あの時に戻りたい
南砂 碧海
第1話
翔太は、窓辺で夏の陽射しを感じながら午後のコーヒーを楽しんでいた。翔太は29歳の時に、妻を交通事故で失い一人暮らしとなった。2年前からは、生きる張りや気力もなく会社を辞め、事故の賠償金で細々と暮らしている。こんな状況から2人で暮らしたマンションを離れて、小さな超格安マンションに住み替えた。手狭だが明るい南向きの窓辺もあり、お気に入りの住まいだった。購入費用も安かったため事故物件かとも考えたが、今の翔太にはどうでも良い事だった。窓の外には、歩道を歩く人々や車の動きが見える。いつの日からか、こんな午後の窓辺に座るとタイムスリップするという現象が現れていた。
翔太が35歳になったある日の午後、メモに『学生時代の楽しかった頃に戻りたい』と書くと、大学時代の20歳当時にタイムスリップした。翔太の出身は、茨城県日立市という田舎町の出身で日立製作所の発祥の地だ。工場の壁ばかりが目立つ何もない街だった。
翔太は、昔ヒットした『青葉城恋歌』や『オフコース』への憧れもあり『杜の都仙台』の大学を選んだ。みちのく東北の地での初めての一人暮らしは楽しかった。毎年、大学では新入生歓迎コンパがあり沢山の出会いがあった。その当時、初めて付き合った彼女は、岩手県から出てきた娘で『梨花(りんか)』という名前だった。都会的な派手さは無かったが、素直で美しい娘(こ)だった。サークルの勧誘で出会った翔太は一目惚れし、その後、梨花とのデートを重ねるようになる。
梨花は、明るく話し好きで、会うたびに色々な事を話してくれた。
「私の家は、大船渡なの。大船渡って地名、知ってる?家は漁師で、海のすぐ近く。美味しい魚が沢山獲れるんだ。近くの海はリアス式海岸で、広い砂浜は少ないけど磯遊びくらいは出来るよ」
「ウニやアワビとかも獲れるのかな?」
翔太は、そんな食欲の話題を出してしまった自分を恥ずかく思っていた。
「今度、大船渡私の家に遊びにおいで。美味しい物ご馳走してあげるからね」
そんな流れを感じた梨花が笑って応じてくれて、翔太の気持ちは救われた。
それからも、彼女は家族や大船渡の話を沢山してくれた。母親は、漁師の家庭の激務で、梨花の幼い頃に肺炎で亡くなった。それがきっかけで、梨花は看護師を目指し仙台の看護学校に進学したのだ。彼女が仙台を選んだ気持ちは、翔太の旅行気分とは違い遥かに立派なものだった。
翔太の卒業が間近に迫ってきたある日、梨花が、翔太の卒業後の事を尋ねてくる。
「卒業後はどうするの?地元に戻るの?茨城の鹿嶋に労災病院があるから、そちらへ希望を出そうと思うんだけど。どう思う?」
翔太は、就活中で何も決まっていなかった。
「まだ、どこも内定決まってないし、どこに行くか分からないんだ。梨花だけ先に茨城に決まってもなあ。もう少し待って」
「私は、今のうちなら希望を出せば、どの地域へも行けると思うから、就活が決まったら早めに教えてもらうと嬉しいな。どこか就職で行きたい所はあるの?」
「地元周辺にも大きな企業はあるんだけど、東京で働いてみたいと思っているんだ」
翔太は、今の気持ちを伝えた。
「東京か……。私には東京は合わないかな」
梨花は今の気持ちを伝えたが、それから、2人の将来についての話は進まなかった。
翔太は11月になったある日、
「やっと、東京のベンチャー企業に内定したんだ。そこで頑張ろうと思う。住まいは、家賃も高いから通勤できる東京周辺にしようかなと思う。梨花はどうする?」
「やっぱり東京か。私どうしようかな。私、あんまり東京には馴染めないな。茨城ならと思ったけど……」
その言葉に、翔太は何も答えられず2人には沈黙が訪れた。
翔太が地元に戻らないことが分かった時点で、梨花は仙台市の労災病院に勤務する事を決めた。翔太は、予定通り東京で生活を始めた。
距離も東京から仙台と遠く、お互いの仕事の関係からデートも月に1回程度となっていた。次第に2人が出会う間隔は長くなり、いつからか梨花との連絡も自然に取らなくなっていた。その後、翔太は亡くなった妻と出会う事になった。
こんな場面で、この日のタイムスリップが終わり、目を覚ますと窓辺に戻っていた。あまり気持ちの良い過去の旅からの戻りではなかった。
それから数日が過ぎたある日、いつものようにマンションの窓辺でコーヒーを飲み微睡(まどろ)んでいる。この日は、『働く意欲もないこんな自分が、こうして生きていられる事に感謝します。……』と今の素直な気持ちをメモに書いてみた。どうやら、窓辺でメモを書き残すと旅に行けるらしい事が分かっていた。その後、翔太は飲み掛けのコーヒーを残して、ある瞬間にタイムスリップした。
翔太は、総武線で取引先に向かう途中の電車の中にいた。かなり大きな揺れで、電車が横倒しになるのではと思うくらいに激しく揺れた。『3.11 東日本大震災』の揺れだ。
「大きな揺れが発生しています。急ぎ車内から離れてください」
とアナウンスがあり、翔太は電車から急ぎ出て中野駅の外に移動した。ホームを見上げると電車が信じられないくらい大きく揺れているのが見える。持ち合わせていたスマホで状況を確認すると、東北地方太平洋沿岸に10メートル級の津波が来るとのニュース。翔太が今まで体験したことのない情報で、最初はネットに流れるフェイクニュースかと思った。取引先にも商談に行けないことを伝え、会社にも戻れない事態を確認した。既に夕暮れも近く、その後の自分の居場所を考えた。その時、32歳になっていた翔太は、初めて帰宅困難者という状況を味わった。
全ての交通機関が停止し帰れないため近くのホテルの予約を考えたが、既に全て満室で宿泊は無理だった。大江戸線だけが動いていて何とか新宿まで移動した。新宿なら宿泊も何とかなるだろうと根拠もなく考えたのだ。結果は全くダメだった。歩き疲れていると居酒屋で開いている所があり普通に客が座っている。流石に新宿だなと思いながら、疲れと空腹でフラッと店に入った。何ごとも無かったかのように、皆が静かに飲んでいる。
『この人達、今の状況分かってんの?こんな所でのんびりしていて大丈夫?』
翔太は心の中で叫んでいたが、自分も仲間であることは理解していた。翔太はカウンターに座って、ビールと摘みを注文した。誰も何も話さない。こんな時に、静かで不思議な空気を感じた。
『店の人達も今日はどうするのだろう』
と思いながら、疲れた身体を休めた。
カウンターでビールを飲みながらスマホを眺めていると、東北沿岸に大津波が押し寄せかなり大きな被害が出ている映像とニュース、福島で原発事故が発生したことなどが報道されていた。その中で、大船渡などの地域も大きな被害と死傷者、行方不明者が出ている事が報じられていた。
翔太は、大船渡のニュースを聞いて梨花を想い出した。
『今はどうしているだろうか。どこにいるんだろう。病院の仕事で忙しいのかな。きっと、結婚して家族と一緒かな……』
など色々な事が脳裏を掠めた。
グラスを持ちながら、スマホをずっと眺めている。翔太は、その中に気になる災害伝言板のメッセージを見付けた。
『みんな無事ですか?私は大船渡の避難所にいます。運良く津波を逃れました。元気なら連絡ください。梨花』
そんな書き込み。『梨花』という名前はそう多くないように思えたので、あの梨花ではないかと考えていた。
『結婚して大船渡に戻ったのだろうか?』
と考えてみたが判る訳はなく、会いたいという想いだけが高まっていった。
『今は何もできない。無責任な自分が、今更、彼女に何を伝えるんだ』
翔太は、勝手に言い訳をしながらスマホの画面を眺めていた。
『東京へ就職の話をしたあの瞬間に戻れたなら良かったのに。どうして今なんだ』
と今回のタイムスリップを恨んでいた。そうしていると奇蹟のメッセージが、伝言板から飛び込んできた。
『翔太さん、お元気ですか。今回の震災で私の家や船、街はすべて失いました。でも、家族がみんな無事なのが救いです。あの時は、ごめんなさい。その時の私は、東京には着いて行けなかった。今のあなたは幸せですか。私は、これから大船渡の家族と生活を立て直そうと思います。あなたの今を聞いたりはしません。あの映画館の一緒の時間だけは忘れません。楽しかった。大切な宝物です。本当にありがとう』
こんなメッセージが今届くなんてと翔太の心は乱れた。文面から、梨花が独身らしいことは予想できた。翔太は梨花に宛て書き込みをした。
『梨花さん、元気ですか?あなたの伝言板を見ました。今更、許されない事は分かっています。あの時の返事をさせてください。今の僕は、何処でもどんな仕事でも良いから、君と暮らしたいと思っています。これが僕の今の気持ちです。もし許されるなら君の元に向かいます。こんな状況で時間は掛かるかもしれませんが、場所を教えてください』
しばらくして、災害伝言板にメッセージが上がってきた。
『翔太さん、ありがとう。今、私は大船渡の避難所に居ます。父と弟、兄の家族が一緒です。こんな事があるんですね。いけないことだとは思うけど、今はこの不幸に感謝します。梨花』
と書かれていた。
『君の所に向かいます。翔太』
と災害伝言板に迷わず書き込み、次の日から数日、大船渡に行く準備を始めた。車と可能な限りの資材・食材を確保した。
翔太は、ハンドルを握り北へ向かった。高速道路も利用が難しく、長い距離の一般道を走り続けた。
『生きるために、漁師の修行でもするか』
といつになく明るい気持ちになっていた。大船渡の避難所に着くと31歳の梨花が迎えてくれた。懐かしい梨花の笑顔に涙が光った。
「梨花、今までごめん。会いたかった。ここで一緒に暮らそう。良いかな……」
「嬉しい。今の私には何もないけど、こんな不幸の中での出会いに感謝してます」
翔太は、梨花を強く抱きしめた。
今回のタイムスリップでは、翔太がマンションの窓辺に戻ることは無かった。いつの日か、願いが叶えば元には戻らないタイムスリップだったようだ。翔太は、9人目の失踪者となり、マンションの管理者から警察に届けられた。窓辺には、飲み掛けのコーヒーと翔太の直筆でメモが置かれていた。
『働く意欲もないこんな自分が、こうして生きていられる事に感謝します。503号室、あの瞬間に僕を導いてくれてありがとう。これからの幸せのため、この時間を大切にします』
と前向きな文面が書き残されていた。警察は、翔太の筆跡からメモの内容は気にせず遺書と断定した。これまで、この部屋の失踪事件は9件有ったが、全てのケースで対象者は見付かっていない。これまで全ての事件で、残されたメモは前向きで明るい文面が書き残されていたが、捜査上で特に問題にはされなかった。これらの事件は、全て未解決ニュースとして報道されていた。ミステリアスを好む都市伝説ファンの間では、このマンションの503号室は特別な存在、『奇跡の幸せを呼ぶ部屋』としてネットを賑わしていた。
<終>
あの時に戻りたい 南砂 碧海 @nansa_aoi
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