屋上に佇む私と、青い鳥。
月森優月
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屋上の鍵が開いていることに気付いた時、胸が高鳴った。これは「チャンス」? それとも「不運」? 昨日は鍵が閉まっていた。だから私は死ねなかった。でも今日は鍵が開いている。――だから、死ねる。
学校の屋上から飛び降りることは、学校にとってさぞかし迷惑だろう。だからこそ、ここから飛び降りることに意味がある。きっと先生は驚き、生徒は当惑して、職員会議とかPTAが騒いだりとか教育委員会が真相解明しようと調べ回るのだろう。それでいい。私の死には意味を持たせたい。私は死んでから忘れられない生徒になるだろう。
屋上は風が強くうねりを上げ、冬の気配を匂わせた。校庭を見下ろすと、夕日に赤く染まり鉄棒やサッカーゴールの陰が長く伸び、物哀しさが漂っていた。校庭にはサッカー部だろうか、ボールに群がる数人の人影が見えた。わらわらと動いて蟻みたいだ。
風が髪の毛をさらう。首元が寒い。私が今ここから飛び降りたら、校庭にいる生徒たちは驚くだろう。私が自殺したという爪痕を生々しいほどに遺せるに違いない。
一歩前へ進む。フェンスを両手で握る。冷たさを感じる。このフェンスを乗り越えたら、もうあとには戻れない。
もう私には何もなくなってしまった。私は友達の前で誤った発言をした。何が友達の機嫌を損ねたのかは分からないけど、理由もなく私の元から離れていくことなどしないはずだ。私は何か失敗をしたのだろう。別にいじめなんかじゃない。人から酷いことを言われたりするのがいじめなんだ。人から避けられて一人ぼっちになるのはいじめじゃないはず。
だからこそ、これの対処法なんてない。嫌いな人を無理して好きになることは出来ないし、人に言われて一緒にいられるのは酷くみじめだ。
どこかで期待している。私が死ねば離れていった友達は後悔するんじゃないかって。後悔させてやりたい。そして、私を一生忘れないでほしい。そんな形でしか自分の存在を刻めない自分に、ほとほと失望する。
一歩前へ進む。フェンスを乗り越える、ただそれだけのことが酷く勇気がいる。フェンスを乗り越えてしまったら、きっともう戻れない。あとには引けなくなる。私が死ぬまであと何分だろう。ごちゃごちゃ考えるこの頭も、なくなって無になるのだろうか。
ギュッと目をつむる。唇の裏を噛み、恐怖を誤魔化す。
突然甲高い声が耳を打つ。
「ぴーぴー」
反射的に目を開けると、目の前に一羽の鳥がいた。鮮やかな青い羽根を持つインコ。夕日を背にしたその鮮やかすぎる青は、私の心をざわつかせるのに充分だった。インコの顔の模様は、どこかの民族の化粧みたいだ。自然にこういう模様で産まれてくるなんて、不思議。不思議なことはもっとある。こんなところに何故インコが? インコは左右に小刻みに移動する。まるでダンスを踊っているかのように。そしてまたピーピーと鳴いた。何かを訴えているのだろうか。
ふと、脳裏に蘇る記憶。中学一年の時、友達のあやねの家に遊びに行ったことがある。確か、千咲と陽菜ちゃんも一緒だった。あやねの家は狭くて、古びたアパートの一階だった。暗くて湿って仄かにカビ臭くて、でもあやねはそれを全く気にしていないかのように笑顔を絶やさなかった。六畳一間のあやねの部屋は、やけに大きな本棚が部屋をより狭く感じさせ、窓からの光も頼りなく、外は雨かと思うくらい薄暗かった。ベッドがない代わりに色ぼけたふすまがあり、布団を敷いて毎晩寝ているのだろうと思った。真ん中に半透明の四角いローテーブルが置いてあり、私たちはそこに座って身体を縮こませていた。目のやり場に困り、視線は床を滑る。
でも、あやねは私たちの困惑に気付いているのか気付かないふりをしているのか、メロンソーダをガラスのコップになみなみと注ぎ「これクリームメロンソーダだよ〜。これ美味しいんだよー」と言って持ってきた。
そんな居心地の悪いあやねの部屋の片隅にインコはいた。四角い鳥籠に入れられた青いからだのインコは私たちに構わず喋り続けた。
ピーちゃん。ピーちゃん。おなかすいた。ピーちゃんかわいい?
ピーちゃんという名前のインコは甲高い声で自己主張をする。私たちは最初は和んだものの、同じことを何度も繰り返すものだから反応に困り、千咲と陽菜ちゃんと私の苦笑いが混ざり合って、嫌な沈黙が訪れた。
あやねはそれでもいつもと変わらず笑っていた。今思えばあやねが無理していたであろうことは分かっていた。あやねの家に行こうと言ってしまったのは私が最初だから、あとから申し訳なくなった。でも、その後もあやねは今まで通り仲良くしてくれた。
そんなあやねだからこそ、あのとき私は言えたんだ。
「辛い。学校なんてもう生きたくない」
って。
なんてことない、ちょっとしたすれ違いだ。そう今なら言えるけど、当時は『戦争』だと感じていた。そしてそれは血を流さない『冷戦』だった。
私が陽菜ちゃんの気になることを言ってしまっただとか、それで陽菜ちゃんが私にそっけなくなっただとか、簡単に言えばそんな感じのこと。陽菜ちゃんは千咲を味方につけた。私はグループでいづらくなった。心は明らかに離れてしまっているのに、一緒にいることはやめず、沈黙が訪れないようにどうでもいい話で間を繋ぐ。でも陽菜ちゃんが千咲に私の悪口を言っているのも、私抜きで陽菜ちゃんと千咲とあやねが遊んでいるのも分かっていた。分かるようにやっていたのだ、と思う。
やがて私は疲れてしまった。だから学校からリタイアしたかった。
私は浅はかで馬鹿だから、あやねに気持ちの一部を打ち明けた。どうせ表面上の慰めの言葉しかもらえないだろうと思っていた。それでもあやねの言葉がほしかった。
あやねは視線を落とした。
「私もね、辛いときあって、本当に死にたくなるくらい辛くて……私、馬鹿だからこんなことしか言えないんだよね」
いつも笑顔を絶やさない彼女が、少しだけ寂しそうな顔をし、顔を上げ私をまっすぐ見つめる。
「――生きて」
あやねの静かな声が、心に沁みてぎゅっとなる。別に死にたいと言ったわけではない、ただ辛くて学校行きたくなくなりそうと言っただけ。でもあやねは私の目をまっすぐ見つめて、何の恥じらいもなくそう口にした。私は一瞬固まったのち、笑った。何言ってんのあやね、私死ぬわけないじゃんー、深刻ムード重いって、ははは…。そう言って誤魔化したんだ。照れ臭かった。気まずかった。他人と真面目に話をすることは、その頃も今ですらも戸惑いがある。
けど、あのときのあやねの真剣な瞳。それを今思い出している。「生きて」という言葉が頭の中で鳴り響いている。あやねとは中学二年でクラスが別々になってから疎遠になった。ほんの一年、同じ時間を共に過ごしただけだった。それでもあやねの言葉は爪痕を遺し、今死のうとしている私を動揺させている。
インコが空を舞った。そして、私の肩にとまった。さえずりが耳元で聴こえる。足が肩に食い込んで少し痛い。痛覚は死んでいない。この痛みさえも、あと少しでなくなってしまうのだろうか。
「ピーちゃん」
私は呟いた。あやねの部屋にいたピーちゃんではないことは分かっている。ただ、思い出してしまうんだ。楽しかった頃、友達がいた頃、あやねの私を想う気持ちが蘇り、心が痛い。
心を殺して屋上に来たつもりだった。でも、私の心は殺しきれていなかった。下を覗くとあまりの高さにくらくらする。身体が呑み込まれてしまいそうになる。
怖い。
今なら、まだ間に合う。まだ引き返せる。一歩後ずさりをした。そしたら、インコが肩から飛び立ち、屋上から離れていった。一人で飛ぶインコ。
「誰かに飼われてて逃げ出したのかな」
私は呟いた。どこかで誰かがインコの帰りを待っているかもしれない。――私も、帰りを待ってくれる人はいるはずだ。
私の帰る場所。少しうざったいけどそれなりに面倒を見てくれる両親と生意気な妹がいる。今夜はオムライスだと母が言っていた。帰ったら出来たてのふわとろデミグラスオムライスがすぐに出てくるはずだ。当たり前で何とも感じなくなっていたけど、それは確かに温かい食卓で、今死んだら一生オムライスも食べられない。
いやだ、と思った。またリフレインする。
『生きて』
あやねの声。もう思い出の中でしか聞けないであろう、柔らかな中にも芯がある命の響き。
フェンスを越えたら、全てが終わる。悲しみも、辛さも、孤独も全部。でもそれと共にこの夕焼けもあやねの思い出も母の作るオムライスの香りも、全てが消えてしまう。
怖かった。何もかもなくなってしまうこと。家族を悲しませてしまうこと。フェンスを握る指が震える。フェンスの冷たさが骨にまで染みる。
私は深く息を吐いた。よどんだ濁りを全て吐き出すかのように、息を吐ききった。目をつむる。風は先ほどより冷たく、どこからか花の香りのような優しさが鼻腔をくすぐった。幻臭かもしれないけど、その香りはまるで私を慰めているかのようだった。
目を開けて前を見つめる。夕日は闇に傾き始め、遠くの空が暗くなってきている。
「……帰ろう」
自分にそう呟く。上履きが屋上のコンクリートをキュッと鳴らす。一歩、もう一歩、踵を返して歩き出す。今なら、まだ間に合う。
屋上の扉を閉める時、振り向いて空を仰ぐ。
インコはもうどこにもいなくなっていた。でも、あの鮮やかな青が目の奥に焼き付いている。「生きて」という言葉と共に。
歩き出したこの足で、どこへ行けるか分からない。でも、母の作るオムライスは私を迎えてくれるだろう。きっとすごく優しい味だ。
インコのように、私もどこかへ飛び立てるかもしれない。その先に何があるか分からないけど、未来はこれから自分の力でどうすることも出来る。
――進もう、前へ。
屋上に佇む私と、青い鳥。 月森優月 @november1102
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