向きもしなくなり、市販のフルーツ缶詰を差し出しても、申し訳なさそうに一口舐めるだけ。

僕はそんなツチノコに話しかける。

「なあ、ドーナツを盗み食いしたときはあんなに元気だったのに。

もうちょっとだけ、悪さしてもいいんだぞ」

ツチノコは、まるで謝るように僕の手のひらを弱々しく舐める。

その瞳に少し涙がたまっているように見えて、胸が締め付けられる。


 ある夜、彼が急に痙攣し始めた。

「落ち着け、ツチノコ。大丈夫、大丈夫だから」

そう言いながら体をさすってやると、彼は荒い息の合間に僕の顔をじっと見つめる。

やがて主治医に電話を入れると、「正直、もう長くないかもしれません」という冷静な返答が返ってきた。

ツチノコは大粒の涙を浮かべ、まるで「苦しい」と訴えるように小さく鼻を鳴らす。

「いいんだ、もう無理しなくていいから」そう言葉をかけた瞬間、彼の体から力がスッと抜けていった。


 ツチノコをキャリーバッグに入れて、腐敗を防ぐために氷を袋詰めにして周りを冷やす。

心が震えるのをこらえながら移動火葬場に電話をかけると、近所の公園で車を待たせてくれることになった。


 公園に着くと、黒い移動火葬車の前でスタッフの男性が丁寧に頭を下げている。

「すみません。今日、予約をしていた小林と申します」

バッグを抱きしめながら声をかけると、スタッフが静かな口調で応じる。

「小林様ですね。お待ちしておりました。ワンちゃんの火葬でよろしいでしょうか」

「はい…ミニチュアダックスなんですが…今朝、亡くなったばかりで」

「では、お預かりいたします。寒くはありませんでしたか。少しでも何か思い出話などございましたら、伺いながらご準備できます」


 バッグのジッパーを開けて、ツチノコの冷たい体をそっと取り出す。

見覚えのある毛並み、くるんとした耳の先、眠っているかのような顔。

「この子は、ツチノコって言うんです」そう言うと、スタッフは穏やかな表情でうなずく。

「すごくかわいい子ですね。お名前はユニークですが、由来があるんですか」

「黒く丸まった姿が、本当のツチノコみたいに見えて…それで妻がそう呼んだんです。

妻が生きているころ、二人でこの子を可愛がってたんです」

「そうでしたか…きっと奥様も喜んでいると思いますよ」

「ありがとうございます…あの…変に思われるかもしれませんけど、思い出がいろいろ浮かんできて…すみません、取り乱して」

「とんでもないです。大切なご家族だったんですね。こころゆくまで、ゆっくりお別れをなさってください」


 その言葉に促されるように、僕はツチノコの小さな耳をなでながら、ほんのしばらくの間、声にならない別れを告げた。

車の扉がゆっくり閉まり、エンジンがかかる微かな振動が伝わってくる。

ぼんやりと空を見上げながら、ツチノコとの思い出が次々と浮かんでは消えていった。


 ツチノコを失った後、深いペットロスに陥るだろうと覚悟していたのに、意外と大きくは崩れなかった。

おそらく生きているうちに随分と泣いたからだろう。

それでも部屋に戻ると、空っぽになったベッドの隅を見て少し心が痛む。

ドーナツを盗んで叱ったときのやりとりや、火事を防いでくれた時のあの得意げな顔は、今でもはっきり思い出せる。


 「ツチノコ、ありがとう」

動画フォルダを開いて、彼の姿を再生してみても、撮りためた映像は思ったより少なかった。

きっと、どれだけあっても足りないと思ってしまうのかもしれない。

それでも、長い間そばにいてくれたことに、僕は心から感謝している。

いつかまた、彼のような小さな命と暮らす日が来るかはわからない。

でも今はただ、ツチノコという存在が僕の人生に確かにいたことを、何より大切に思っている。

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ツチノコ 三坂鳴 @strapyoung

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